18
風呂場から悲鳴が聞こえてくる。
「ミレディ様……何かあったのですか?」サヤが眼を擦りながらやって来た。「かなり騒々しかったのですが……」
「気にしないで……サヤ」
私はサヤの斜め後ろにあるボタンを押して、BGM調整で音をしぼった。
「あれ? 静かになりましたね」
「そうよ……これは夢……早く寝るのよ」
サヤはおとなしく寝室へと戻った。
「お嬢様……いま、何をしたので?」
「催眠術よ」
「えっ、凄い! そんなことできるんですか」
アルスにボケを真に受けられた。話とまったく関係ないところで、尊敬の眼差しを向けられているけど、気にしないことにした。
私たちは愚弟があがって来るまで暇だったので、アルスをモフモフして、耳をハムハムして、愛でていると、綺麗サッパリになった愚弟が出て来た。さすが攻略対象者と言ったところだろう。目を向くほどの美形で、ゲームをしたときと同じように天真爛漫な雰囲気がでていた。
産まれたての子鹿のように体を震わせて、周囲を確認してアルスの姿を見て小さな悲鳴を上げた。
「どうだった。楽しかった?」
「……女、怖い」
風呂場から満足した雌猫たちが菩薩のような笑みを浮かべて出て来た。愚弟は振り返って悲鳴をあげて、唯一の男であるアルスの陰に隠れた。
「雌猫たちよ。もう、寝室へ戻っていいよ」
「はい、お嬢様。ばんざーい!」
風呂に参加できなかった猫たちは悔しそうに部屋へ戻っていった。
私とアルス、そして愚弟だけとなった。
さて――どうするか。
ただ、金をあげるだけだと、いつまでも粘着される恐れがある。優しさと甘さは同じではない、私が与えるのは優しさで、甘さはいらない。
「まず、私の事を呼び捨てにするのは止めてくれない?」
「なんで、今までは――」
「今からのことを言っているの」
渋々ながらも、愚弟は私の事を「姉上」と言った。
「あなたがこれまで何をしていたかはだいたい想像ができるわ」
大金をギャンブルで溶かして、金が無くなった後は家無しで過ごしていたようだ。垢じみていたのも、その為だと思う。
「なら……」
「少しぐらいお金を稼いだことは無かったの?」
「……それは」
あれ? あるのか。
「だったら、それで再起をはかって……」
愚弟は私の前で膝をついて、ゆっくりと頭を下げた。額をぺったりと床につけて、深々と美しい土下座をした。
「土下座で恵んでもらっていた」
たいへんだ……本当のクズが、ここにいた。
アルスがなんともいえない表情をしていた。
「お金をください」
しかし、なんと美しい土下座なのだろう。
尊厳は無く、哀れみをこめ、こちらの精神を攻撃してくる。世界土下座選手権があれば、ワールドレコードを出しそうなくらい美しかった。出来るならショートプログラムだけではなく、フリーも見てみたいところだ。
……感心している場合じゃなかった。
アルスに銀貨を持ってくるようにいい、その土下座を見つめた。私が恵んでくれるまで、待つ姿勢らしい、最後まで気を張った素晴らしい土下座だ。剣道の残心と同じような志すらある。その熱意を、なぜ他のところへと向けられないのだろう。
私はアルスから銀貨を渡された。
愚弟が顔をあげた。
「ありがとうございます」
愚弟は手を伸ばして、頭を少し下げた。
駄目だ……貴族として尊厳が欠片も無くなっている。このまま渡したら、また同じことの繰り返しだ。何度も何度も金を貰うだけの生活になってしまう。どうしたら……そうだ……言葉で挑発してみよう。貴族として心が残っていれば怒るはずだ。
怒りで恥を思い出せ。
「あなたの人間として価値は銀貨1枚よ。それを認めるなら受け取りなさい」
少し表情が変わったけど、愚弟は銀貨へと手を伸ばした。
クズめ……。
いや、まだだ。
まだ、終わっていない……。
ゲーム内のミレディは弟に甘かった。そして弟は天然馬鹿だったけど、姉はそれを愛していた。そこには他人では分からない血の繋がりがあったのだろう。ここで見放すのは簡単だ。だけど、ミレディの気持ちを考えるとかわいそうだ。クズでも本当の弟を思う気持ちは嘘ではなかったからだ。
ならば、ミレディならしない方法をするしかない。
私もしたことは無いけど、愛ゆえの――ビンタだ!
「闘魂注入!」
愚弟の頬は派手な音をたてた。
「な、なにを……ミ、姉上」
「このクズ! 最後の尊厳すら捨ててしまったの!」
「うっ……」
「女に叩かれて、何も思わないの!」
「だって、本当のクズだから……なにも言い訳が出来ないんだ……」
「だったら、そこから這い上がれば良いだけじゃないの。あなたがいる場所は一番の谷底よ。あとは登るしかないわ」
「俺……何にも出来ない。腐っているんだよ……」
私は愚弟の手を包むように握り締めた。
「私はこんなに立派に土下座できる人を知らないよ。凄い綺麗だった。たぶん、世界で1番綺麗な土下座よ。それを貴族だったあなたが、この短い間で出来るようになるんだから、なんだって出来るようになるわよ」
「まともに戻れるかな……」
「大丈夫よ。お姉ちゃんが保証するわ」
「ううっ……姉上」
愚弟が胸に顔をうずめて泣いている。
まさか、こんな台詞で説得できるとは思わなかった。
チョロイ男よ。
しばらく泣いた後、愚弟は涙を拭いた。
「ごめん。硝子も弁償するし、それにお金もいらないよ」
そうだ。コイツ硝子割っていたじゃん……高いんだぞ硝子って。だが、ここは雰囲気を崩すわけには行かない、チョロイ男は堕ちるのもまたチョロイ……。
「いいえ、硝子はきにしないで、それと銀貨は貸します。……ただ、必ず返すのよ。あなたの価値を見せてね」
「はい……ありがとうございます。必ず返します――姉上」
愚弟が去った後に、アルスと二人っきりになった。
「まともになると思う?」
「9割無理ですね」
アルスの予測が外れることを願った。




