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転章

 虫の誘い音は消え、汐の音と香りが濃く漂う。

 だが、それすら消えてしまった。

 水道橋と星空しか見えなくなり、しばらくすると天も地も星影であふれた。漆黒に乳を吹きかけたように輝いている。デタラメな星の配置だと考えると虚しさもあるけど、ここでしか見られない景色なのは変わりなかった。

「すごい綺麗だね」

「ここは、もう海だから」

「海?」

 さきほどまであった汐音も香りも消えていた。

「製作者もここまで来るとは思わなかったんだろう。海と表現されていたものは通り過ぎたんだ。ここは味気のない海だけど、海だよ」

「じゃあ、生き物もいないの」

「そうかもね。調べていないから分からないけど」

 私は水道橋から踏み外して落ちないように気をつけながら歩いた。

 月が昇るころに、疲れて休むことになった。

 しばらく空を眺めて、流星が来ないか待った。


 待つのに飽き、空腹を紛らわすために2人で横に並んで、他愛の無い話をした。

 私はヴィクターが来る前の話、ヴィクターは出口を探していたときの冒険の話をした。

 積もる話は尽きなくて、いつの間にか横になって寝ていた。

 目覚めは太陽と一緒だった。

 いつの間にか粉雪が薄く降っていて、体に積もっていた。だけどヴィクターがいつの間にか外套をかけてくれていたので寒くはなかった。体を起こすと、雪は外套から滑り落ちた。

「おはよう」

「おはよう」

 海は朝陽で輝いており、さざなみすらなかった。死んだような海で、鏡といっても通じそうだ。私は積もった雪を丸めて海に落としてみた。それは波紋すら立てずに沈み込んだ。


「陽はまた昇る」

 太陽は海面に反射して、体を燻すように温めてくれた。

 冬だと言うのに、午前中は汗ばむくらいに良い天気だった。

 悪くなったのは午後からだ。

 水気のある雪が降り、水平線の果てまで白が落ちていた。

 ゆっくりと落ち、ポトポトと海に吸込まれた。

 ケセランパサランがふわふわと浮いているようだ。

 すでに距離感は無いけど、徐々に出口へと近づいていき、とうとう水道橋の果てに小さな点が見えた。

「あれが扉だ」

「あれが――」

 どこまで来たのだろう。

 振り返ってみると陸地は見えなかったけど、水道橋を歩く、誰かの姿が見えた。

「誰だろう」

「アラミスでもサヤでも無いだろうね」

 ヴィクターにはサヤのことを何で転生者だと思ったか聞いていた。

「彼女がこのゲームの主人公なのは知っていた。モブキャラの俺が転生しているなら、主人公が転生してもおかしくない、と思ったのもあるけど。彼女、誰でも魅了する美しさがあっただろ。何度か心を奪われそうになったから――あいつも連れて行くべきなのかなって」

 ほほう。

 やはり一目惚れがどっちか分からなくなったのか。

「カマかけたら、本当に転生者だったが、今は助けることはできない」


 世界の果てに到着した。

 この世界のどの建物よりも大きい扉だった。木製の枠が経年変化で良い光沢をしていた。

「やっと到着だ」

「これで終わり」

 扉の横から奥を覗くと、水道橋は無く、見渡す限り海だった。扉が水源だった。流れていた水は、現実世界からの点滴なのだろうか。

「あとは開いて、入るだけだが」

 ヴィクターは後ろを振り向いて、後から追いかけてきている人を見た。

「1時間も待てば……」

「ここに来るね」


 追いかけてきたのはアルスだった。

 息を切らして、私たちの前に走ってきた。

「アルス……来ちゃったんだ」

 ここまでの道のりの景色を見たら、アラミスで無くてもおかしいと思うだろう。変になってもおかしくなかった。

 でも、アルスは私の知っているアルスだった。

 いつも通りの表情だった。

「お嬢様、置いていかないでください」

 アルスは膝をついて、頭を下げた。

「アルス。止めて」

 私も膝をついて、頭を上げさせると、眼を真っ赤にして泣いていた。

「ヴィクター様……私からお嬢様を奪わないでください」

「ミレディは自分の意思でここに来たんだ。それを尊重しろ」

 ヴィクターはアルスへ返答した。

「ごめんね。泣かないで」私は少しだけ迷ったけど、アルスには言うことにした。「やっぱり、アルスだけには言うべきだったわ」

「おい、まさか……」

 最初は、ヴィクターは止めようとしたけど、私に任せてくれた。

 アルスに全ての真実を告げた。

 話を終える頃には、夕焼けになっていて、海も橙色に染まっている。

 黄昏――誰そ彼の時間帯は、表情の判別もつかなくなった。

「ここはゲームの世界……」

 静かに受け止め、吟味していた。

「そういうことだ」

「……そうですか」

 呆然としているけど、取り乱してはいなかった。


「……お二人は、何故この世界に来たんですか?」

 それは――分からなかった。

 だけど、戻ればそれが分かるはずだ。

「理由は記憶の彼方だ」

「ゲームの主人公はサヤ様なのですよね? だとしたら、最初に、この世界に入ったのはサヤ様と考えて間違いないと思います。最初にサヤ様がこの世界に閉じ込められた」

「推理か?」

「はい、あくまで推測ですが」

 ヴィクターは眼を閉じて、アルスの言葉を聞いた。

「お嬢様にはヴィクター様の『連れて戻って来い』の記憶はありません。そう考えると、お2人は別々の考えで、ここに来たと考えられます。考えられるのは、時間差ですね。最初にお嬢様が助けに来て、次にヴィクター様が来た」

「同時期とも考えられるだろう?」

 時期が別々と考えると、ヴィクターの名前の理由も説明がつくかもしれない。ヴィクター・バデノック。唯一、姓と名がある。それは後から作られたキャラだからかも知れない、製作者が違うから統一されていない。


「お嬢様は頭痛が2回、ヴィクター様はありません。例外もあるでしょうが、時間があればそのぶん記憶が戻る機会が増えます。それに――後から来たとなれば、前世の記憶を消す精度が上がるのではないでしょうか? 技術が年を経て進化するように、だからヴィクター様は頭痛が起きていない」

「ここに理由があってくるなら、支障のきたす要素は排除するはずね」

「そう考えると――サヤ様は記憶を持ったままこの世界に来て、記憶を吹き飛ばされてしまった。と考えられないでしょうか。そして、出ることが出来なくなった。それを助けるために、皆様が来られた。そう考えれば話の筋が通りそうですが」

「サヤの『助けて』――あれは消えかけているサヤの叫び声か」

「そうです」

「だったら俺は、サヤを連れてくるべきだったのか」

「いいえ――私は見ていませんが、聞いた内容だと、力づくで連れてくることは不可能でしょうね。なので、ヴィクター様はミレディ様を連れて戻る――それは間違いないと思います」

「そうなると、私は何のためにきたのかしら」

「サヤ様を助けるためだと思いますが」

 私がこの世界でしたことと言えば、未来のファッション知識をばら撒いただけだ。その結果、ある程度影響力のあるファッション会社を作ることができた。私がいなくてもアルスがいれば回るくらいにはなっている。

 アルスがいれば……。


 アルスはまた話し出した。

「お嬢様、すみません。以前、私の過去の話をしましたが、本当の事を言っていません」

 告白された時に過去の話を聞いていた。

「私はお嬢様に会う前の――記憶の実感がありませんでした。ですが、それでも色々なことができました。その理由がやっと分かりました。お嬢様が私を産んだのですね」

「そういうことか……」

 ヴィクターが笑っていた。

「おそらく、私はサヤ様を助けるために産まれたのですね」

「えっ? えっ? どういうこと」

「おかしいと思っていたんだよ。俺とかオーリはサヤに魅了されないように避けていたり、見ないようにしていたけど、アルスだけは全く平気だった」

 そうだったっけ?

 たしかに魅了されているところは見たこと無いけど。

「サヤに対抗するには、サヤの魅力に勝てなければならない。その魅力は同性のミレディにすら抗えないが、アルスにはそれができる。というのも、アルスはミレディ以外眼中にないからだ」

「……でも、雌猫たちを優先的に雇用していたような気がするけど。ハーレムを作ろうと画策していたんじゃないの?」

 下心があったんじゃあ……。

「同族だから優先して雇用したんですよ。仲間が奴隷になっていたら、優先的に助けると思いませんか? ――というか、そういうふうに思っていたんですね。悲しいです」

 ……そうだったのか。

 ごめん、今まで勘違いしていた。

「アルスはお嬢様が創り出した芸術ってところか」

「芸術って、それ程のものではありませんが」

「自分の名前の由来を知らないのか? アートの語源は、ラテン語でアルスと言うんだよ」


 大きな両開きの扉を、私が左、ヴィクターが右を押した。大きな音をたてて開き、白い景色が広がった。どこかの箱の中のようだ。上と下に変な黒い線があり、それは睫毛だった。

「眼――かな」

「後はここを潜るだけだ」

 ふと空を見上げると太陽は沈み、満天の星空となっていた。扉を開いたせいだろうか、星は現実世界と同じ配置になっていた。南の空にペガスス大4辺形が見えて、北の空にはカシオペヤ座が見えた。大星雲が私たちに降り注ごうとしている。

 アルスは感動して、空を見上げていた。


「後は、私に任せてください」

「どうするつもりなの?」

「サヤ様に戻る意思が芽生えるようにするつもりです。とりあえず会社を大きくしようかと思っています。それでも足りなかったら、私にはお嬢様の教えてくれたことが色々ありますから、それでサヤ様がこの世界が偽物だと自覚するようにします」

 日記には奴隷解放と、店の権利をアルスに譲渡するように記していた。アルスは自由に実力を発揮できる土台はできていた。

「悪いな、後を任せてしまって」

 ヴィクターが頭を下げた。

「止めてください。ヴィクター様。私はそのために産まれたのですから、むしろやる事が分かって、清々していますよ」

 ヴィクターは苦い顔をしていた。

「心残りなのは、お嬢様ともう踊れないことですね」

「だったら、ここで」

 踊りましょう。と言いたかった。

「……そうだ。お嬢様、お願いがあります。サヤ様を助けることができたら、もう一度踊ってください。お嬢様。そのために、頑張りますので」

「それで良いの?」

「それで、頑張れますから」

 私は約束をして、アルスを抱きしめた。

「ありがとう」

 アルスから離れて、扉へと近づくと、奥の景色が慌しくなっていた。

 私は振り返り、日記に書いた別れの言葉を呟いた。

「またね」

 再開を願う別れの言葉だった。

 私とヴィクターは二人並んで扉を潜った。



「戻ってきたぞ! やった。成功だ」

 見たことの無い医者が顔を覗きこんでいた。

 天井が動いているので、どこかへ移動しているのだろう。

 聞き取りづらい雑音の中で、聞き慣れた声が聞こえた。

「駄目だ。動くな。急に動いたら」

「うるさい! どけ!」

 その人は這いずるように、私のベッドに来た。

 ヴィクターだった。

 いや、その名前は偽物だ。

 彼は私の手を握り締めて、泣いていた。

「君を見つけたよ。美雪」

 私の夫が涙を流していた。

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