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 本の独特の臭いは日焼けせいか、風化のせいか、それとも紙魚シミのせいか、とにかくその本の匂いを覚えている。

 その後に、香った匂いが永遠の物になったから、覚えているのかも知れなかった。

 両目にかけていた本があがり、制服姿の女の子が何かを話しかけてきた。

 良い匂いがした。

 そのとき、窓が開いていなかったら、風は匂いを運んでこなかったかも知れない、清潔で甘い香りが眼鏡を掛けた女から発せられていた。

「七尾君……ここ図書館なんだけど」

「んっ……」

 俺の名前を知っているようだ。

「歩くところで寝ていられると、本を借りたい人に迷惑でしょ。寝るなら家で寝てください」

 反論は無かった。

 彼女の言うとおりだったからだ。

 でも、俺は少し感動していた。

 俺は高校に入ってから、女の子と話をしていなかった。

 話しかけられるのは随分と久し振りだったからだ。

「特にここは、恋愛小説の棚なんだから、人気あるのよ」

「わかったよ……なら、椅子にでも座ろうかな」

「座ってもいいけど、寝たら邪魔扱いされるよ」

 図書館の席は勉強する人たちが大勢いた。

 本を読まずに勉強をしているが、図書館は勉強する人たちは受け入れるようだ。

 あー、やだやだ。

「なら、本でも読もうかな?」

「七尾君も、本を読むんだ」

 この女、なんで俺の名前を知っているんだろう?

 まさか、惚れられている?

 いや、そんなことは無いか。

「児童文学は好きで読んでいた。『三銃士』とか『岩窟王』とか。あとマンガ」

 手を伸ばして適当に指で表紙を撫でて、指の意思にゆだねた。トルストイの『クロイツェル・ソナタ』だった。よりにもよって大文豪の作品だ。

「あらら、トルストイ」

「こう見えても、現国70点」

「なら、頑張って」

 他の連中が勉強している中、本を読んでいるのは俺くらいだった。

 久し振りの読書はナカナカ進まなかった。

 何度も同じところを読み直して、徐々にページをめくり、眠くなり、もう一度同じところを読むのを繰り返していると、いつの間にか暗くなっていて、誰もいなくなっていた。


「もう、図書館閉めるよ。七尾君」

 女の子はピーコートを着て、すでに鞄を持っていた。

「鞄は?」

「教科書全部学校に置いている」

 そう――微笑んで、一緒に図書館を出た。並んで歩いている間も、爽やかな香水の匂いが気になった。

「香水つけているの?」

「あっ、ごめんね。臭かった? 寝る前につけたやつだよ」

「寝る前に?」

「スッキリして寝やすくなるんだよ」

 驚いたことに、女の子は同い年だったようだ。それどころか、靴箱入れも近かった。

「いやいや、隣のクラスだよ」

 彼女の名前は、美雪。

 俺のクラスと彼女のクラスは体育の時に合同で授業を行うため、彼女は俺の名前を覚えていたそうだ。

 一方の俺は彼女の姿すら覚えていなかった。

 記憶力の差を勉強以外で見せつけられるとは思わなかったな。

「まあ、目立たないようにしているからね」

「どうやって?」

「地味な眼鏡」

 美雪の言うとおり、ぶ厚い眼鏡だった。


 校門で俺たちは左右に別れた。サヨナラの挨拶はそっけないものだった。

 帰り道が一緒なら良かったのに、嘘でもしばらく一緒に歩けば良かったと後悔した。


 次の日も、図書館へ行って、カウンターに座っている美雪を見た。

 白波がたったように心が惑った。

 彼女は『若きウェルテルの悩み』を読むために、眼鏡を外して冷め切った眼で文字を追っている。眼鏡を外すと地味の印象が無くなり、端整な顔立ちだと分かった。そして、真剣な眼差しは、ひどく大人びて見えて、コンタクトレンズにすれば良いのにと心から思った。

 自分の美しさを知らないのかな?

 と、思ったけど、昨日――地味な眼鏡――と言ったので、それなりに自覚はあるのだろう。


 俺は昨日と同じ本を手に取り、頭から読み始めた。昨日も繰り返し読んでいたので頭には入っているけど、何故か最初から読みたかった。

「最初から読むんだね」

 眼鏡を掛けた美雪が俺の横の椅子に座った。

「なんとなくね」

「良い読書の仕方はね。繰り返し繰り返し読むことなんだよ。そうすると、その本の全てが心に刻まれるの。分かっているけど、色んな本を読みたくなっちゃうのは、本好きの悲しいところだよ」

「美雪さんみたいに、早く読むようになりたいよ」

 カウンターで読んでいるのを見たら、美雪の読むスピードは早かった。

「読む早さなんて気にしなくていいよ。自分が好きなように読めるのが小説の良いところなんだから」

 美雪の言葉を聞いてから、俺は繰り返し小説を読むようになった。おかげで俺の蔵書は少なかったけど、どれも何度も繰り返して読んで擦り切れていて、俺の中で生きている。


 本を読み終わり、余韻に浸りながら、ぱらぱらとめくっているうちに、また帰りの時間になった。

 美雪が目の前に来て、一緒に帰った。

 外では部活動がまだ続いている。

 校門でまた別れるかと思ったけど、彼女は俺と一緒の方へついてきた。

「どうしたの? 家はあっちじゃ……」

「……ストーカーがいるの。だから毎日帰り道を色々変えているの」

 無理も無いといったら、ストーカー擁護になるかも知れないが、彼女はストーカーの対象になるくらいに美しかった。

 惜しむらくは、それを最初に気づいたのは同級生では無かったと言う事だろう。

「ごめんね。すぐに別の道を行くから」

「俺が一緒に行こうか?」

「迷惑かかるから……」

「……美雪が襲われたら、俺が嫌な気分になるだろ」

 さりげなーく、呼び捨てにしたけど、美雪は気付かなかったようだ。

 俺は周囲を警戒しながら、歩いていたが、怪しい人はいなかった。

 虚言かな? とも思ったけど、美雪が周囲を見渡して怯えているので嘘ではないのだろう。


 美雪の家は小さなアパートだった。

 1階の扉を開けると、中から「お帰り!」と少女の声がした。

 驚いたことに、こちらは美雪以上に美少女だった。

 明るく、活発な印象だ。

 パソコンでゲームをしていて、画面には美青年が映っていた。

「お姉ちゃん、彼氏?」

「違うわよ。友達の七尾君」

 よーしっ。

 とりあえず友達と認識されている。

 心のなかでガッツポーズをして、玄関に入る前に帰ろうとした。

「あがっていく?」

「えっ」

 これはまさかの良い展開。

「コーヒーの1杯でも……送ってくれたお礼にね」


 ありきたりなブルーマウンテンだが、豆は近くの喫茶店から余ったものを貰っているらしく、缶コーヒーとは比べられないほどに美味しかった。

 淹れ方も珍しくて、エアロプレスという手押し式を使っていた。美雪曰く、フィルターを買うのが勿体無いからだそうだけど、エアロプレスのコーヒーは驚くくらいに美味しかった。

「砂糖はいる?」

「わたしはいるよ」

沙耶サヤは自分で淹れなさい」

 妹の名前はサヤというのか……。

「お姉ちゃんの意地悪」

 美雪は言葉とは裏腹にコーヒーを淹れて、ミルクと砂糖を混ぜていた。サヤの味の好みを知っているのだろう。美味しそうに飲んでいた。それだけで、この姉妹の繋がりが感じられた。

「ありがとう。ご馳走様」

「また、明日も図書室に来る?」

「うん。行く気だけど」

「だったら、明日も送ってくれないかな。七尾君が良ければだけど」

 喜んで!

「あっ、うん。いいよ」

「良かった……ありがとう」

 サヨナラを言い交わして、扉が閉まった後に、見えないところでガッツポーズをした。

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