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どうするかなー、とか考えながら寝ていると、扉がノックされた。
「いません」
「いますよね」
扉は鍵が掛かっているので、内側からあけると、ヴィクターがいた。
「アルスが、俺の部屋で寝ているんですけど、何かあったんですか?」
場所を変えて、台所へ移った。
「まあ、仕方ありませんね」
「そうかしら」
「男なんて優しくされたら、すぐに好きになりますから。釣り銭を返してもらうときに、手が触れ合うだけで恋をしますからね。毎日恋だらけです」
「随分とチョロイのね」
琥珀色のウィスキーをヴィクターの前に出すと、美味そうにチビチビと飲み、チェイサーで口を洗い流した。
「酷い奴隷生活から救い出してもらい、色んな仕事を任せられて成果を出して充実感があり、夜は助け出してくれたお美しい婦人と添い寝をしている。嫌いになる要素はありませんね」
美しいのはミレディであって、私ではないけどね。
そうか……前世の記憶が無くなってしまえば、ミレディを他人目線で見る事も無くなってしまうのか。
私は前世の私を、『私』と呼んでいる。
このまま頭痛が続くと、その『私』が消えてしまう。
そうなったらどうなってしまうのだろう。
「うろたえることはないですよ。恋は独りよがりですから」
「そうだけど……」
私の狼狽を勘違いしてくれたようだ。
「それに平民と貴族の恋は成就しません」
寝室に戻っても、渦巻く考えが睡魔をはねのけた。
どうにかして記憶が蘇るのを防がないといけない。
でも、やり方が思いつかなかった。
繰り返し考えても思いつかなかったので、アルスのことを考えた。
「いつも添い寝していたから寂しいかな」
と思い、おもむろに縫い始めた。
ドールハウスの時に人形の作り方は覚えたので、案外簡単に仕事は進んだ。チクチクと縫っていくと、いつのまにか朝を迎えていた。
「はい」
朝早くに掃除を始めていたアルスは私を見て気恥ずかしそうにしていたけど、夜なべの作品を受け取った。
「熊ですか」
テディベアです。
「名前はルーズベルトよ」
「ずいぶんとゴツイ名前ですね」
「……ごめんね、アルス。気持ちは嬉しいけど」
アルスは尻尾をパタパタとさせて、小さく「すみません」と言った。
その日から寝室は大きく感じて、眠るまで暇になった。
そんなときに思いついたのが、書き物だった。
もしも記憶が消えるのなら、何かに書き記していれば、後から読み返すこともできる。
思い出したことを書いて、次に記憶に鮮明に残っている本を思い出して、どんどん書き始めた。
……どうして本とかの記憶は鮮明に残っているんだろう。
深く考えていなかったけど、それは変だった。
何か理由があるのかな。
本の記憶は譲れない点と点で衝突しあわない。
つまり、突然倒れたりする心配がない――ということだ。
覚えているのは中世より遥か後の書籍なので、絶対にぶつかりあわない。
意図的なものを感じた。
危険な記憶は消されて、安全な記憶は残されたのではないか。
もしかして、私はこの世界に来てしまったのではなくて、目的があってここにいる――のか。
ただ、その目的も記憶が無いから分からないけど、それでも来なければいけなかった。
「なんのためにここにいるのか」
生きている意味を問うよりは簡単そうだったけど、答えは見つからなかった。
秋は瞬く間に過ぎ去ろうとしていた。
私たちは注文されて服を作るだけではなく、大量生産とまではいかないけど、段階的にサイズをそろえた店をバザールの一角に借りて出店した。猫達も増やして、新参者はバザールの方へ行かせて、2箇所で仕事を行うようになった。
なので、バザールの方はアルスに任せた。避けているわけではないけど、実力を考えたらアルスを行かせる意外思いつかなかったので仕方が無かった。
そんなある日、バザールへ行く時にアルスと一緒に歩いていた。
街の中を鐘が鳴っていた。
「なんでしょうね。お嬢様」
「誰かが亡くなったみたいよ」
とぼとぼと葬儀の列が現れた。
それぞれ髑髏や棺の形をしたジュエリーをしている。亡くなった方は名のある人だったのだろう。それはメメント・モリ・ジュエリーといわれるものだ。
メメント・モリ、死を忘れるな。悪趣味なジュエリーだけど、つけているほうは弔意を表しているのは確かだった。
鐘は鳴り響いていた。
「誰が為に鐘は鳴るってやつね」
「タガタメニ? 何ですかそれは」
「詩よ。私たちはまた誰かの一部……。追悼する鐘の音は亡くなった方のためだけではなく、聞いている全ての人たちに鳴り響かせている。だから、誰が為に鐘は鳴る、と問わないでくれ。その鐘は、あなたのために鳴っているのだから。という意味。別の解釈もあるかも知れないけどね」
「よく詩なんて覚えていますね」
「読書が好きだったからね」
制服を着て、図書館にいる姿がフラッシュバックした。
適当にパラパラとめくっていた。
「寒いわね。先を急ぎましょうか」
「はい、お嬢様」
ここにいる意味は分からないけど、とりあえず生きよう。
空を覆う雲は厚く灰色で、雪が降りそうだった。




