36
「そうだ……頭痛はあった?」
「頭痛ですか……ありませんが」
頭痛で倒れたのはヴィクターも一緒にいたときの話だったのでスンナリ話をすることができた。
「好きな人ですか……頭痛が無いってことは、本物の俺って恋をしなかったのかな……非モテな俺」
ヴィクターのテンションが下がっていた。
「俺も時々は思い出しますが、そういうことはありません。ただ、そういうことが起きるなら――やはり帰るしかありませんね。前世の記憶が消えてしまえば、俺たちに残るのは何でしょうね」
私たちは話を終えて、劇場の外へ出た。
ヴィクターが路地の奥を見つめて、少しだけ首を傾げた。
「どうしたの?」
「何かがいたような」
こんな寒空の下に、誰かがいるのだろうか。
そのせいか私たちは早歩きになった。
鞄の中で大きな音がなり、日記の存在を思い出した。
鞄に入れたままだった。
書くだけ書いて、置いていかないなんてアホ過ぎる。
「館に戻らないと」
「戻るのですか。……まあ、大丈夫だと思いますけど、急ぎましょう。ただ、別れの挨拶はしない方がいいですよ。決意が鈍りますから」
玄関の鍵をゆっくりと開けて、音を立てないように寝室へ向った。
猫達はそれぞれの部屋で寝静まっているようだ。
外出から帰ったときは、いつも起こさないようにしているので、音が聞こえても気にしていないだろう。
ヴィクターを玄関で待たせて、部屋に入って、日記を置いた。
アルス、三毛、トラ、その他の雌猫たち、オーリとサヤにも別れを告げていなかった。
サヨナラを言いたかった。
だけどヴィクターの言う通り、顔を見たら決意が鈍りそうだ。
せめてアルスだけにでも別れを告げようと思い立ち上がると、木が粉々に砕かれたような音が響いた。
玄関からだった。
何かが来た。
足音が響いて、近づいてくる。
「俺だよ」
アラミス。
愚弟と言った方がいいかもしれない。
アラミスは炯々とした眼で睨んできた。
ヴィクターはどうなったんだろう。
「姉上……聞きたいことがあるんだけど」
「なに……」
このタイミングで来るなんて……。
いや、待ち伏せされていたのか。
ヴィクターが劇場の外で感じた気配はアラミスだったのかもしれない。
「姉上さ、そんなに本を読んでいなかったし、演劇にも興味が無かったよね。どうして、劇を書けたの?」
アラミスは劇には来ていなかったけど、私が脚本したのを嗅ぎつけたようだ。そして、疑問に思ったのだろう。
今までの姉とはあまりにも違いすぎることを。
「それは――」
「姉上――いや、アンタが1番怪しい……姉上の皮でもかぶっているのか?」
ミレディにとって1番近しいのは弟だ。
弟は姉の違和感に気付いてしまったようだ。
アラミスの手には短刀があり、血がベッタリと濡れていた。
部屋には外に面したガラスがあるけど、廊下への入口は1つしかない。
逃げようにも逃げることができなかった。
「ヴィクターは」
「あいつか、眠ってもらったよ」
冒険者を軽々と?
そんな力は無かったはずだ。
「不思議か? なら、教えてやるよ。痛みがないということを」
鞄をあけると鳴き声と共に、猫が顔を出した。アラミスと一緒にいた猫だ。アラミスが首根っこを掴みあげた。
あるべきところに、あるものが無かった。
「この前、馬車の車輪にひかれて、胴体が真っ二つになった――だが生きている。どういうことだ?」
それが疑問に気付いたきっかけか……。
「分からないよ……アラミス」
「なら、答えを言ってやろうか。この世界は本当の世界ではない――本当の世界なら、この猫は死ぬはずだ。驚いたことに、切断面には骨すらない。どうだ。真実に到達しただろ?」
私が考えようとしなかったことに、アラミスは辿り着いた。攻略対象者なのでAIが強化されているのかも知れない。いや、まだ1つの可能性があった。
「あなたは前世の記憶があるの?」
転生者か確かめたかったが、逆効果だった。
「前世? ……やはり、アンタは何かしらの答えを持っているな。教えてくれ。俺は生きているのか?」
「それは――」
「なあ……見てくれよ」
眼前の映像に失神しそうだった。
まさに――ロミオとジュリエットの最後を見ているようだった。
アラミスは短刀を胸に刺して、真一文字に裂いた。
血がドボドボと流れて、すぐに止まった。
「見てくれよ。死なないんだぜ。俺は生きてさえもいないのか。これじゃあ、痛みをあるやつに負けるはずが無いだろ?」
廊下から猫たちが騒ぐ声がした。
ずっと騒いでいたのかも知れないけど、やっと耳に届いた。
でも――。
「駄目だ! 来るな!」
猫たちをアラミスと会わせるわけにはいかなかった。
猫たちまでこの世界が偽物の世界だと知ってしまったら、アラミスのようにおかしくなってしまうかも知れない。
それだけは耐えられなかった。
それだけは……嫌だ。
「死が無いなんて耐えられない」
アラミスは短刀を抜いて、私に向ってきた。
「いや……」
「なあ……オネエちゃん……」
その言葉に記憶がフラッシュバックして、頭痛が襲ってきた。
こんな時に……。
逃げ道はなかったけど、これでは抵抗もできない。
1歩。
また、1歩、近づいてきた。
その時、狙ったようにガラスが割れた。
部屋を剣が横切って、アラミスの鳩尾に突き刺さり、吹き飛ばされて壁に磔にされた。
ヴィクターは割れたガラス窓を壊して入ってきて、綺麗な絨毯にガラスが散った。
「大丈夫ですか?」
「……玄関から入りなさいよ。一応、女の寝室よ」
「鍵をかけられたんですよ……元気そうでなによりです」
ヴィクターの左目に鈍器で殴られたような痕があった。
それは痛々しくて、アラミスの傷とは違っていた。
「眼、大丈夫?」
「もう片方がありますから」
苦しそうに笑った。
「ひひひっ……死なないんだよ。そんなことでは」
アラミスが笑っている。
貫かれても平然としていた。
「それはさっき分かった。だから、相手にしない」
ヴィクターは私をお姫様抱っこした。
「行きましょう。他にも何かが来るかも知れません」
「……うん」
私たちは窓から外へ出た。
春から過ごした館は様変わりして、ロココ調の美しい様式となっている。それは歴史の1ページではなくて、私の生活の1部だった。
凍りつく夜空のもと、泪が落ちて、氷の粒になり転がった。




