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「お嬢様。あの男は誰なんですか?」
「キルヒアイス様よ。私は赤薔薇の紋章を受け継いでいるけど、あの人は黄薔薇の紋章を受け継いでいるわ。一ヶ月くらい前まで、私の婚約者だった人よ」
「……元婚約者ですか」
アルスが後ろからついてくるキルヒアイスとサヤを見た。声は聞こえないけど、色々言い争っているようだ。アルスも元婚約者の前で、女を口説いている男だと気づいたようだ。
「どこが良かったので?」
「顔」
「さすがです。お嬢様」
どーいう意味よ。
街の雑踏を抜けて、轍が続き、羽虫が浮き上がる雪のように舞った。歩みにあわせて蛙は小川に飛び下り、草むらに隠れて虫たちが鳴いている。
私たちが目指したのは街の校外だった。
坂道を何度か繰り返して、峠を越えると、目の前に盆地があらわれた。
見渡す限りに緑が広がっているはずなのに、そこには白が広がっていた。処女雪のゲレンデのように美しかったが、蒸気が立ち込めていた。白の正体は毛織物や絹織物だ。それが盆地の果てまで広げられていた。
「これは凄いですね。壮観と言いますか……」
「あれ、知らないの? 色を漂白しているのよ」
白の間を女たちが歩いて、桶からひしゃくで水を汲み、織物に絶えずかけている。蒸し暑さのためか薄着で、裸足で作業をしている人もいた。
野原の露にさらして、光合成による酸素にさらすことで漂白することができる。この野ざらしの漂白は西洋では数百年前まで行われていた。どうしてそれで漂白されるかは分からなかったらしいけど、科学が発展して酸素に漂白作用があると証明されたらしい。
「ほー、こうやって白くしているんですね」
「そうよ。凄いわよね。白への執着って」
日本にいたときには考えられなかったけど、実際目の前に織物が広がり、汗水流しながら、織物をぬらしている女たちを見ると、人間の果てし無い欲望にため息がでた。特に白は汚れやすいので、その追求は見渡す以上に凄まじいものなのだろう。
「たまらないなぁ」
「はしたないですね。お嬢様」
「凄いと思わない?」
「確かに凄いですが」
大掛かりな白への追求の終着点は、塩素による脱色へと繋がる。ここまで言えば分かると思うけど、私は塩素をこの世界に流行らせようとしていた。なので、今回、どのようにして漂白しているか確かめに来た。というのもレースは白が命だった。
白がより至純なら、再び私たちのレース生地に希少価値が出る。
「アルス、今度は錬金術師を探して」
「えっ、また何かするんですか」
錬金術師というと怪しい人間と思うかも知れないけど、有名なマイセンも錬金術師が産みだした。私は科学者の前身に錬金術師がいると思っている。
「そーよ、また忙しくなるわよ」
「有給をください。お嬢様」
「駄目よ」
「たまには休みを……」
ただ一つだけ気になったのがあった。それは、見た目以上に重労働な漂白作業は主に女性たちが行っていることだった。塩素を開発してしまえば、この人たちの働く場所がなくなってしまうかも知れない。
江戸時代に千歯扱きが現れたときは、労働を奪うものと言われ、後家倒しと言われたこともあり、女たちの労働を奪ったと言われている。技術の発展の末の出来事だけど、恨まれる可能性があった。
それは仕方の無いことだと思うけど、分かっていてそれをしようとするのは心苦しかった。なので、塩素の漂白技術は門外不出にして、出来るだけ労働力を奪わないようにしよう……。本当だったら、技術を開放して、市場を活性化させたいけど、今はまだその段階ではない。
「お昼にでもしましょうか?」
ほうれん草と玉ねぎ、砕いたチーズ、おろしたチーズで作ったパイを3人分だした。アルスの分は、玉ねぎを抜いている。ギリシャ料理のスパナコピタだ。
キルヒアイスが「俺の分は」と言った。
誰もが思った。
自分で用意しろ――と。
「パリパリしていますね。美味しいです。ミレディ様!」
「湿るかと思ったけど、大丈夫だったみたいね」
玉ねぎの甘みと、二種類のチーズの味が口の中で広がり、口に含むたびに味がしみ渡る。
私たち三人が食べるのを、キルヒアイスは指をくわえて見ていた。
視線が気になる……武士の情けだ。
スパナコピタを半分に分けて、キルヒアイスに渡した。
「キルヒアイス様、どうぞ」
「良いのかい?」
はよ、くえ、黄色いの。
キルヒアイスは賞賛しながら食べた。
「君がこんなに料理が美味いとは思わなかったよ」
ただのギリシャ料理だけどね。
まあ、褒められたら素直に受け取ろう。
私たちは街へ帰ることにした。私は何となくサヤのステータス画面を開き、愛情度を確認してみた。
愛情度は100がMAXである。
キルヒアイス:5。
父親:50。
ミレディ:165。
……ば、ばぐっている……カンストしていないよ……。
ますます私ルートに近づいているのを、ひそかに恐怖しながら私たちは館へ帰った。