0-1 夏の始まり
朝の一番の幸せとは何だろう。
もちろん、人によってその基準は異なるが、「起きなければいけない時間になったのに、惰眠を貪る」。これは、かなりの人に共通する、朝の幸せなのではなかろうか。
その意味では、荘野梓は、間違いなく幸せだった。
気だるそうに寝返りをうつ。そんな彼に、窓から降り注ぐ夏の朝日。目覚まし時計などは、当然とうの昔に止められている。
これこそ、朝の一番の幸せと言っても過言ではない。
では、朝の二番目の幸せとは何だろうか。
これも人によって異なるだろうが、「幼なじみの女の子が、毎朝起こしに来てくれる」なんてのはどうだろう。
起きなければいけない時間なのに寝ているという、万人に共通する朝の幸せと比べると、いささか人を選ぶ感はあるが、これもまた立派に朝の幸せと言えるのではないか。
そしてベッドの上で眠りこけている彼、荘野梓にとってそれが幸せかどうかは……本人にきいてみないと分からなかった。
季節は夏。7月の上旬。太陽の光が毎日等比級数的に勢いを増していく季節。
窓の外では蝉の鳴き声。抜けるような青い空に陰影のはっきりした、夏らしい雲の塊。風鈴の音。来たるべき夏休みへ向け、心を浮き立たせながら登校していく学生たち。
それら夏の風物詩は、強烈な印象となっていつも夏の思い出を際立たせてくれる。
一昨年も、去年も。
そして恐らく今年も。
梓の部屋のドアが、勢い良く開かれた。
入って来たのは、セーラー服姿の少女。
少女は、部屋に入ってきょろきょろと部屋を見回すと、大股で梓のベッドの元に歩み寄った。
その梓は、未だに全く目を覚ます気配はない。
少女は、大声で梓を起こしにかかる。
「はーい、あーちゃーん。朝だよー。起きろ起きろー!」
と叫んで、梓をゆさゆさと揺さぶる。
「んー……」
「あ、あーちゃん、起きた?」
セーラー服の少女は嬉しそうに言った。が、次の瞬間。
「……ぐー」
「ちょっとあーちゃん、起きてってば! ほら、もうすぐ8時だよ?」
無駄だった。
少女は作戦を変えた。梓の耳元に唇を寄せ、優しくささやく。
「あーちゃーん。朝ですよー。起きましょうねー」
そう言って、梓の耳にいきなりふっと息を吹きかけてみる。
「……ぐあ」
梓は驚いて体を起こした。少女はにっこり笑って、
「あーちゃん、おはよう。早く起きないと……って!」
梓は次の瞬間には、こてんとベッドに倒れ込み、再び寝息を立てていた。
「こらあ! 寝るなあ!」
少女は憤慨した。そんな声などまるで聞こえないかのように、梓は相変わらず夢の中をさまよっている様子だった。
どうやら、半端な方法では目を覚ましてくれそうになかった。
こうなったら、最終手段に訴えるしかなさそうだ。
「よーし、こうなったら最後の手段だからね!」
少女は、唇を梓の頬に寄せた。そして、
「あーずっさちゃん」
子供の頃から呼び慣れた「あーちゃん」ではなく、珍しくその名前を口にすると、梓の頬に唇を押し当てた。
「うわあああ!」
さすがの梓も、飛び起きた。
「め、めめめ、めぐ! 何やってんだ!!」
ベッドから体を起こした梓は、つい今しがた少女の唇が触れたばかりの頬を手で押えながら言った。「めぐ」と呼ばれた少女はいたずらっぽく返す。
「目が覚めた?ほら、時計見てよ。もう学校に行く時間だよ?」
梓は、言われる通り時計に目をやった。時刻は7時55分。確かに少女の言う通り、1限目の講義に出席するつもりならば、そろそろ家を出ないと危なそうな時間だった。
梓は2、3度首の骨を鳴らしてから、おもむろに言った。
「めぐ」
「なに?」
「高校はまだ学校があるかもしれないけど、大学は今日から夏休みだ」
少女は、一瞬言葉を失った。
「え?」
「え?じゃない。大学は今日から休みだ」
梓がそう言うと、少女——めぐみは素っ頓狂な声をあげた。
「えええーーっ? そんなの聞いてないよ?」
「聞いてなくても、今日から休みだ」
「ほらほら、時計見てよ。この時間じゃ、あたしもう学校に間に合わないよ?」
そう言って、自分の腕時計を指で指し示す。
「間に合わないなら、どうして俺の部屋に来る…」
「あーちゃんが悪いんだよ? ちゃんと言っといてくれなかったから」
「……俺のせいかよ」
梓の言葉を無視して、めぐみは続ける。
「こうなったら、あーちゃんがあたしを学校に送ってくれるしかないよね」
めぐみはそう言うと、くるりと振り返る。スカートの裾が、めぐみの足にまとわりつくように翻った。
「先に降りてるからね」
めぐみはびしっと手を上げると、部屋を出て階段を降りて行った。
梓は、起き抜けの乱れた髪を掻き回した。
「……降りるか」
めぐみの強烈な目覚ましのお陰で、梓はすっかり目が覚めていた。その表情は、まんざらでもない様子だ。
彼にとって、めぐみの目覚ましは、二番目かどうかはともかく、それなりに幸せである事に間違いはなさそうだった。
階下に下りた梓をまず迎えたのは、梓の母親早智子だった。
「おはよう、梓」
そして早智子は続けて、
「私もほっぺにキスしてあげようか?」
めぐみのおしゃべりに、梓は天を仰いだ。
「勘弁してくれ」
梓は、食卓においてあった麦茶の瓶を取り、コップに注ぐ。一気に飲んだ。
「めぐみちゃん、麦茶はどう?」
「あ、いただきます」
早智子の問いにめぐみが答える。
「じゃ、ちょっと待っててね。すぐだから」
梓は、呆れたように呟いた。
「母さんはめぐを甘やかし過ぎだって」
「あら、梓。拗ねてるの?」
「誰が」
梓は肩をすくめた。
すると、めぐみがそばに寄ってきた。
「あーちゃん、おはよ」
「ああ、おはようめぐ」
梓の頬は僅かに赤く染まっていた。
「って、もう八時回ってるぞ。お茶飲んでる場合か?」
めぐみは、にっこりと笑って答えた。
「大丈夫だよ。車なら十五分だから。宜しくね、あー
ちゃん」
「宜しくって……」
「お願いします、運転手様」
めぐみのその言葉に、梓は苦笑するしかなかった。
荘野梓は、今年の春から大学一年生になった十八才。自宅から大学に通っていた。独り暮しに比べれば、確かに何でも自由という訳には行かなかったが、逆に今までと何ら変わらない生活は気楽でもあった。理解ある両親と幼なじみのめぐみのお陰で、そこそこ自由で、今までと変わらない大学生活を、梓は楽しんでいた。
そして(天野/あまの)めぐみは、梓の幼なじみだった。梓の家の真向かいがめぐみの家だった。梓より二つ年下の高校二年生。腰と背中の真中で切りそろえられた長い黒髪が陽光を受けてきらきらと輝く。
その容貌は日本人形を思わせ、梓と並んで立つと、ちょうど梓より頭一つ分背が低かった。
梓は、早智子から受け取った2杯目の麦茶をも、一気に飲み干した。
めぐみがそばに寄ってくる。
「で、あーちゃん。あたしを学校まで送ってくれるの?」
梓は、「ああ、もちろん」
めぐみの頭をぽん、と叩くと答えた。
何だかんだ言って、めぐみに頼りにされるのは悪い気持ちではない。梓は、めぐみの頼みを快く引き受けた。
「やったあ! さすがあーちゃん!」
めぐみはそう言って梓の腕を取り、にっこり笑顔を浮かべた。いつもの朝の風景だった。
梓は、「しょうがないなあ、ったく」
そう言って、寝癖のついた後ろ頭をかいた。こうなってはめぐみの言う事を聞くしかないだろう。毎度の事だ。
「宜しくお願いしまーす」
そう言ってぺこりと頭を下げる。めぐみの方はお気楽なものだった。
梓はテーブルの上から、早智子の軽自動車の鍵を取った。
「母さん、鍵借りるよ」
「はい。初心者マークは忘れずに安全運転でね」
早智子は優しく微笑んだ。梓はこの春に運転免許を取ったばかりの、バリバリの初心者ドライバーだった。
「めぐ、行くぞ。準備はいいのか?」
「うん。準備万全!」
めぐみはぐっと握った拳を、梓の前に差し出した。梓はその拳に、勢い良く掌を合わせる。ぱちんと小気味の良い音が響いた。
「じゃ、母さん行ってくるよ」
「気をつけてね。めぐみちゃんも」
「はい。おば様、行って来ます」
めぐみはびしっと敬礼のポーズ。それに合わせるように、早智子もいくぶんゆっくりとではあるが敬礼を返した。
梓が居間を出た後で、めぐみはくるっと振り向いて梓の後を追った。
「うわあ、外はやっぱり暑いね」
めぐみは、手で厳しい日の光を遮った。梓は、
「そりゃ、夏だからな。これからもっと暑くなるぞ」
そう言うと、めぐみはまたもくるりと1回転した。
「ねえあーちゃん。今度の日曜、どっかお出かけしようよ。あーちゃんの運転で」
梓は、少し考えてから頷いた。
「いいかもな。今年は車で行けるし。海に初泳ぎにでも行くか?」
「海! いいね! あたし、お弁当作るよ!」
めぐみは胸の前で両手を合わせた。
「あーちゃん、メニューはリクエストきくよ。何がいい?」
「何でもいいよ。めぐが作るんなら間違いないだろうし」
「何でもいい、が一番困るんだけどなあ……」
めぐみは困ったような笑みを浮かべて首を捻った。
「ま、考えといてよ」
「ああ、わかった」
梓は頷いた。
「あは、楽しみだね!」
めぐみは軽やかにステップを踏んで、駐車場へと続く段を飛び降りた。長い黒髪が滑らかに波打つ。梓はゆっくりと車へ近づき、ドアの鍵を開けた。
梓は、助手席のドアを開けてやってから、早智子の車の運転席に乗り込んだ。めぐみも助手席に腰掛ける。
「めぐ、ちゃんとシートベルト締めろよ。もし締めてなかったら俺が捕まるんだからな」
「分かってますって」
めぐみはシートベルトを引き伸ばし、ソケットにかちんと挿し込んだ。そして少し不満そうに言う。
「でも、もしあーちゃんが事故起こしたら、怪我が酷いのは助手席のあたしの方なんだよ。不公平だと思わない?」
梓は吹き出した。
「ばかったれ。縁起でもない事言ってるんじゃないっての。行くぞ」
梓はエンジンキーを捻った。軽自動車特有の、薄っぺらいエンジン音があがる。
アクセルを踏み込む。車は、ゆっくりと通りに出た。
前後に貼られていた初心者マークが少し侘しかったが、車は軽快に朝の路地を大通りへと向かって行った。