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自己紹介  作者: ケット
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人間心理

人間の心について、進化心理学と魔術をベースに徹底検討。

*人間の精神

 人間は脳が発達しており、きわめて多様な行動をする。

 また私自身人類の一員であり、精神が色々に働くことを常に経験している。多くの言葉が浮かび、それを口にすることもできるし、映像や音楽をある程度脳内で思い出すことも、意識的にもできるし放っておいても出てくる。

 肉体が静止していても精神は働いており、それはまるで精神と肉体が別であるようにも感じられる。そのような幻覚も多いため、多くの文化圏で人間には肉体と独立して生物のように行動する精神があると解釈されているが、科学的にはその考えをとらず、精神とは人間の脳に制御された肉体が周囲の環境の刺激に反応し、また自分自身が出した情報も処理し続けることとする。

 ここで問題がある……人間の精神について調べるとき、自分の精神の働きなどを参考にするか。それとも完全に客観的に、ある刺激にどう反応するかを調べる、それこそ全くのブラックボックスとみなすか。脳についての人間のわずかな知識は使えるか……

 脳についての知識は、せいぜい「脳のこの部分を破壊されたけど死んでない人間で、こういう異常を示した例がある」の集まりか、それと電気や磁気で生きたままちょっと調べたぐらいだ。脳細胞の個数だけでとんでもなく多く、それがまた一つにつき多くのつながりを別の脳細胞と持っている。

 また、「人間が人間の精神を言語で記述する」ことに多くの制約があるのもわかってほしい。どの群れに属しているかで考え方が異なるし、最も大きい群れの中でも心理学の説の多様性、学派の複雑さとしたらため息しか出ないよ……後述する宗教と似たようなものにさえ思える。人間の精神というのは実に多様な面から見ることができる、どのように感覚器の情報を処理しているか、内部で感じ言葉にされる何かはどうなのか、多数の人間をある状態に置いたとき統計的にどう反応するか、等々。だから私がここで言うことも、いいかげんなことだと聞き流してくれて構わない。別の知性が人類の精神をどう理解するか、私が知りたい。

 本来なら人間の脳そのものを原子レベルで調べてもらう、人間のDNAから人間の脳がどう発達するかを理解してもらう、さらに多様な人間社会自体を人間としての偏見のない無数の目から観察してもらう必要があるんだろうが、それは今の人間の手に余るしここで頼めることでもない。

 ここでは、主に進化心理学……人間の心のあり方を色々と並べ、それぞれが「アフリカ大陸の暑い森から草原で狩猟採集生活をしていた頃、どう役に立っていたか」を解説していこうと思う。ただしこれは、反証可能性に乏しいため科学としてはあまりいい方法ではないかもしれない。現実の人間には存在しないとんでもないことを「進化心理学的に説明する」ことさえできなくはないんだ……

 そして、私は宇宙を旅する新宇宙探検船の乗員であり、発見した知的生命体についての情報を集めて報告するように考えるとしよう。そのようなことをしている人は実際の地球にはいないが、似たことをする人はいる……旅をして、新しく発見した動物や、ほかの人々と接していなかった人間の群れについて研究報告する研究者だ。

 ならばまず何を見るか? 人類という動物の生理については見たから、精神については……どんな刺激を受けたらどんな応答を返すか、人間の言葉で分かりやすいのは何を好み何を嫌うか、だ。


 何より忘れてはならないことは、人類はいくら脳が大きくなり、色々な技術を使ったりし、自我とか意識とかなんとかがあるとしても、大型脊椎動物にほかならないということだ。

 動物である以上生存のために多くの物理条件・物資が必要とされ、この宇宙、地球陸上という環境、大きさでの通俗的な物理、感覚器・運動能力・内臓の能力に徹頭徹尾束縛されている……言い換えれば適応して進化してきている。

 そして群れ動物でありながら個体の意識を持っており、群れの維持と個体・家族の利益という矛盾に迫られ、また自分という個体の意識がありながらそれが死ぬことを認識できてしまうという巨大な矛盾を抱えている。

 さらにこの世界自体に、これはあらゆる生物に対してだが、有限の世界・資源と無限の欲・繁殖、そして熱力学第二法則と別の高い秩序を消費してそれに逆らう生命という食い違いがある。

 それは常に多くの欲望、特に攻撃・支配・群れ内地位などの欲望になり、またそれを抑制する多くの、多くは言語化された規範との矛盾の中で生きることになった。


 まず動物である以上、基本的にはあらゆる行動、それを制御する器官の働きは、少なくとも本来は生きるためのはずだ。逆にいえば、どんな心理的なことも、少なくとも祖先の群れが生き残って自分に近い遺伝子情報の持ち主が生き延びるのに役に立っていた、と考えるべきだ。

 あと人間がしやすい間違いは、人間がうまくできているから何かものすごい存在によって設計された、と考えてしまうことだ。人間の肉体だって、上で散々言ったように欠点だらけだ。精神だって欠点だらけだが、とにかく多くの人にとって生きていくには十分だ、ということだ。ただしそれは当面であり、ほとんどの後述する巨大群れは長期的には自滅している。

 というか人間の精神については、スティーヴン・ピンカーなどの著作を読むのがたぶん早い。


 動物はまず水・酸素など・食物・適温を求める行動をとる。上で言った「必要なもの」を得たがる。

 そして繁殖しようとする。

 不快を除き、快を得ようとする。

 さらに群れ動物では、群れを維持しつつ群れの中での地位を上げようとする。時には群れを裏切ってでも自分の利益を増やそうとする。

 様々な他の種の動物、同じ種の自分以外の個体を攻撃する……攻撃は自分の縄張りに侵入者があったり、また交接相手を同種同性に奪われたりしても起きるし、また縄張り・食物・交接相手などを奪うためにも起き、それがなければ遺伝子を存続させることができない。

 人類も同様だ。

 ただし人類の場合、その行動を制御する脳の働きがとんでもなく複雑だ。

 脳は多くの部分に分かれ、それぞれが別々の機能を担っており、それが絶対的な中心を持たずに統合されている。それはそうだ、ごく小さな領域を破壊されたら終わり、というシステムは生き残れない。その情報は脳に病気や怪我をして生きていた人の、わずかな観察から得られている。実験すればいいと思われるだろうが、科学的な医学ができてから人間を実験に使うことは禁止される傾向にある。ただし一対一とは限らず、脳そのものの中に複雑な関連がある。


 これは人間の情報に関する考え方も入っているんだが、動物はまず生まれて正常な環境で育てば……小さい頃から正しい、いや自分の祖先たちと同様の環境からの感覚入力を受けていれば、それに応じて行動を起こす部分も含めた体が正しく育ち、それで感覚器が受ける情報と行動の対ができる。

 それだってばかにできない。恐ろしいほど精緻になることもあり、アリやハチなどは一つ一つの個体の処理できる情報は少ないはずなのに集団でとんでもない建築物を造りあげる。

 それならDNAの最低限の情報からでもほぼ確実に構成できるし、非常に小さい体に制限される情報容量でも処理できる。

 複雑な動物は、ある行動や外界の状態から「不快」を受けたらそれを繰り返さず、「快」であれば繰り返そうとする。快不快に関する周囲・自己の状態を情報として「記憶」しているわけだ。

 あとは何を快とし、何を不快としてそれを覚えるかが脳の中にちゃんとあれば、色々経験して死なずに済んだ個体は快となる行動を繰り返すことで生存・繁殖できる率を高めることができるわけだ。試行錯誤も結構高等で重要な行動様式で、とにかくいろいろやってみていい結果になったことを繰り返し、不快だったことは繰り返さない。それがあればより広い範囲の環境で生きられる。

 動物としての人類も一番深いところはそうだ。

 もちろん、単細胞の受精卵として始まってから、多細胞動物の場合分裂し、様々な器官を備えた多数の細胞の集合になるにつれて、最初からそういう行動を取るようにDNAの段階から決められている部分もある……まあその、本能という概念については色々議論があるが、多くの野生動物が大体同じ行動をし、それで生きていることは確かだ。

 で、その「快」をもたらすのが、例えば温度の場合比較的狭い範囲であることに注意して欲しい。「快」をもたらすものの多くは、食料や水など生存のための資源を多く手に入れる、生殖相手になる同種生物と交接するなど、生存・繁殖の可能性を高める方向のものが多い。

 それこそ単細胞の微生物でも、わずかな運動器官があれば「快」の方向に移動し「不快」から逃げようとする。いや、運動器官を持たなくても「不快」となったときには自己増殖や繁殖に必要な情報だけで水分を抜いた固い塊となって、今増えるより後で増えるようにすることさえでき、だからこの幸運かつ過酷な世界で生き延びている。


 ただ人間には他のあらゆる生物と違い「意識」というものがある、と私の知っている範囲の人間は考えている。その「意識」自体はほとんど定義不能に近い言葉だ。逆に、たとえば一つのスーパーコンピューター、突然変異を起こした一匹の家畜、巨大な海の動物、巨大なアリの群れ、大木、海の無数の微生物のネットワーク、太陽表面の渦、銀河中心核、銀河団規模のダークマターなどに意識があるとしても、人間がそれを意識と認めることはどうすればできるのか見当もつかない。素数はどうだろう……でも大半の人類は素数を入力されてもわからないだろう。

 一人の人間であっても、甚だしければ病気扱いされる脳の働きの個体差がある……その低い方にも意識があるのだろうか? 逆に上のほうの人には意識以上のものがあったりしないのか? 意識の概念を持たない文化圏はないのか? まったくわからない。

 少なくとも人間は、光を全反射する平面を持つものによって見える自分の像と自分自身の関係を認識できる。また人間は言語を用いて思考でき、言語を持たない文化圏は今のところない。その個体から見れば、自分自身こそ世界の中心で、それ以外は……例えば目をふさげば光で見える世界が全部消えてなくなるように感じられている。

 また人間は、他人が自分と同質の心を持っていることも理解でき、「自分が相手の立場だったらどう感じ、考え、行動するか」考えることもできる。それは功利的にもきわめて重要だ、たとえば「あの獲物は、自分が喉が渇いて(水分が不足して)あっちの池に行くのと同じように、そのうち喉が渇いてあっちの池に行くだろう」と考えることで先に水場の近くに隠れれば、何も考えずに見つけたら追うよりずっと高い確率で獲物を殺し、食料などを得られる。さらに現実ではないことを脳だけで空想することもできる。


 最終的に人間の行動……人間の肉体が変化・運動することは「意識によって決定される」ものと「意識せずにされる」もの、その中間??が「とっさに出る」ものだ。

 ただし、人間は意識無しで実に多くのことをしている。また、意識によってなにかをしているときも、その行動の細部について多くのことを無意識で制御している。たとえば「この石をあっちに投げる」こと自体は意識で行っているが、そのための綿密な運動制御は全部意識しないでやっている。

 また、その意識の意識されない元になっているものとして、様々な感覚器の入力を脳の中でうまく整理して、常に世界を認識している、ということもある。その点はどの動物もやっているので、ほかの動物とその意味では違いはないと見ていいだろう。


 人間は普通自分の精神を、「感情」と「理性」に分類している。感情は動物的であり、理性は人間的とされる。さらにかなり多くの人が、その上の「神秘」があると考えている。理性は言葉を重視し、論理や数学的な思考も交える。

 また人間の脳は、色々な部分が別々な役割を持っているとも言われる。

 人間の脳が記憶する情報自体が人間の行動の原因になることだって多い……といえば、どれだけ話が複雑になるか分かるだろうか。考える、感情が動く、行動する、その結果を感覚器で知る、それが別の感情を動かす、その感情が考えに加わって別の考えに……がぐるぐる回ったらどうなるか。さらに人は群れ、互いに情報を交換してそれをやる。


 群れを作らない、より単純な構造の動物の認知・判断・行動をまず語るべきだろう。

 だがそれについても、人類はそれほど知っているわけではない。

 とことん単純だと、食物と繁殖をもっぱら求め、あとは呼吸・周囲の環境の温度や化学的な条件などに反応して生存・繁殖率を高めるように行動する。

 さらにより複雑な動物だと、記憶と学習が発達して快を繰り返し不快を避けようとする。

 動物としての認知、上述の目に入った情報を脳内で分析して世界の像にするシステムも重要だ。感覚器は人間のそれがすべてじゃなく、種によってかなり多様であることに注意して欲しい。地中に暮らしていて目が見えない、匂い=化学物質と振動と温度だけに敏感な動物もいるし、特殊な音を出してその反射を分析できる動物もいる。熱や電場を直接感知する動物もいる。陸上大型動物でありながら耳と鼻が発達して目が弱いのもいる。人間の、二つの前を向いた目と左右の耳を中心にした認識のほうが特殊だ。

 ある程度複雑になると、食べること・水を飲むこと、準備ができたときに同じ種の適した相手を見つけて交接すること、種によってはある程度子供を育てること、縄張りを独占し侵入する同種生物を攻撃すること、敵と戦いまたは逃げること、不快な環境を避けることなどがはっきりした行動として出てくる。脳の中で、それらの目的に合う行動を「快」となし繰り返すように脳細胞のつながりや化学物質の出し方を作り替えてしまうわけだ。その、ある行動や状態を繰り返したがるのを欲望と呼ぼうか。

 記憶と学習は、試行錯誤……あらゆることをやってみて、快だったら繰り返し、不快だったらそれを二度やらないことで、まあ自然では一度目に死ぬことも多いけど生き延びればその後生存する率が上がる。またコミュニケーションに優れた群れ動物なら、群れの仲間、特に子供にその経験を伝えることで試行錯誤による時間とリスクを短縮できる。この試行錯誤システムの存在は、人間が自分が進化してきた地域だけでなく、より広い地域の様々な気候・生物に応じて新しい生活様式を作って生き延びる力にもなった。個体の記憶で学習し、それを群れで共有する方が、新しい環境にたまたま適合した子供だけが生き残るシステムよりずっと早い。

 あと必然的に、間違った学習もあることに注意するように。ある食物を食べたと同時に別の動物に襲われたことから、その無害で不快とは因果関係がない食物が不快と学習することもありえる。

 記憶・学習ができると、以前快・不快があったのと似た感覚刺激に対して同様な行動を取ることができる。ここで以前の不快と同様の状態から逃げようとする恐怖という感情ができる。ただし、これは後の、文明化された人間はその恐怖とその前段階の不安に従っていればいい、とは言えなくなった。あまりにも人数が多く、あまりにも高い技術を用い、あまりにも複雑な社会を作ってからは、より小さなジャングルのサル……どころか魚だった頃から発達した恐怖や不安による判断では群れが生きられないことのほうが多くなっていった。

 あと、重要なジレンマが好奇心だ……新しいなにかを見たとき、遠ざかる方がいいか近づいた方がいいか。それが生存にとって有利か不利かはわからない。いい食物かもしれないし、毒かもしれないし、自分を食べる動物かもしれない。だから恐怖も感じるが、試してみたいという好奇心も感じる。

 多種多様な食物を食べる動物は好奇心に富む。人間は個体差が大きいが、全体に好奇心に富むとされる。ただし好奇心がないに近い個体も非常に多く、生後の文化も強い影響を与える。


 群れ動物に必要な脳の働きには群れを維持することが加わる。群れに属することを強く「快」と感じるように脳ができていくわけだ。さらに群れの中での地位を上げること「快」となる。より繁殖の機会を増やすことにもなるから。

 群れの存続に最も重要なことは「裏切り防止」だ。群れの中で群れ自体・群れの仲間の利益を無視して自分だけの利益を追求したり、群れ全体とは別の方向に移動したりする個体が多くなったら、群れが機能せず全滅につながり、群れに共通する遺伝子が失われるリスクがある。

 食料もオスにとってのメスも、どの個体も群れのすべてを独占したい、自分の遺伝子を増やすため、個体の脳としては欲望によって。できれば群れが集めた食物も群れの仲間も全て自分で食べてしまいたい。でもそれをすると、群れの他のメンバーが死んで群れでなくなってしまい、自分もすぐに死ぬだろう。そうして群れが滅ぶ率が増したら結果的に自分の遺伝子が伝わらない確率が増える、という深刻なジレンマが本質的に存在している。

 人間の心理・社会構造のかなり多くがこのジレンマによって作られている。

 全員が、群れのことしか考えず決して仲間を裏切らない者だけで構成される群れは、群れと群れの競争では最強だ。だが生物はどれも親と少し違う子が生まれるので、中には利己的な者も出る。そうなると、裏切らないし裏切る仲間が存在することを考えもしないメンバーばかりの群れでは、利己的な者がすべてを独占することになる。

 だが「利己的」という脳の構造が遺伝子を通じて群れの多数になると、皆が利己的では群れが群れとして機能せず、誰も仲間を裏切らないに近い群れに勝てず群れごと滅びることになる。

 さらに「自分の群れのみに忠実、他の群れの成員はすべて食物」である場合、人類のように遠隔交易が重要になり、群れを離れて別の群れを作ることもある種には不利益が出る。別の群れを見たらすべて皆殺しにしてしまう群れの集まりは、遠隔交易で効率よく石器材料などを手に入れる群れの集まりに比べて不利だ。また別の群れでもある程度繁殖関係がある場合、その別の群れの存続は遺伝子を維持する予備となる。

 だから人間の、動物として生まれつき作られている心の動きには、群れを維持するために役立つものも多い。まず言語を覚える機能もそうだし、他人を模倣する習性もそうだ。他者に支配される心の動きもそうだ。ただし群れの中で優位に立つものも多い。他者を支配すること、情報を求めることなど。あらゆる人間には支配するため・されるため両方の心の動きがあるとも言える。

 また基本的には「抑止」が重要とされる。群れを崩壊させる可能性がある行動を取った個体を、群れ全体で攻撃したり群れから排除すると決まっていれば、群れを崩壊させる行動を取るのは個体にとっても不快な記憶と結びついたこと、リスクの大きい行動となる。

 無論その判断ができるのも、人間に記憶があり、前頭葉が発達していて「ああすればこうなる」型の理性があるからでもある。

 誰が、群れの方針に従い、群れの利益を優先して行動する、自分を攻撃しない群れの仲間だと「信じられる」……前提として行動できるか、が常に重要だ。


 また人類の群れには上下関係がある。個体にとって群れ内での地位が上がることは遺伝子的にきわめて有利であり、ゆえに特に群れの同じ性の仲間と争い、できれば群れの意思決定者として、多くの個体を自分の手足や道具のように「支配」したいという欲求がきわめて強くある、言い換えれば同じ群れの他人、のみならず別の群れの人、人間以外の動物、動かない植物や生命のない物体、頭の中で抽象的に作った存在さえ支配する、または支配したと思うことは人間にとってこれ以上ない「快」となるように人間の脳は遺伝で作られている。

 上の抑止も、群れを崩壊させないためというより群れの意思決定者が自分の支配を徹底するためという面もある。暴力による支配も重要だ。特に知能の高い哺乳類や鳥類は、雄どうしが接触したらどちらが上位かを決め、それが繁殖に大きく関わる。それは暴力で決めるのが一番簡単だが、後述する無駄な装飾を用いることもあるし、知能の高い群れ動物では群れ内のコミュニケーションによって戦闘力が高い雄が複数のより弱い雄に同時に攻撃されて敗れることもある。多くの動物では相手を傷つけないが暴力に近い、順位決定のための行動が発達しており、それ専門の体器官を持つ動物も多くある。前述のように、人類の拳が比較的弱いのもそれかもしれない。

 人類は群れ内、後には群れ間で支配・上下を定めるのにきわめて複雑なコミュニケーションを行っている。


 ただし、人間の精神は完全に群れ動物であるわけではなく、個人差はあるが自由を求める……好き勝手に欲望を満たせないこと、好きなように移動できないこと、他人に支配されることを不快とも感じる。


**感覚と認知

 人間の感覚については繰り返し述べた。その感覚と脳によるその処理は、あくまで人間が、上記の大草原での群れ生活を行うために遺伝的に設計されている。

 たとえば人間の目は、様々な背景からいくつかの動物の形を素早く見分ける。逆に多くの動物は、見分けられないように周囲の景色の、しばしば見られる「パターンにとけこむ」ようにしている。この擬態とそれを見分ける目の軍拡競争は、特に鳥と昆虫の間で恐ろしいまでに行われてきている……人間もそれにある程度参加している。

 それによって、人間が目で得た情報を脳が処理するシステムはいくつかの動物、自然界でしばしば繰り返される円や平行線などのパターン、人間の顔などを大量の視覚情報から瞬時に見つけだし、強調することができる。またそれは人間の顔を見いだし、自分の知る顔を見分け、その表情から相手の心を読むことに過剰なまでに優れている。

 ごく単純な図や自然が作った無意味な模様からも顔や立体構造を間違って認識してしまったりちょっとした図の仕掛けでほぼ誰もが同じ間違いをするほどだ。そんな誤動作はあるにしても草原で自分を食べようとする肉食獣を素早く見つけるには充分役立つ。

 さらに単純な図形、三次元も含め頭の中で操作し、また簡単な数を考えることもできる。

 聴覚も同様であり、パターンの繰り返しを聞きとること、人間の声から相手の心を読むことにものすごく発達している。

 視覚と聴覚は意識、脳の比較的最近進化した部分との関連が比較的強いことにも触れておこう。


 ここで注意しておきたいのが、人間はゆっくりと言葉で考えて行動することも多いが、実際の野生生活では、まして人類の祖先にとってはゆっくり考える暇などない。目や耳から入る大量の情報を受けてからすぐに行動しなければ死ぬ。だからゆっくり順番に考える部分より、全体から瞬時に判断する部分が、人間の脳にも根強く残っているんだ。

 言葉でちゃんと筋道を立てることなく、なんとなくここは危険だ=このままだと不快なことになる可能性が高い、など感情が判断することがとても多い。

 また、人間の感覚入力の情報量は常に膨大だが、人間はその大半を常に無視している。それどころか何かを予測していれば、その予測に反する感覚情報を無視し、予測通りの感覚情報があったと認識することさえある。


 匂いや味は比較的意識との関係が薄い。だからこそ動物としての快不快などに強く関わる。群れ動物としても匂いや味がかなり重要だ。人間以外の動物の多くは群れの仲間を見分ける、繁殖相手を見つけるなどに匂いを多用するが、人間もある程度それはある。


 皮膚および内臓の感覚は動物にとってもっとも重要だ。皮膚に食いこむ別の動物の歯と、毒や微生物による内臓の破壊だけは海の魚、いや体節や体腔すらなかった祖先からまったく変わりはしない。

 特に体を破壊される感覚、「痛み」はあらゆる動物にとって根底的に重要だ。最大の「不快」であり、それを受けて生き延びたらそれが繰り返されることを強く「恐怖」する。

 その痛みや恐怖は、それこそ全身のあらゆる細胞・脳の奥まで支配するものだ。実際に逃走または反撃に備え全身の細胞・器官に脳や神経の束から神経を通じたり、体液に様々な微量物質を出してそれが血液などに混じって伝わるなどして情報を送り、血液を運動に集中したり内臓に集中したりさえし、糞尿を出してしまうことさえある。最大限の声を出す、または体が意思では動けなくなるなどもある。

 痛みや恐怖だけで人は死ぬことさえあるし、精神の働きが崩壊してまともな社会生活が送れなくなることもある。そんな体の反応も心の動きの一種だろう。

 一時的には回復できても、長期間繰り返し恐怖に近い、戦いを準備しているような不快な状態に置かれるとそれは体の免疫などを蝕み、精神状態を変えてしまうこともある。

 詳しくは後述するが、人間は、その「痛み」と「恐怖」をある程度使いこなす。それで自分の群れをまとめ、後述の家畜として他人自体や別種の動物さえ支配下に置くことができる。特に別の群れを攻撃したときに保存食などを出させるため、また罪を犯したことを自白させるためには、死なないように苦しく痛い思いをさせて相手が隠したがっている情報を出させる技術が必要になり、高度に発達している。

 内臓の感覚としては呼吸ができないときの苦しさ、食物を長い間食べていないときや食べ過ぎたときの苦しさ、長く水を飲んでいないときの喉の渇きなども非常に重要だ。それがあるから必死で空気や水や食物を求め、それによって繁殖するまで生きることができたんだから。


 自分がどう動いているか、筋肉や関節から知る感覚も意識はしないがきわめて重要だ。それがないとまともに動くのは非常に難しい。


 あとかなり根源的な感覚として、疲労・欠乏の類も加えていいだろう。それらは、特に睡眠不足が続くと意識さえ簡単にねじ曲げる……意識はそれらを無視したがるが。


 ちなみに、「快」をもたらす感覚入力に人間が「美」というものもある。特に視覚・聴覚における幾何学的・時間的な対称性と、単純さや調和、多くの植物や水面、数の世界や音楽の持つ秩序などさまざまなものに美を感じる。

 個体が交配相手を選ぶ際には美がきわめて大きな基準となる。進化心理学的には、病気や寄生虫、遺伝子の奇形がなく、これまでの栄養状態がいい個体は体の左右対称性が高いためよい繁殖相手である可能性が高い、ということだろうと言われている。

 笑いもそれに強く関わっているようだ。これは食物の好みやタブー同様、「同じことで笑える」ことが同じ心理構造を持つ群れの一員だという主張になるのだろうか。


 ある意味、人間にはもっと多様な感覚と精神の対応、精神が作りだす世界の像があり、その一部しか意識に使われていないともいえる。

 数や音楽の世界について「感覚」を持つ人もおり、逆に一般人はその感覚にほぼ盲目、というわけだ。人間は極端に視覚を優先しているが、視覚を失った人はさまざまな感覚を発達させるし、脳に何かあって普通の常識的な意識を持てない人には、数学や音楽の世界を極めて鋭敏に認識する人もいる。

 基本的には、多分ほかの動物もだろうが、「注意していないものは見えない」し、「予測した物を見る」のが普通だ。普段からけっこう自分を欺し、それでなんとかやっている……そのほうが完璧に合理的な動物より、多分生存率はずっと高いだろう。アフリカの森では。


**情動

 人間の、動物と共通する、理性の反語としての心の動きは情動と呼ばれる。少なくとも私が使っている日本語と学んだことのある英語では、多くの感情は数直線の両側のように大きいプラスから大きいマイナスに分けられる。ただしそれに入らない感情も多い。

 動物にとってもっとも根源的なのが快と不快。そして快を欲望し、不快を恐怖し避ける。

 その不快のときには、攻撃と逃走を中心に様々な選択肢がある。中には完全に動かない、というのさえある。どれが正解とも限らない。さらにその攻撃や逃走自体が快になってしまうんだから話は複雑だ。

 たとえば肉食動物が食事をしていなくて不快なら獲物を攻撃して食べることが、攻撃と食の両側から大きな快となり、それが獲物に反撃される恐怖・動かないで寝ることの快を上まわるから獲物を探して襲う行動をとるわけだろう……といっても本当にちゃんと知っているかは自信がない、いいかげんな推理に過ぎない。

 情動の根底には快と不快、攻撃とそれが変型した怒り、快を得たときの喜びとそれを求める欲などがある。非常に強い情動に支配されて体全体が激しい運動の準備さえする興奮、休息などの状態もある。

 それに知能と記憶が高まって未来を予想することができるようになると、不快を予測したときの不安や恐怖、予測していなかった何かを知覚したときの驚き、予測していた快が得られなかったときの悲しみや苛立ち、予期していた快を得た喜び、快が続くと予期されて睡眠する時の安心、長時間刺激がないときの退屈などが加わる。

 人間が言葉を使わずに簡単に他者に情報を伝える手段としては前述の笑い喜び・泣き悲しみ・攻撃や怒り・恐怖などがあり、それに付随した情動は最も重要だ。


 群れ動物では群れの利害・繁殖関係が近い個体の利害・個体の利害が矛盾し、さらに情動は複雑になる。

 まず群れ動物は、少なくとも群れの中の個体は識別できるほうがいい。特に裏切り者を記憶し、二度同じ相手に騙されないようにするのはきわめて有利だ。

 また群れ動物以前でも、肉食動物が群れを作っている動物を追うとき、目についたものを片端から追っていると非常に不利だ。動物は運動に食物から得た秩序の高いエネルギーをもつ分子や水を消費し、熱力学第二法則で熱や秩序の低い化学物質を出してしまってそれを処理する時間が必要なので、長時間移動を続けられない……それは追われる側も同じだが、追われる側がちょっと追われては群れの別の仲間と交替して休めば疲れるのは追う側だ。それを防ぐには、群れの中から特定の個体を選び、他を無視してひたすら特定の個体だけを追えばいい。

 そして、その個体識別機能と快不快が結びつくと、群れの一員について、その個体が死ぬととても不快、その個体の快不快は自分にとっても同じ快不快になる、距離を近づけておきたいし接して体温を感じたい、目など感覚の届くところにいて欲しい、異性であれば交配して繁殖したいなど一連の感情ができる……それが人間が愛と呼ぶ感情の根底だろう。

 ただし愛・支配・攻撃はかなり密接なつながりがある。多くの情動は脳の中で密接につながり、実に意外な情動どうしがつながることもある。攻撃することが快になり、愛情や生殖に関する感情とつながることも多いし、逆に支配されることと繁殖と苦痛がまじって快や愛情になることさえある。

 より単純な心理として、頻繁に接しているだけでそれがあることが快になり愛情になる、ということもある。

 たとえば単なる石であっても、小さい頃からそれを持って暮らしていれば、生きてきたということは何度も食事ができて快を得られた、そのすべてでその石を持っていればその石と食事の快に間違った因果関係を感じてその石に愛着を持つ、ということさえある。

 もちろん逆に、接すると不快になる個体もある。いや、個体だけでなく、認識・接触などで感じる快不快……好き嫌いはあらゆる個体・物・情報に関してある。

 執着・嫌い=接すると不快・攻撃などが複合した感情は憎悪と呼ばれる。特に自分を傷つけたり、繁殖関係がある別個体や愛情を持つ人、群れの誰かを殺されたり、縄張りや食物や群れ内地位などを奪った時などでその相手に強く憎悪を感じ、それを敵と呼ぶ。少々のリスク・欠乏・苦痛などは度外視して敵を殺し、またその群れ仲間や繁殖関係でつながった者も皆殺しにする、という行動を、しかも強い執着で行う群れを攻撃するのはリスクが高い、だから攻撃されにくくなり、その遺伝子は群れの中で増加する。

 また群れと群れとの関係が激しい憎悪による相互攻撃になることも多い。また人間は特定個人・群れだけでなく、より抽象的な概念を憎悪することも多い。

 利害ではなく支配や群れ内部の権力争いから起きる憎悪もあり、しばしば群れ内部での殺し合いになる。

 ただし憎悪は、一見合理的な理由なしに起きることもある。愛情も同じだが。

 実際人間が色々なことに執着する心の力の強さは驚くほどだ。


 もう一つ情動の重要な要素として、これはある程度客観的・科学的に分析できるが、脳の中の電気や物質の具合そのものも重要な要素だ。

 快や不快、苦痛を感じているとき、攻撃を準備しているときなど様々な状態に応じて脳内では多くの神経細胞が複雑に情報をやり取りし、活動して様々な物質を放出し、全身にも大きな影響をもたらすし、また全身の状態も脳に影響をもたらす。

 それは容易にものの考え方さえ変えてしまう。

 激しい運動を準備して目の前のすべき事に集中した興奮、自分を否定し活動をしなくなる鬱、普段の現実と脳内の様々な感覚像の関係とは違う像を認識する幻覚、激しい飢餓や疲労や睡眠不足によって思考がなくなり単純な行動だけを繰り返す状態、激しい特に執着をともなう感情、大きな刺激や恐怖で思考や行動が不可能になるショックなどその他精神の病とも関連して様々な状態がある。それぞれ進化心理学的には意味があると思うんだが。

 外からの刺激や自分の心の中から出てくる何かに注意したり、変化が乏しく変えにくければ慣れて別のことに注意を向けたり、また何かに強く集中したりする状態もどうなっているのやら。


**家族・性

 人類は基本的に雄雌各一匹ずつがつがいとなり、その子供を育てる。ただし、一匹の特に力のある雄が多数の雌を支配下に置き、その子供ごと養うこともある。ちなみにどちらも、色々な動物がとる生き方だ。その繁殖する雄と雌、そしてまだ繁殖できるほど成長していないか繁殖相手がいない多数の子供、後に繁殖がほとんど不可能になった今繁殖している年代より老いたその親が集まったのが、人間のいちばん基本的な最小単位の群れ、家族だ。

 個体・家族・家族が集まった群れと、最低でも三つの段階があるとも言える……この「家族」という言葉が、どれほど学問的に妥当かは自信がないが。

 一匹の雌と多数の雄、というのは多くないし、混合して全く無秩序に、誰と誰が交配してもいいとなる群れはめったにない。

 上記の、自分の遺伝子を増やすためにどうするのがより有利かを考えて欲しい。

 本質的に雄は多数の雌と交接し、できれば別の雄に養われている雌と交接して自分の子供を他の雄に養わせれば最上だ。逆にどの雄も、自分がそれをやらされることを一番恐れる。逆に雌は最も長期間食料などをくれ続ける雄に子供ごと養われるのがいい。

 人類という動物の性質……繁殖のため、雌が無力になる時期が長く、子供を産むときのリスクが高く、子供を産んでから子供が自立するまでに長い時間がかかる、などを考えて欲しい。人類という動物の性のあり方は、昆虫などを含めればもちろん哺乳類の中でもかなり特異だ。


 人間の子供は生まれてすぐにでも、正常に呼吸ができるようになったら大声を上げて泣き、母親の胸の脂肪がたまって膨らんだ部分の乳を出す皮膚が変形した部分に口で吸いついて乳を吸う。

 また手は何かを握りたがり、自分の体重ぐらいは支える……親の毛につかまって移動し、枝からぶら下がっていた、もっと小さいサルの時代の進化が脳に残っているのだろう。

 とにかくどんな不快でも泣いて親に不快を除いてもらう……特に乳をもらうことを求めるのが生まれた直後の子供だ。大声は敵に見つかるリスクを高めるが、逆に親の関心・注目の対象となり世話をしてもらうことが多くなるため生存率は高まる。その後も、他者の関心・注目は人間にとって最大の快の一つになる。

 何よりも年齢が低い子供は、親かそれに替わる個体に乳、大きくなれば水や食料を親から受けとり、また保温され、清潔を保たれていなければ生存できない。対等な作業ができるには十年は軽くかかり、後代のきわめて複雑な世界では三十年を超える。


 とても小さい子供は好奇心が強く、身の回りにあるものは何でも触ろうとし、また口に入れようとする。

 だがある程度大きくなると、以後はこれまで食べてきたもの以外食べなくなる。文化を身につけたとも言える。それ以降、生活における清潔水準なども変更がきわめて不快になる。

 非常に幼い頃はまず感覚器や身体の運動などと脳の関係を、脳の成長を利用して作っていく。人類はあれほど産まれるとき母親に負担をかけるのに、それでも産まれたばかりの子の脳も体も全然できていない。

 また幼いある時期に親の言語を聴いていると、短時間で自分も親と同じ言語を習得する。また親の様々な考え方、体の動かし方などもその時期に親の模倣を通じて覚える。泣くことや動くことを抑制することもできるようになる。

 多くの文化で、親が子供にどのように行動すべきかしつける。特に重要なのがトイレ・トレーニングだ。人間は衣服を着て巣を作る。では糞尿を出すのはどうする? その時には巣の外か巣の決められた場に移動し、衣服の少なくとも腹から下を体から離す必要がある。巣も衣服も汚すことは伝染病のリスクが高いし、その匂いが不快だからだ。出す前後で清潔のための道具を使うことも多い。

 ごく小さい子供はいつでもどこでも、体が消化を終えれば出すだけだ。だがある時期から、巣や衣類を汚さないように親によって許される場・衣類の状態・時間でなければ出さないように作り変えられる。

 動物は快を求め不快を避ける……だから幼い頃から、正しい場所・状態で糞尿を出すなど、群れが「善」とする行動には快となる食物や称賛の言葉や皮膚接触による愛情などを与えられて賞とされ、逆に間違った場所・衣類の状態で糞尿を出すなど群れが「悪」とする行動には食物を与えない、打撃などによる苦痛、言葉、自由の剥奪などで不快にされ、繰り返すなというメッセージを告げられる=罰される。

 その強制がうまく積み重なると内面化される……許されない状態で出してしまうことに対して、強い「恥」もしくは「罪」といわれる感情を覚え、また毒を食べたとき同様の吐き気のように感性自体を作られる……それは後述する穢れとも関わる。

 またそのことで、学習した個体は意識によって体に命令し、ある行動を取らないようにすることもできるようになる。といっても、しつけられた人間は意識が働いていない寝ているときも、よほど調子が悪くなければ糞尿は出さないから、かなり動物としての部分にもしつけは効くようだが。

 それほど人間は、快と不快・恐怖と苦痛・称賛と愛情、言葉と行動の両面を用いて子供を支配し、精神を造りあげる技術に長けている。それは生来とも言えるし、祖先から代々受け継いできた技術とも言える、それを分けるべきではない。そのプログラムは実に幅が広く、だからこそ人類は常に水が凍る高緯度地域から水がほとんど無い砂漠、赤道直下の森まで広い範囲で生きることができている。

 犬猫もある程度、決められた場所以外では糞尿を出さないようしつけることができる。牛や馬については知らないし、まして家畜の野生種については知らないが、それらもある程度大小便を別の場でするように群れの中でしつけられるのだろうか。それは病気のリスクを下げ、匂いに鋭い肉食動物をごまかすなどいろいろと益があるはずだ。


 その「恥」「罪」という感覚は人間の場合非常に複雑で重要な感情になる。本質的には群れから追放されること、群れ内の地位が下がること、失うこと、幼児期に遺棄されて死ぬことに対する恐怖感につながっており、人間にとって何より重要とされる。

 最低限条件を満たす行動を取ることができなければ群れから追放され殺される、というのが人間の場合は特に厳しい……といっても私は人類以外の群れ動物で、どの程度群れからの追放があるのかは知らないんだが。

 他にも「恥」「罪」は戦闘における名誉、労働における勤勉、法や神に対する罪悪などとも関わる複雑な感情だ。

 その「恥」「罪」はまず「規範に従わなかった」ときに感じ、また気付かれれば支配者が罰する。

 まず自分を支配している個体の命令に従うこと……支配者に服従した行動をすれば賞され、そうしなければ罰される。さらに直接的な苦痛による罰だけでなく、殺害や共同体からの追放などより大きな罰を約束して脅す、声や表情などで強い攻撃性を伝えて恐怖を感じさせるなども高度な罰だ。それによって服従を快とし、不服従を不快とするのが支配の基本だ。さらに有効な支配は支配者に対する愛情さえ育み、その場合には支配者の命令に矛盾する欲を感じただけで罪を感じ、自らの欲として服従することもある。後述のアイデンティティと何に支配されているかが結びついてしまうんだ。

 また人類の場合、規範を言葉にすることも多く、それに破ったことを他人に知られれば罰されるし、その規範と後述の象徴が結びついて権威を形成し、それが上記の愛される支配者と同様になったときには同様に罪を感じる。

 逆に言えば、その基準に照らして罰する、という群れの行動で犯罪を予防することが群れにとって最も重要なことで、罰は犯罪を予防し群れを強化するのに最も有効だと、検証もそれ以前の前提もなしにとても強く信じられている。

 群れ全体が、人を善人と悪人に単純に二分化する傾向があり、罪を犯して罰されている個体や群れの成員以外を悪とし、逆に正規の群れの一員を善とみなす構造がある。

 群れの規範は言葉だけでできるとは限らない。小さい群れの中で、自然発生的に、主に言葉を用いない、より動物的な感情の交換によってできる秩序は、それだけで言葉にしにくいきわめて強い規範を形成する。他と違う規範を作り、違う行動を取ることで、自分の群れを他から区別し、群れの一員を見分けるのも人間の群れ動物としての習性の一つだ。

 その三つは時に矛盾することにも注意して欲しい。

 そして「恥」「罪」が形成されると、賞される行動・心理=善、罪となり罰される行動・心理=悪という、ちょうど数直線になるような価値観ができ、それと快をもたらす何かに対する欲が、他の感情と並び心理の中心になる。

 ただしそれが正常に形成されるとは限らない。無矛盾な規範は存在できず、また人間は細かな刺激からどうしてもこれが快・不快だ、というものがある。

 そして人間は常に欲があり、自分に都合よくものを考えることが多いため、その犯罪とされることをしてしまう人は常に統計的にいる。罰を強めたり何をしても、それがなくなることはない。

 本来は罪を罰するのは人間の能力が不足しているからで、本当は被害者を生き返らせたほうがいい。時間を逆行して犯行を止めたほうがいい。被害者を親族ごと去勢断種して群れの遺伝子を改良したほうがいい。加害者になるような子を新生児で見抜いて間引いたほうがいい。加害者を治療したほうがいい。もっといいシナリオを考えて全員に周知徹底したほうがいい。でもそんな能力は人間にはない、というか進化段階から、一番使えたのが「罪と罰」システムだったんだろう。人間はそういう生き物だとしか言いようがない。

 ここで注意してほしいんだが、群れる動物にとって「罪と罰」システムが絶対に必然かどうかはわからない。アリ・シロアリ・ミツバチのような社会性昆虫に罪と罰のシステムは不要だ……多くの個体が生殖能力を失うことにより、群れを裏切る利得が発生しないし、それぞれの知能水準が低いからこそ、群れの最上位者が決定するのではなく無数の個体の微妙な情報交換だけで群れの行動を決定できる。


 本来善悪は、人間は生物なのだから繁殖し続けるためのはずだが、それからずれていることも結構多い。人間は一貫性や合理性を求める部分もあるが、その規範全体は不整合で矛盾が多く、きわめて恣意的なものであり、親によって違うし同じ親で育てられても個体差さえある。本来は「群れが生き延びるために最適」であるはずなんだが、あまりにも余計なものが多いし、アフリカ以来移動してきているから本来別の気候条件ですべき行動も混じってる。はっきりした根拠から出た一貫した命令、とはとてもじゃないけど言えない、多くの偶然が入るいい加減なものだ。


 また面白いのが、人間は糞尿を出す、異性と交接する、誰かと親しくする、雌が出産するなどいくつかの行動を「他人から隠しておく」ことを強く欲求し、それができないと強い恥を感じる。自分についての情報を他人から隠しておきたいからだろうか。逆に人はそれを、文化的に抑圧されることも多いが根源的にはとても知りたがり、笑いとも強く関わる。魔術ともそれは深く関わるな、それらの行為から得られる情報は人を呪うのにも使えるから。

 人間は衣類が必要ない気候でも例外なく、衣類などで生殖や排泄に関わる器官を隠したり装飾したりする。

 排泄や交接を隠すありかたは、人間にとって巣から出て多くの人と接する状態と、巣に籠もって一人だけもしくは繁殖に関わる密接なつながりがある群れ内小群れのみと接する状態を分けることにつながる。それは後に社会が複雑化しても、人間の根本的なあり方として残される。

 その「見られたくない」という感情は他の、比較的大型の動物にもしばしば見られる。動物が交接行為を行い、子供を産み育てるには複雑な条件が必要である場合が多く、ゆえに移動だけ制限し、雌雄が接触できるようにし、充分に水や食物を与えても繁殖しようとしないため家畜化できなかった動物種はかなり多い。


 群れの一員となるための学習は糞尿だけでなくきわめて広い範囲に及ぶ。衣類を体につけ、また外すこともきわめて複雑な指先の操作を必要とする。そして徐々に、上述の各資材を手に入れるため、体を動かすための様々な技術やより複雑な言葉を学ぶことになる。動物としても、単純に目で見て世界を認識してその通り歩くだけでものすごく複雑な脳内の協調をしている。もちろん他のどんな動物もそれができている……だから人間はそれが当たり前だと思うが、論理・数学的な情報処理をする人工物にそれをさせようとしたらきわめて難しかったりするんだ。

 また、他の個体やその外のいろいろなものを模倣することができるのも人類の重要な特徴だ。模倣に似たことができる動物さえかなり少ない。

 とにかく純粋な情報・体の意識しない細かな動かし方など膨大な情報を模倣などで覚えることになり、どの情報が体の動き・口に出す言葉・脳内の言葉などで出るか、常に体の欲や言葉思考の組み立て……特に自我……に応じて動くことになる。ミーム論だともっといろいろいうが、極端なことは私は言わない。まあミームも人間の精神にとって重要な要素であることは確かだが、どれだけかはわからない。

 特に強い感情とともに伝えられた情報を、人は年齢を問わず真として、心の深い部分にまで染みつかせ、模倣する。逆に感情を引き起こすミームは伝播しやすい。そのような真としている情報、信じていることは個体の意識の中核にもなる。

 それらのミームを表現することによって、常に「自分はこの群れに順応している正規の一員だ」と周囲にアピールし、それによって群れの一員として扱われることを求める。また雌雄……いや男女どちらの性に属するか、群れの中でどのような地位にあるかも常に周囲に伝え、それにふさわしい扱いを求める。逆にその立場から逸脱することは罰される。

 模倣の一つの形として、少なくとも多くの文化で、子供は人間や自然にある動植物などや抽象的な単純な形などをしたものなどを作ってそれが生きているそのものなどのように考えてそれに後述する物語を演じさせたり、狩猟・戦争など大人がする行動を、実際にそれができる能力がないが動きだけでも模倣したり、踊ったり歌ったり、身の回りのあらゆる物に触れてみたりし、それをとても快とする。

 その直接生存のために必要なものを手に入れることにつながらないが快になる行動、遊びは大人になってもかなり重要な役割を持っている。

 さらに人間は「知り」「理解する」ことそれ自体を好むともいえる。反面後述するように、はっきりした群れに沿った情報群を頭に入れてしまうと、それを壊しかねない情報を知ることを不快とする傾向も強くある。


 子供が成長すると両親から離れ、自分と同年代の子供たちで群れ内の小さな群れを作ろうとすることも重要なことだ。その子供の群れはなぜか、特に群れが大きくなって子供の群れが大人数になると、大人たちの群れの善悪判断に反抗して自分たちだけの規範を作る傾向が強くある。面白いのが、人間には根源的に群れの善悪判断に抵抗するところと、それに従っているところが同時にある矛盾した存在らしいと言うことだ。また攻撃性が増し危険を好むことも多い。それには性淘汰もあるのだろう。若い群れ内群れには道徳に反しようという傾向があり、道徳無視をしないほうが逆に若者の群れでは悪とされ排除されることも多い。

 その頃から、他の個体の情報・心理を何でも知りたい、という感情が出てくる。それは愛情・支配・攻撃など様々な感情と結びついている。また子供どうし相互の会話も好むし、群れ内群れへの参加を許したり追放したり、群れ内群れでの地位を争ったり、他者を支配したり攻撃したり、支配から逃れて自由になろうともがいたりもする。小さい子供でも立派な群れ動物には違いないんだ。

 また、人間は肉体的な能力・精神ともに常に大きな個体差がある。詳しくは後述するが、ある人間の大きい群れでは「氏か育ちか」すなわち生来の遺伝子か、それとも産まれてからの環境かが常に議論されてきた。

 普通は個体差とは言われないが、「何を好むか」言い換えれば何に執着し、何を快と感じ何を不快と感じるか、ある状況ではどんな行動を取るか、何を信じているかなどあらゆる点が一人一人異なる。それは性格・人格ともいうな。


 ここで問題となるのが、人類には二つの矛盾した感情があることだ……群れの一員でいたいのと、自由や勝手を求めるのと。

 自分の体から来る欲望に従って食べ、糞尿を出し、眠り、移動したいという感情と、群れの一員でいたいという感情が常に精神の中でせめぎあっている。別にどちらが本物とか偽物とかは言わない。どちらも人類という群れ動物に遺伝子のレベルで組み込まれた本質だ。

 その群れに加わりたい、というのと群れから出たい、というのはどちらも必要なんだろう……一部が群れから離れることは、自然の群れ動物にもある。それは極めて高い確率で死ぬことになるが、まれに生き延びて別の地で別の群れを作ることもある。そうなると、元の群れが暮らしている地域に天候の変化などがあって元の群れが死に絶えても、新しい群れが生き延びて遺伝子を残せるから、遺伝子にとっては損にならないわけだ。だから群れに加わりたい、出たいの個体差を大きくして、多くの個体は群れに留まるけれど一部は群れから出るようになった生物のほうが生存率が高い、というわけだろう。

 また、人間が自由を求めるのは、群れの一員となるための教育が膨大な不快の上に築かれていることもあるのかもしれない、動物は不快を嫌うから。そして群れの一員となることは、しばしば誰かの支配下に置かれることも意味しているからだろう。支配されることは快と不快、両方が同時にある。人は「人を家畜化する」技術と「家畜化される」性情を進化レベルでもっているとも考えられる。


 さて、子供は成長する。そして色々なことを学ぶだけでなく、体も昆虫ほど極端ではないが変化する。小さい頃の歯が抜けて新しい、一生生え替わらない歯が生える。そして手足が胴体につく部分、顔などの毛が太く目立つようになる。そして生殖器が変型し、雌雄とも生殖可能になる。それに応じて脳も様々に変化し、なかでも生殖をしたいという新しい、非常に強い欲望を感じる。

 本来繁殖のための交接行為はそれ自体きわめて強い快感を得ることができる。

 また人は繁殖を求めたとき、あらゆる異性に対して強い交配欲を持つが、特定の異性にきわめて強い、愛情・交接欲・支配欲など複雑に絡まった感情を持ち、執着することが多い。その対象を選ぶ基準は上述の美、遺伝子的な健全さを、多くは言葉にするのが難しい脳の深い部分が多くの情報を素早く分析して判断する心の働きが大きい。また群れ内部の地位、群れに対する貢献などの記憶も大きい。後述の目立つための消費も大きいし、別の群れの個体や、攻撃的な個体に好奇心で惹かれることも多い。

 また実際交配相手となるまでの経過はどうであれ、つねに共同生活をしている異性にも強い愛情または非常に強い支配服従関係などを感じ、また後述の儀礼や魔術的要素、常識などを加えて共同生活を持続させる。

 それらなしに雌雄とも支払う膨大なリスク・資材には耐えられないだろうし、だからそれほどその愛情は強いのだろう。

 雌は最初の交配の苦痛・妊娠期の重病に匹敵する肉体の負担と当然それで運動・判断能力が低下することによる死のリスク、出産のすさまじい苦痛と死のリスク、産後子供を育てるために消費する膨大な資源を払わねばならない。またつがいをつくって母子の生活物資を負担する雄にとってもそれは大きな負担になる。

 そして交配相手が別の人間と交配することに激しい怒りを感じ、攻撃したがる。その攻撃性は時に理性を吹き飛ばし、群れから追放されたり殺されたりするとわかっていてもその恐怖を上まわることが多いほどだ。怒りが激しいほど、群れが崩壊しない限度で他の成員が交配相手を奪う行動を抑止し、自分の遺伝子の維持には役立つからだ。また、群れも道徳のためにその攻撃を容認することが多い。

 交接・繁殖に関する欲が人間にとってきわめて激しいのは当然だ。ただし、基本的には人間は群れを作り、他の群れ動物にもある交接の制限がはっきりと言葉にできるように決められている。


 成長すると群れの中で地位を得たい、というのも重要になる。群れに参加したい、できれば群れの中で上位になり、他人を支配する立場になりたいという欲を持つ。

 特に一夫多妻がある場合には高い地位がなければ交接・繁殖すること自体が事実上禁じられるのだから、遺伝子を残すためには地位を得ることが絶対に必須だ。

 大体繁殖可能になる頃から、食料を集めたりする活動に本格的に参加し、さまざまな技術を習得することが求められる。

 人間がさまざまな技術を習得する能力は肉体・頭脳とも極めて高い。その根底にあるのが、他者の行動や思考を模倣・推測する脳の高度な働きと、間違いを修整し、正しい行動を繰り返して脳の深い部分にも覚えさせて考えなくても複雑な行動ができるようになる能力だ。

 それらの、人間の知的な部分は機能別に分かれているとも言われる。

 大体は、群れでは親と同じ役割を果たすことが求められる。多くは、詳しくは後述する魔術によって子供とは違う存在であるという認識を持たされ、群れに参加することになる。

 産まれた子供の多くは死ぬし、中には前述のように群れから離れてしまう個体もあるし、遺伝などで体や心がうまく働かないため子供のうちに殺されたり群れから捨てられて死ぬに任される子供もかなり多いことに注意してくれ。ただし心がうまく働かない子でも、別の利用価値があって群れに特殊な形で参加することも多い。


 うまく群れに参加でき、自分の脳のより単純な動物の頃から機能していた膨大な情報を瞬時に判断する部分が選んで激しく欲したか、または親・群れが決めた相手と交接・繁殖することが認められると、大抵は巣も同じにして家族という小さな群れを形成し、子が生まれるのを待つ。それが食い違った場合には誰にとっても悲惨なことになる。まあ自分で選んでいいとなっても、欲した相手が自分を嫌っていたらもっと悲惨だが。

 ただ注意して欲しいのが、特に雄は不特定多数との一時的な交接が利益になり、雌は特定の異性から子供を生み育てるあいだの資材をもらうことが利益になることだ。雄がしたいことはその相手である雌はして欲しくない。そして雌雄双方が、自分の交配相手が他の相手と交接することを望まず、強い攻撃で抑止しようとする。それで多くの争いが起きる。

 そして子供が生まれ、ある程度以上自分で育てたら、人間の心は自分の子供にきわめて強い愛情を持つようにできている。多くの親が、子供のためなら長期間の欠乏に耐え、子供が死んだら激しく悲しみ、子供が誰かに殺されたら殺した者を激しく憎んで攻撃し、子供を助けるために死ぬことさえいとわない。また子供の外見も、より親や場合によっては別の大人の愛情さえ誘うようになっている。

 ただし、それは子供を群れの一員、家族の一員にするという明白な目的がある。特に狩猟採集生活から遠ざかるにつれて、膨大な訓練が必要となる。その訓練はしばしば暴力を伴うし、それは人間本来の支配欲や攻撃欲を満たし、暴力自体が快・欲求不満のはけ口となるため、双方の個体の生まれながらの性質にもよるが子供の精神に強い不快を与え続け、矛盾したメッセージや過剰な暴力で正常な発育を妨げることも多くある。子供のための善意と思ってであることも多い。


 ちなみに交配相手には制限があり、人間の多くでは「近親相姦の禁止」がきわめて重要だ。特に親子・同じ親の子どうしなど繁殖関係が近い別個体と交接すること、交配して家族を形成することは最も強く禁じられる。その理由は遺伝病防止ともされるが、それだけでは説明しきれない。後述の宗教的なタブーも大きい。

 同じ群れの中での交配を禁じるケースも多く、別の群れと若い雌を交換するケースも多い。後述の経済としても意味があることに注意するように。家族のありかたが人間の根本的なあり方、考え方だとも考えられる。

 あと、交配や家族形成自体、遺伝子的に間違った対象に対して行われることがある。交接したい対象が同性であることも一定の割である……統計的には遺伝子が半分、それ以後の生来の単純な因果では予測できない要因が半分だ。同性の場合生殖器ではまともに交接できないため、男性どうしだと男性の口やら肛門やらを女性器の穴の替わりにしたりややこしい方法で交接と同様な快楽を得ようとする。ただ皮膚を触れ合わせること自体群れ動物である人類にとっては快いことだし。

 もちろんそれとは別に、生来性器に異常があるなどで本来女性なのに男性として育てられるとかもある。元々脳内の自分の性に対する感覚・性愛の対象・遺伝子的な性・性器の構造それぞれ別に発達するんだから、それらが食い違う個体がたまにいても仕方ない。

 また養子という現象もある。ちなみにそれは人間だけでなくかなり多くの動物がたまにやる。自分たちの子でない子供を、自分の子供と同様に育てる行為だ。

 繁殖関係がある群れ、特に近い子を、他は健康だが生殖能力のみに障害がある成熟した雄雌が育てることは遺伝子を残すのにある程度貢献しうる。さらに後には繁殖関係がない子まで養子にし、実子同様の愛情を示すことがあるが、それは人間がするのは遺伝子計算でなく感情に動かされるだけで、ただ近くにいる、子供が子供らしい外見・行動を取ることからも愛着を感じるように脳が設計されているからだろうか。さらに子供さえいれば、DNAでない、脳が持つミームなど記憶情報を、言葉などを通じて子供に伝えることができることも大きいだろう。


 交接行為自体が強い快になり、水や食物同様強い欲望の対象になるため、後述するが様々な形で社会的に用いられる。

 人間の多くの群れでは、年長者が支配権を持つ。特に親子間の支配はきわめて強い。また雄がその暴力的な優越で雌を支配していることも多い。もちろん人間には何でも例外はある。

 また、人類の雄は交接行為と暴力がかなり深く結びついており、憎悪の対象である別の群れ……自分の群れの部分群れも含む……を攻撃するとき、暴力で雌の意思を無視して交接することも多い。


 そして人間は、何かで死ななければそのまま年老いていく。普通の野生動物では老いは問題にならない……老いる前に常に高い確率で死ぬし、老いによって体がわずかに衰えただけでもすぐに死ぬことになる。

 だが人類の群れが大きくなり、より技術などが増えると、体力が衰えるなど能力が充分でない個体も、家族の愛情があるためや後述の魔法などで役立つため、そして知識が体力と同様に群れの中で力と認められるなどしたため、食物を与えて生きさせることがより多くなった。

 さらに人間の優れた知能は、あまりにも不幸なことに「自分はいずれ死ぬ」ことを理解してしまった。それで常に、人間は自分が死ぬことに対する恐怖に苦しまなければならない。ほかの動物が自分が寿命まで生きることを考えるかどうかは知らない。少なくともごく単純な脳しか持たない小さい生物は食料が得られれば、食われずに繁殖できれば大幸運だ。だが人間は、明日の食料が得られること、今夜食われずに明日の朝が迎えられることが当たり前になり、そうなると「永遠に生きたい」というむちゃくちゃな欲を持ってしまった。

 でもいつかは必ず死ぬ。

 死んだときには、普通の動物ならただ消えるだけだ。だが人類の場合、様々な情報や人間より寿命の長い物資、群れにおける地位などを子供が受け継ぐこともある。強い者の子は強い、と思ってしまうわけだ。


 そんなふうに人は生まれ、運が良ければ成長して家族をなし、子供を育て、死んでいく。人の心のあり方もそれが中心だ。


**人格・性格

 人類には個体差がある。

 動物レベルの脳で何に快・不快を感じるか、どんな対象に美や性欲を感じるか、脳の中での体外認知がどうなっているか(人間の脳は運動・言語・音楽・数学・五感などさまざまな機能がある程度別々の場所に担われており、どれが優越するか、それぞれどう働くかに強い個体差がある)、自分の体がどうなっているか、それまでどんな規範を形成したか、他人との接触をどれほど好むか、独立性は、考え方の特徴は、群れの規範を守るか、支配・服従・自由などどう好むか、どんな技術を習得したか、何に向いているか、なんという名前で誰の子でどんな群れ記号を持っているか……

 どんなミームが脳という限られた資源を占領しているか、という考え方から性格・人格をとらえることもできる。

 もっと単純に言えば何が好きか、あと意識するしないに関わらぬ無数の記憶の集まりだな。どの状態でどんな言動を行うかの集まりとも言える。

 精神の病をさまざまに分類して考えれば、そのさまざまな病を誰もが少しずつ、群れの一員として普通に暮らすのに不自由ない程度に持っていて、それぞれ病の度合いが一人一人違うともいえる。

 人格・性格を決めるのが「氏か育ちか」が昔から人間の間で問題とされる。両方だ、というとなぜか両方の側から叩かれるが、それも人間の言葉思考・単純化指向の誤作動だろう。

 その「氏」というのは言葉だけ見れば遺伝子なんだが、人間は個人より家族・人種・魔術的関係などを基準に考える。気に入らない者を遺伝的なつながりも含めて、いや後述する穢れでつながるすべてを皆殺しにしたり、後述する奴隷制や身分制を正当化したりしたいだけだろう。育ちというのも、人間は育て方次第でどうにでも変えられる、という「空白の石版」論として使われている。正しい育て方をすればすべての悪はなくせる、と世界を簡単にしたいんだろう。

 まあ遺伝子もかなり大きいが半分程度、ほかは実質予測不能、ごく幼い頃に放棄されるか暴力的に扱われたりしたら悪影響があることが多い、統計的な影響がある程度で単純な予測は不可能、といったところだな。環境といっても単純ではなく生後の無数の微小刺激の集まりによるから統計的にしか予測できないのは当然だ。どう育てるかと本人の資質が食い違えば、正しい育て方でも裏目に出るから計算どおりに育てることは不可能だろうし。遺伝子というのも別に育った一卵性双生児……DNAが共通の子供で育ちが違う場合、精神病や犯罪などがほぼ半分は遺伝の影響がある、という程度の話だ。


 ただし、その人格は適切な技術を用いれば容易に破壊できる。

 人間は群れ動物であり、ある意味では後述の家畜だ。だが、家畜と違って「飼い主」も人類だ。群れが拡大し、世襲が固まると上位者が飼い主を兼ね、下位の者の精神を家畜化することが多い。

 人類は七万年ほど前に巨大火山が活動したため絶滅寸前に減ったことがあって遺伝的にほぼ同じだから、「飼い主」と「家畜」が別の種にまで分かれることはなかった。今でも任意の人類どうしはその子も含め繁殖可能であり、支配者であり優秀、逆に知能が低く従順など特定の性質を品種として安定して遺伝させることもできていない。

 だから同じ人間が同じ人間を支配し、家畜化するという厄介なことをしなければならない。どの人類の心にも、群れ動物としての「支配する」「支配される」両方がきわめて深い部分で入っている。

 支配する側が的確に、人を支配するための行動を取れば……相手の後述する名前・アイデンティティを破壊し、圧倒的な暴力と恐怖・食料や水の不足・激しく時には意味のない運動負担・長期間の睡眠不足で極度の不快・苦痛・恐怖状態にし、信仰体系を書き換えて常に儀式的行動・装飾を強制し、単純な言葉を繰りかえすなどで常に服従のメッセージを出すことを強い続けるなどすれば人は家畜化できる。


 さらに個体差が極端になると、それが群れの価値観から見て優れていれば英雄、劣っていれば群れが生きる役に立たないため不要として排除されることにもなる。ただし、優れているか劣っているかは単純ではなく、きわめて多くの要因がからむ。個人の資質も何十種類もあるし、さらにその群れではどの資質が評価されるか、その個人が産まれたときの群れの権力者の力関係や、誰に好かれるかなどによって、同じ高い資質や大きな欠陥があってもその地位は全然違う。


**自尊心・劣等感・名誉

 人間は後述する自我だの意識だのいわれる何か、善悪の価値観を持ち、その価値観によって「人間自体」「自分の属する群れ」「自分自身」が「特別」だと思っている。他とは異なり、「良く」「強い」。暴力的な強さ、生命を維持する物資の多さ、群れの規範に適合した行動がとれている……恥や罪の反対、他者に愛され称賛されていること……それらが自分及び自分の群れにあると思いたがる。それも無限に、完全に。人間は世界のすべての情報を知ってはいないし、脳にそれを処理できるほどの容量はない。人間の能力はごく限られている。だが人間は自分は、自分たちは完全だと思いたがる。

 また人間は自分は動物ではない、と強く考えたがる。動物のように劣った存在ではなく人間という特別に高い存在なのだ、と。どう見ても動物でしかないが。

 価値観において、後述する家父長制では基本的に神>家長>成人男性>生殖能力のある女、子供>動物、穢れ・罪・恥を受けた・生殖能力がない人、悪霊の順(いくつかの不等号は事実上等号であり、逆であることすらある)に、価値が低く悪だとみなす。


 自尊心、自分が特別で、恥や罪とは逆に「良い」「強い」存在であり、他人に注目され、他人を支配でき、欲しいものが手に入るなど思い通りのことができる、という考えが人間にとっては常に快であり、体の病気を防ぎ学習能力を高める影響さえある。中でも自分が群れの高い地位にいる、ということは大きな自尊心をもたらす。他人に注目され、称賛され、また何かに成功することは自尊心を満足させるし、自分の脳内の言葉で自分を称賛するだけでも自尊心をある程度満足させることはできる。

 言い換えれば「自分はこの(良い・強い)群れの一員だ」「群れの上位者だ」という快の変型とも言える。

 逆に失敗などでその自尊心を奪われると、大きな不快を感じ病気になることさえある。ただしその状態では、他人の言葉や暴力による訓練で簡単に人格をある程度書き換えることができるため、人間を家畜化する技術においては重要だ。人間はまるで食料を求めるように、あらゆる方法で自尊心を満たそうとする。人間の群れを制御するときにはそれに沿った方向であることが常に必要だ。

 自尊とその欠如は、人間の精神の病気とされる状態とも関わる、脳の深い構造からくると思う。それが人間の社会・歴史を動かす力はきわめて大きい。

 ただし、人間の欲は無限で矛盾しており、世界は有限だから、本質的に自尊心を完全に満たすのは無理だ。常に人は自尊心が満たされていない、という欠落感を感じている。


 子供が自尊心を得、また学習するのにも使われる、あらゆる人にとって普遍的な心理が自分は(非常に強い・良い・群れ内地位の高い)別個体・何かと「同一である」という心の動きだ。

 自尊心を高め、劣等感をごまかす手段でもある。

 それは模倣とも強く関わり、まず子は最初に目にする圧倒的な支配者である親を模倣する。模倣は人間が好む魔術の一つ、変身……心を保ったまま、たとえば別の動物や他人に自らの肉体を変えることと、魔術的には実質同じだ。


 人は物語を作る。誰にとってもこの世界全体が、自分を主人公とする物語だ、というのが人間の本質のひとつだ。

 物語とは言葉の説明にもなるが、言葉だけではない。人の記憶の総体であり、ある程度は言葉で表現できる、「自分が」どこでどんな行動をするか……自尊心とも深く関わるから、自分がどれほど良く強いかでもある……を物語にしてしまい、それに応じて行動している。

 それはある意味演技・模倣でもある。同一化の対象を演じ、自分自身を演じているとも言える。何かを演じる、というのが人類にとってどれほど重大か……私はそれをろくに理解していない。

 また人間は自分自身を感覚で認識しており、それもその自我という精神構造の重要な要素となる。

 さらに面倒なのが、人間の脳の構造上、どこまでが自分の肉体なのかさえ自我と関連して処理される。それには妙な柔軟性があり、服や道具、下手をすると群れの成員などすべてを、自分の身体を認識する脳のプログラムの応用変型で処理してしまうし、病気として自分の腕や脚が自分の一部だと感じられなくなることもある。その変型で、別の何かに変身したりしていると、脳の深い部分はきっちりと思いこむことができてしまう。

 それら、自分の自尊心を満たす物語、自分の感覚や行動などから「アイデンティティ」自分が何であるか、という思考・感情の集まりができる。それと関連する「自我」という物語が人間にとっては一番重要になる。本来人間の心なんて、脳が周囲の情報を受け、体の細胞やそれが集まった器官がいろいろな情報を出して生存率を高める行動を取りたがり、周囲の他人とコミュニケーションし、脳が言葉を心で思う・言葉を口に出す・体も動かすなどでそれを繰り返すことを好む情報ミームの集まりでしかないのだろうが。それこそ自我なんて自分を擬人化しているだけかもしれないし、また多くの対人関係・魔術的な物や架空のものとの関係も外しては考えられないものだろう。


 自尊心を満たしたいときや、強い不快があってそれをなくす手段がない時、欲求と抑制が強くぶつかり合うときなど、人はしばしば実際あるものをないなどと自分をだます。自尊心を満たす結末に至る物語を作り、その一部として現在の不快があると考えることが多い。後述の象徴と人格化を用い、何かを憎悪することも多い……この不快は敵の攻撃によるものだ、反撃して敵に勝て、となる。

 本質的には、現実とは異なる物語を作って自分をだますことで自尊心を満足させるわけだ。「特別ではないただの一匹の道具を使う動物が統計的な不運と未熟な投げ槍技術により獲物を逃した」という現実より、「栄光に満ちた神の子である最高の投げ槍の名手が敵の妨害によって獲物を逃した、だからその敵を殺し逃した獲物も手に入れる」という物語を作ってしまう方が自尊心を高くでき、深いところで快なわけだ。

 それは長い目で見ると、実は獲物は減る……試行錯誤によって成長し、統計的な現実を見て行動したほうが統計的には多くの獲物を得られる。さらに敵とみなした相手に暴力を振るえば自分も群れも危険にさらすから、そうしない方が合理的だ。だが人間は残念ながら、そのようには進化していない。

 また快をもたらす何かや、普通快ではなさそうに見えても今の心を圧倒するような行為……支配・交接行為・暴力・物の浪費・危険行動による恐怖など多数……や、精神が一時的に壊れるような幻覚性の毒物の摂取もその逃避となる。


 また、その「自分を騙す」技術は、嘘をつくためにもきわめて重要だ。

 嘘というのは事実と異なることを言葉などで他者に伝えることだ。これが群れ動物にとって「裏切り」であることは分かると思う。

 たとえば単純な群れを作る草食動物でも、「(自分たちを食べる)肉食動物だ、逃げろ!」と、肉食動物などいないのに群れの仲間に知らせ、皆が逃げた間にゆっくり餌場の草を独占して満腹で群れに追いつくことができれば、自分の繁殖率が大きく上がる。だがそれをたびたびやられると、まず嘘をつく個体ばかり繁殖して皆が嘘つきになる。

 そうなると警告を無視する個体がいれば、その個体もゆっくり餌を食べるから繁殖率が上がって増える。それで警告は無意味になり、肉食動物に食べられやすくなって群れ全体の繁殖率が下がる。

 だとすると、嘘と真実を見抜き、嘘つきを罰する個体でできた群れが最上となる。人間は泣いたり笑ったり糞尿を漏らしたり生殖器が変化したり血流を通じて皮膚の色が変わったり意識していない細かな動作があったり、と感情が反映する肉体的変化、表情、言葉の情報とは別に声の調子や体の動きを瞬間的に総体として判断する脳の深い部分などが嘘を見抜くことができる。

 さらにそれに対しても嘘をつくため、自分自身を騙すという更に高い心の働きまで進化してしまったというわけだ。

 自己欺瞞を描いた、これは小説という人間独自の表現法だが、『春にして君を離れ』(アガサ・クリスティ)を一度読んでみてくれ。どれほど誰にでも自己欺瞞が深くあるか、人間なら恐ろしくなること請け合いだ。


 また、自尊心を満たすのにもきわめて重要になるのが、自分が群れの中で高い順位、少なくとも正式の成員であることだ。群れの人間が自分に対して、言葉やその他あらゆるコミュニケーションで肯定的な感情を表現していれば自分がそうであると判断できる。またそれは許される衣類や装飾、儀式や普段の食事などでいていい場所などを示す形で、魔術ともきわめて密接に関わる。また別の成員の群れ内での地位やその行いについて話すことを人は好む。他人の地位を引き下げることはきわめて大きな喜びになる。

 また対人コミュニケーションの中で、他人に対し「(自分より)地位が低い」と伝えることは、実際に武器で体を傷つけるのと同等かそれ以上の攻撃とみなされる。それは魔術・呪いでもあり、言葉、身ぶりや視線など態度、唾・泥・糞尿・泥などをぶつけることなどによって行われる。

 本人及びその家族全体の、群れ内での地位は、名前に付随する重要な情報として群れの中で共有され、群れの物語の一つとなる。本人の物語にとってもそれはきわめて重要で、自尊心の最も強い支えとなる。そういうのを総合して名誉と呼ぶ。

 逆にその群れ内での地位の低下は本人にとって最も不快となる。実際に地位の低下が甚だしければ群れの成員と認められず、自分も自分の親族も繁殖相手を見つけられない可能性が高くなり、最悪群れから追放される、すなわち極めて高い確率での死と繁殖率の低下にもつながる。自尊心を傷つけられること自体がきわめて大きな不快だ。

 人は自分自身の苦痛や死よりも、自分及び自分の属する群れ……家族から巨大群れまで……の評価が低下して信頼されなくなり、人々の話の中での地位を下げられ、許されていた装飾や儀式での場所を禁じられ、群れから追放されることを不快に思う。

 名誉は、その個体およびその家族……後に多数の群れが複合したら、群れそのもの……が「信頼できる」という意味も持つ。

 群れ動物である人類にとって、群れの成員が相互に信頼できる……背中を見せても突然襲いかかられないこと、その言葉に嘘がないことなどを確信できることが何より重要だ。信頼できる相手でなければ協力してより大きな獲物を追い、ものを分け合ったり交換したりし、共に儀式に携わることはできない。

 さらに後には、多数の群れやその出身者が集まって大きな行動をし、遠距離で情報や物資をやり取りするとなると、その必要性はさらに上がる。


**幸福

 いつからかは知らないが、人は「幸福」を目的とすることが多くなった。

 動物としての「快」とどう違うのかはわからない。

 水や食料などが十分にあり、傷や病気もなく、家族が繁殖をきちんと続けられて愛情または支配服従秩序が強く、群れも強く穢れがなく、自分や家族の群れ内地位にも満足できて自尊心が満たされ、自分が善であって恥や罪を感じておらず、快があって不快がない状態、と言えばいいのだろうか。

 だが人間は満足しない存在だ……たとえば、膨大な食料やきれいな水がわき出すし気温も常に快適な場で動かずに思う存分食べていても、すぐに「行動しない」ことが不快になる。

 のちに言う娯楽も強い幸福感を与えるが、すぐ飽きる。

 とにかく人間はすぐに移動して新しい食物を探す生活の中で進化してきて、そのために作られているようなものだから、それができなければ不快になり、幸福ではなくなる。かといって、現代の富裕な地域の富裕層として生まれてからずっと贅沢な生活をしてきた人間にとっては、人類が進化してきた半ば動物としての生活は地獄のように思えるだろう。

 幸福感だけを言えば「春にして君を離れ」で描かれたような自己満足状態や、単純な命令をくれる宗教や同じことだが軍隊に盲従している状態、ひたすら激しい運動をしながら明確な目的のために行動している状態……肉食獣から走って逃げ続けなければ死ぬ状態、または脳細胞を壊して直接幸福感を感じさせる悪質な毒を注がれている状態が幸福にも思えるが、それは客観的に見ればどう見ても不幸だ。

 自分が生まれた群れに順応しきっていれば幸せとも言えるが、主要宗教のテキストをそのまま読めば群れを捨てろと命じてるし、別の所では群れに従えって書いてあるからどうしていいかわからなくて不幸になるだけだ。

 はっきり言えば、人間の欲は無限だし矛盾が多いから全能があっても幸福にはなれない。なにしろ人間は生来、対象なしにわき上がる強い欲・怒り・恐怖・支配と被支配などに突き上げられており、それが対象を与えられればその対象に執着する……それを得れば幸せと思えるだろうが、本当に満足できることなどありえない。


**分配・公平・ジレンマ

 群れ動物でなければ、自分が手に入れた食物は自分で食べてしまえばいい。多すぎて食べきれなければ放置して腐るに任せるしかない。だが群れ動物ではそうはいかない。保存食があると、さらに分配が複雑になる。もっと複雑なことに、人類は異なるものの価値を抽象化して交換することができる。

 人間には独占と公平を同時に求めるという矛盾がある。自分は独占したい。だが他人も独占したいことは同じで、争って勝てるとは限らないし、一日中争ってばかりじゃ食料を取りに行く暇が無く群れごと飢える。だから次善として公平を選ぶ……そもそも群れそのものが、皆が少しずつ欲望を抑えて、長期的に皆が利益を得るシステムだ。というか基本的に、人間は「欲を持つな」というのが最も普遍的な規範だ。

 人類に近いサルの場合、ある個体に少なく別の個体に多く与えるか、どちらも何ももらえないか、では前者を選ぶ。比較的少ない量であってももらえるかもらえないかのほうが重要だ。だが通常の人間は後者、不公平な分配よりも空腹を選ぶ。公平そのものを重大な善として扱い、一時的な空腹を満たすことより優先する。ちなみに人間関係などが苦手な、ある心の状態にある人も前者を選ぶ。と言ってもその人たちはサルに近く下等だというと間違いだ、人間以上に合理的ということだから。多分論理演算機械のものすごいのも前者を選ぶだろう。

 分配と所有でやっかいなのが、これについてはいろいろな立場の人間が、その立場を投影して「人間は本来所有するものだ」「人間は本来は共有していた」と主張していることだ。過去の人間は所有せず共有していた、という伝承も多いが、それも過去を理想化し所有を嫌う傾向からである可能性もある。ただ実際に、文明と接していない単純な生活をしている人たちを調べれば、ものを群れで共有しているケースもあるし、それでいて所有、少なくとも縄張りの概念ある程度見られる。

 共有傾向も独占傾向も、矛盾はしているがどちらもあり、その矛盾の中で人間は生き延びてきた、としか言いようがない。


 人間が、特に快をもたらすものや他人の行為に対し、数値換算して考えるようなところがあるのも重要だ。他の群れる動物にどれぐらいその要素があるのかはわからないが、人間の記憶力・個別認識の高さはその点でも高いと思う。食料などをもらったら少なくとも同じ量返さなければ公平でないと感じるし、また愛情や攻撃を含めた多くを、後述する貨幣のように定量化して取引するようなところがある。罰や生贄もひいてはその発想だ。

 人は罪と罰、善行と賞がつりあうことを正しいと感じる。行為の善悪と利益の因果関係は後に言う民話の重大なモチーフでもあるし、人間にとって重要な見えない前提の一つだ。それが狂うと不公平を感じ、強い怒りを抱く。

 問題は人と人との関係ならともかく、「罰」ではなく自然現象だったり、大きい群れの不安定な動きだったりするときだ。結果は制御されていないから、群れで正しいとされていることをしても悪い結果になるかもしれない。だが人間はそれを非常に嫌がり、様々な魔術的な考えを用いて世界像の方を修整する。

 他にも努力と成果、恩と返礼など多くのことについて、人はすべてが公平であってほしいと思っているし、それで人間の罪悪感や嫉妬・憎悪ができているようにも思える。


 基本的には分配を決めるのは群れの最上位者で、その最上位者は自分自身の欲望と群れの利益でどうするか常に難しい判断をしなければならない。特に不公平な分配をした時に起きる不満は地位を危うくし、また群れそのものも危うくする。

 その「公平」という感覚は小さい規模の群れで、食料を成員に同じように分けあう、というやり方とも関係する。

 大量に持っている人が群れの成員に惜しげなく食料などを与えることは一般に善とされ、それは後にも支配の重要な面となる。

 大量の食糧を得た場合、狩猟であれば、獲物を得るまでの多数のできごとで、「もし彼がそうしなかったら、獲物は捕れなかったろう」がいちばん大きいこと、中でも「このことは彼にとって危険だったにもかかわらず」であることを善として獲物を独占させるべきとも感じる。だが反面、小さい狩猟採集群れは基本的に「食糧は全部等分に分け、全員が同じだけ食べる」というルールがある。

 双方を満たせるのが、最も功績の高い人や群れの最上位者が全部を一時手にして、それから全部を等分に分配することだ。最上位者以外の誰かに大きな功績がある場合、功績者が最上位者に獲物を捧げ、最上位者が全員に分配して代わりに功績者に名誉を与えることが多い。群れのメンバーは食糧を与えてくれた最上位者に感謝し、最上位者への忠誠が強まる。実際、特に小さい群れ、文明化の程度が低い群れは、群れで高い力を持つ者が富を人々に与えることが多い。


 人間は群れの中で、特に親しい・愛する個体に対してはその求めのみに応じて持っている食料などを与えることもある。それも人類にとってきわめて重要な要素だ。だがそれだけで形成される群れは、常に「求める」メッセージのみを発し、自分からは与えない個体が一方的に利益を得て遺伝子を増やしてしまうため維持できない。

 安定するのが「もらったら返す」かつ「裏切られたら報復する」の二つだ。それは空を飛びほかの動物の血液を餌にする哺乳類にも観察される。

 ここで参考になるのが、後述する論理計算をする機械の中で行われた、よく話題になるある実験だ。要するに協力すれば両方が小さい得・裏切れば裏切った方が大きい得で裏切られた方は損、というルールで、何度もその判断を多くの「こうなればこうするの集まり」にさせて誰が一番得をするか、とやったら、「最初は協力する、それ以降は相手が前にした通りにする」のがほとんどの場合一番勝つ。

 ちなみにその「協力すれば両方が小さい得・裏切れば裏切った方が大きい得で裏切られた方は損」は人間の言葉では囚人のジレンマという言葉で表現されている。それは相手が裏切らない保証がないから常に裏切った方が個体にとって特になるが、裏切りは両方を群れとしてみると損になる。


 他にも人間の世界では、個体にとって合理的な判断が群れにとって合理的にならない、というどちらを軸に判断すれば正しいのかわからない状態が多数ある。特に悲惨なのが共有地のジレンマ、要するに毎年一定の食料を出すが過剰に取りすぎると二度と食料を出さなくなる場があり、それを多数の人が誰でも取っていいとすると、皆が最大限に取るため二度と食料を出さなくなる状態になってしまうんだ。人間の狩猟・農業・森林伐採・漁業などあらゆる生産でそれが出てしまう……人間はそれを本当に制御する方法をまだ知らない。


 あと重要な感情が嫉妬。人間は深いところでは、他人がいいものを手に入れることを喜ばない。できれば全ての食物も異性も独り占めにしたい。

 特に自分が執着している欲しいものを他人が手に入れる、さらに自分が食べようとしているものを奪われることは、それこそ生存の危機にもなる不快なことだ。それを暴力同様攻撃としてとらえ、それに対して怒り・憎悪を感じ、強く反撃するのは当然のことだ。

 と言っても同じぐらい、他人から奪うのもまた快感なんだから厄介な話さ。


**記憶

 人類は記憶力も、ものによってかなりいい。

 純粋な情報を短期間覚えるのは数語がせいぜいだが、特に物語の形にして体と結びつけると極めて高い記憶力がある。

 反面、物語としてわかりやすくなるよう、また根本的に自尊心を損なわないよう複雑な事実を物語にそってねじ曲げて覚えることも多い。

 あまりに不快なことは無理に忘れることもあるが、意識していないところは記憶しており重要な快不快情報にしている。

 記憶のほとんどを、少なくとも意識からは忘れることのほうが人間の優れた能力だ。

 映像や音声は本来膨大な情報量……動画の場合、膨大な網膜の細胞の数とごく短い再反応時間……があるのでそれを完全に記憶していたら脳細胞がいかに多くても無理だ。

 ちなみに人間の記憶は、その記憶に関連した強い感情の動きがあり、よく思い出すものを思い出しやすくする。論理計算機の、情報に単純化した符号をつけてその符合の集まりから簡単に検索できるようにしたシステムとは全然違う。

 根本的に、人類が後年実現した0と1に分けられる情報を扱う論理演算装置とは違って、大量のテキストの記憶・その検索はやや苦手。ただし訓練によって、特に音楽とあわせた文章なら相当量を記憶できる。


**理性・論理

 人間には理性があるという。論理的に考え、合理的に因果関係を理解し、隠された秩序をつきとめ、自分自身さえ客観的に見て最善の道を選んで判断できる、と自認している。

 ちなみに、これまでの文でも微生物から物理法則まで「~のために」「~という戦略を」というような言葉を使ってきたが、それは本当は間違いだ。かなり複雑な大型動物は知らないが、それ以外の植物・微生物など、まして細胞内部の分子が「~のために」などと考えることはない、逆に「たまたま~だったものが増えた」だけのことだ。

 目的、「~のために」という考え方も、いくつもの行動を複雑に組み合わせて群れが必要とする物を入手するなどできる、群れの存続のために有利な考え方だ。しかも進化で脳の配線が変わるために必要な何世代もの時間よりはるかに短い時間で変化した環境に順応できる。

 確かに多くの人間は言葉での思考ができ、少ない数や単純な図形なら直感的に考えられるし、かなり大きい数や複雑な幾何学も訓練によって扱うことができる。

 言葉で考えられるのは大きな強みだ。言葉に様々な、抽象化された地形や動物種などを乗せていくことで、試行錯誤を頭の中でやってしまうことがかなりできる。それによって実際に何かをする危険を冒さずに、多くの選択肢を排除してより確かな行動をとることで、生存率を大きく上げてきたことも確かだ。

 そのときに、様々な面を持つ複雑な現実の何かから、ひとつの面だけを取りだしてそれだけで動く抽象化された小さな世界を頭で考えたり、さらに補助的に絵や彫刻の極端に単純化されたのを用いたりすると、物事を物語として頭に入れ、どう動くか頭の中で動かして試行錯誤して予測したりしやすくなる。科学における数学的モデルも基本的にはそれだ。

 ただし前提が間違っていたら全てが間違いになる。

 人間の意識では基本的に「全体=部分を全部あわせたもの」だ。だが動物的な感覚・感情の動きは全く異なり、部分を足し合わせることも分析することもなく「全体」そのものとこれまでの経験の総体から直接を判断・行動する。それは非常にすばやい判断だし、大体は正しい。よく経験して思い出しやすい情報、直前に得た情報を参考にしたり、脳の情報の集まりで特に重要としているものをそのまま当てはめたりする。

 分析的な思考と総合的な思考、とものの考え方自体を対立関係にして考える人も多い。

 ただし人間は根本的に、確率統計だけを用いて物を考えるのが非常に苦手だ。合理的に考えていると自分では思っていても、実は様々な感情が入りこむ。元が動物だから。原因と結果の関係と、別の原因のせいで確率が同じぐらいなのもろくに区別できない。

 人はどの選択をしても取り戻せないこれまでにかかったコストを切り捨てるのも苦手だ。努力を無駄にすることを嫌うし、その努力が無駄になったこと自体が悪霊による攻撃・自分の罪に対する罰などと解釈してしまう。

 純粋な論理思考も苦手で、裏と対偶の区別がまともにできる人間などほとんどいない。また本来純粋な論理の問題なのに、人間を用いた話と抽象的な記号を用いた話では違う答えが多くなることもある。

 といっても、それは特に巨大な群れを作り、優れた技術を使うようになると大きい欠陥となるが、数十人の群れで食べられる植物を捜し、狩りをしてさまよっていた頃は絶滅しない程度には適応していた。他の条件が同じ、完全に論理だけの人間の群れは間違いなくすぐ絶滅していただろう……前提とすべき情報が常に少なすぎるから。また論理だけの個体が出たら、群れに順応できず死ぬことになるはずだ。


**魔術

 人間は、少なくとも近代人は自分では理性的だと思っている……理性が善という価値観のせいだ……が、魔術的な考え方のほうが本来のやり方だ。

 私はこの「魔術」という語を、確信と自覚を持って使ってはいない。定義することさえできないし、百科事典的な定義とも一致していないと思う。ここでは、はっきり定義できない、私の中にある、ある概念をまとめているだけと思って欲しい。

 魔術的な考え方というのはここでの私の言葉だが、要するに人間特有の認識・思考法から、科学的に検証されたものを差し引いた、全体として行う考え方、目的を実現しようとしての行動だ。といっても実は科学とそれほど厳密には分けられず、連続的につながっていると言っていいんだが。

 魔術という言葉が一般的に指すことを分けて考えてみよう。

○自分が「自然法則が許さない力」を使えないとわかっていながら、自覚的に見ている人を騙して自分に「自然法則が許さない力」があると思わせる見せもの。後述する娯楽の重要な要素だし、大きい群れの行動を決定する強い作用もある。

○主に言葉によって作られた世界において、その登場人物が使っている力。

○それが魔術だとは自覚されずに使われているが、構造そのものは魔術そのものである行為。

○魔術だと思われていたものの実は科学的に正しい面があった行為。

○自分に実際にそのような力があると考えて行う行為。

 最後のそれについて詳しく検討する。

 根本的には「特別な状態で何かを意思し適切な行為をすると、その意思どおりの物事が実現される」「人間が見たり感じたりする世界の外からの訪れがある」を前提とする。

 人間の、魔術と深く関わる認識・思考法には「集合・比較・分類・関連」「二元論・数直線」「因果・目的・物語」「擬人化」「象徴」「自尊」「自我拡大・変身・所有」などがある。多分色々忘れていると思うが。

 これらの考え方は人類の、動物的な脳の働きに由来する、脳から見れば現実に他ならないものも多くあるし、科学的・理性的な考え方とも深い関係があり、切り離せない。


 人は自然のきわめて広い範囲の物事を分類する……複数のものを感覚器で認識して比較し、同じ特徴を持つと感じられるものを同じ集合に入れる。世界そのものを集合の中に小さな部分集合がある、その繰り返しとして考える。ちなみに4~9ぐらいの数しか人間は頭の中で楽に扱えないため、何を分類するのもそれぐらいの数だ。

 まずすべてを善悪・光と闇・白と黒・男と女に二分する。それから4~9に世界を分割し、特に魔法と高い関わりがあるものをそれぞれに当てはめる。まず色、文字や数、火や水のような単純な現象、天空に見える惑星、宝石、薬草、人体の臓器、主要農作物・家畜・金属など。

 人間が様々な生物を分類するのもその、集合論と共通した考えだ。似ている物は同じ集合、同じ特徴は同じ集合、同じ集合の物は同じような挙動をする、と。

 それはおおむね正しい。模様が違うだけの同じ種の動物に別の狩り技術を考えるのは考える時間とエネルギーの無駄遣いだ、前に仕留めた同じ種の動物に使った技術でいい。といっても正しくないこともある……毒を持つ生物の場合特に。さらに同じ黄色だから、ある原子番号の金属・太陽・ある種の植物の花・ある地域の砂・肝臓を悪くした時皮膚に出る病状が同じ集合、というのは言うまでもなくとても違う。

 地球人の数学の根本にあるのは集合論なんだが、それは地球人のこの性質からくるのだろうか? 別の星では集合論のない数学者がいるのだろうか? いや、同じ地球でも、もしヨーロッパでなくユーラシア東が近代化したなら、集合論なしに核兵器を作ることができていたのだろうか?

 そして人間の記憶などのやり方が、ある物事が引き起こした感情とその頻度を使うため、どんなことでも別の物事や出来事を思い出し、それがまた……とつながることがとても多い。そしてそのつながり全体も、当然集合とされる。


 また人間は、上記の「善」と「悪」のように、あることを一つの数直線……順序のある数と、直線上の配置に対応させる数の表現法……に載せるように考える。両方の極端と、その間を結ぶ線のどこかにいろいろなことが位置できるように考える。

 特に厄介なのが敵味方思考。あらゆるもの……他人・物体・自然現象・言葉・感じ・数など全て、自分の味方で善か、または敵で悪だ、と感じ、それにそって考えてしまう。

 13……二進法では1101、二進級数では2の3乗と2の2乗と1(2のゼロ乗)、二の指数が他のはゼロの総和という特定の比較的小さい数……が敵だ、と思ってる非常に大きな群れがある、というと、なんだかわからない聞いてる相手は笑うだろうか。

 最も単純には、それこそ自分が支配していないものは全て敵で悪だ、とさえ思ってしまうものだ。

 といっても人であれなんであれ、善悪に分けるなんてばかばかしい話で群れにとっての不利益も大きいだろうが、人間の動物としての感覚と思考をうまく調和させるには都合がいい。

 そして人間は、物事の情報全体を瞬間的に認識する能力が動物として存在する。動物としての感じだから、恐怖や美などだが、色・匂いなど単なる情報に対しても、意識の下で感情が動いて敵味方などの判断をしてしまうし、それより少し複雑な分類に入れてしまう。

 一度ある物・事・人などをある集合に入れてしまうと、その集合の単純な特徴・好き嫌いがそのすべてになってしまう。なんでもさまざまな面があるとか、同じ群れの人間でも個体差があるとかは考えない。

 前述した食物などもらったら返す関係も、数学的に等しいことを求めるような心理であり、それも魔術的に重要な原則だ。


 二元論でもう一つ、心身二元論がある。

 人間の多くの考え、おそらく全員の深い心のありようがそうなっているんだと思うが、自分の思考は肉体とは別だ、思考と肉体は切り離せる、感覚器では感じられない人間に似ているが人間にできないことがいろいろできて意識がある存在がある、という考えがある。また人間が覚醒時感覚器で感じるこの世界とは別の世界が存在しており、特殊な状態でその世界とやりとりできる、という考えでもある。

 確かに肉体の、意識的に動かせる筋肉は何も動かさずに言葉でものを考えることはできる。また、毒物や肉体的な疲労、後述する儀式、激しい心身の苦痛、眠っているときの何かの具合、巨大な自然美を見ることなどで、自分の体を認識する感覚が一時的に止まり、自分の体と感覚の普段ある一体感がなくなることもある。また世界との一体感などと表現される激しい幸福感を得られることもある。人間は実際に見ていないものを見たように感じ、実際には耳に音が伝わっていなくても別の個体の声を聞くように感じることも多いし、それが強く奇妙な考えを思い込みとして信じる人間も一定数いる。他にもさまざまな精神の病気があり、どんな人間もその諸症状を弱くさまざまな形で持っている。

 それで人間の感覚・思考・判断の部分は、生きている人が普通に見ることができない、人間と同じ形の、飲食呼吸を必要としない不死の存在として肉体から分離するし、そして一部の超能力を使える者は生きているとき同様使うことができる、と考えている。

 人間が死んでも、その肉体から分離できる精神活動は存続し、それらのための別の世界に行ってそこで暮らしたり、この世界で自分たちと混じって暮らしたりしている、と考えてしまう。

 さらにその死んだ者が、生前使っていた死体を生き返らせたりいろいろして襲ってくる、という恐怖が人のとても深いところにある。

 おそらくは、人間は死に、その肉体は脳もろとも崩壊し、知識もミームも記憶も群れの中でのその個体の有用性も全てなくなり、もうどんな快も感じられず死という最大の不快に身を任せる……また愛する人が死んだらもう二度と接することができないことがいやで、そうでない物語を作ろうとしたのだろう。

 これは検証不能だ、もしそれが、現実の世界の物体と一切相互に干渉しないなら。だから科学的には無意味、むしろ偽命題として扱われる。だが、人間はそれが様々な形で現実の世界にさまざまな影響を及ぼすとも思っている。

 こうして科学的には存在していないものについて語ったが、人間にとって霊、特に後述の自然物などを含めた神霊はあまりにも当然で、霊的なことと人間が意識する実在世界を厳密に区別するのは実は不可能に近い。


 物事に因果関係がある、と考えることも重要だ。さらに因果を物語にするのも人間の特技だ。また近くにあるものは関係していることが多い。さらに、あらゆる物事を目的に応じて考えるのも人間の癖だ。

 それに善悪が入るとさらに厄介になる。あらゆる損が、悪い・嫌いな・憎い敵の魔術による陰謀や自分の悪行に対する罰、逆にあらゆる得は自分や自分が同一化している、後述する親みたいなものが魔術で守ってくれているからか自分がいいことをしたからだ、となってしまう。

 人間の絶対的な前提が、「正しいことをすれば正しい結果がある」「すべてに原因・理由がある」だ。事実としては「統計的には」、「かもしれない」を付け加るべきだ、この世界は複雑なんだから。

 だから道徳的に完全であることを、群れ全体・各個体・指導者に強く求める。不快なことはなんであれ、誰かの道徳的な悪を原因として考えてしまうという魔術的思考だ。道徳と禍福の因果、道徳と「状況に適応した行動選択」と偶然の混同があまりに当たり前で誰も意識しない。群れ全体は道徳的に完全であり、ゆえに福に恵まれて当然、逆に災いは全て道徳的な悪によるという無意識的な魔術的思考がある。また悪しき個体が群れに悪を呼ぶと考えて悪と穢れの同一視がある。そして後述する、指導者は完全道徳であり、ゆえに全能であり、いかなる福も招けるという無意識の前提がある。


 秩序の誤認も実に多い。たとえば木や岩の模様が人間の顔に見え、だから人間と同じく顔があって意識があり、うまくやれば会話できる、となってしまう。まあ人間が複雑な情報から秩序を見いだす能力は役に立つんだ、草の中から肉食獣を見つけることもできるんだから。

 物語には「たとえ」という使い道もある。ある新しい現象を、頭の中で「理解する」ためには、自分が常に理解している現象を用いた物語と同じ構造の物語でちょっと配役を変えるだけ、というやり方で理解するのが一番いい。理解というのは「脳内で、普段の生活に使うのと同様の“モデル”として処理できるようになった」状態なんだろうか? 逆に量子力学などはそれがまったくできないから本質的に理解できないというわけか。

 人間の言語自体、よく調べてみれば分かるが膨大な象徴とたとえの塊だ。

 目的思考も人間のやっかいな癖の一つだ。あらゆることが、自分の物語に関係した、何らかの目的を持ったものだと考えてしまう。たとえば生物の器官は目的を果たすためにデザインされたように見えるが、上述のように目的論は本質ではない。本質は原子どうしの相互作用、より複雑な分子どうしの相互作用であり、自己複製分子の活動によって、適したものがより多く繁殖できたからでしかない。逆に目的論を使わずに人体生理学を解説しようとしたら、どれだけやっかいか見当もつかない。

 人間の発想では擬人化と統合されて目的論が重要……ただし本来の目的(群れの持続)ではなく、宗教的目的に暴走することが多い。

 ちなみに人を支配するにも目的は有効。目的を持った群れは統治しやすい。


 擬人化というのはある考えや行動の枠組みを人であるとし、さまざまなものが、その人のやり方で感じ考えて行動する、と考えることだ。

 他人の心を「自分が相手だったら」と推し量る心の理論は、人間が群れで生きるうえでも、群れどうし戦ったり交易したりしたりする上でもとても有効な適応だ。だがそれは「他人も自分と同じ肉体・精神構造を持つ人間である」という仮定がある。実際自分が石で頭を叩かれたら痛くて恐怖するのと同じく、ほかの誰もが石で頭を叩かれたら痛くて恐怖する。

 人間について有用な「自分が相手だったら」仮定を人間以外の動物・植物・地形・天体にまで適用してしまうと、それは科学的には誤りだ。というか、それどころか同じ人間でも、群れが違うと何をしたら何を返すかがかなり違うことが多い。

 ただし未来を予想し、思い通りの未来を作るというのは人間の観察や技術の本質にかなうことであり、必要なことだ。擬人化やそれに近い心の動きなしに、どんな物理法則も理解できるとは思えない。

 だが、上でも言ったように、木や岩など自然物も人間同様に心と意識があり、対話し支配できる可能性がある、と考えてしまうとそれはやりすぎだ。でも人間の考え方の深いところはそれを前提にしている。他人を石で叩いて「食物をよこせ」と命じれば、石で叩かれて痛いのを避けるため持っている保存食を差し出すことはある。でも同じように池に石を投げつけて「魚をよこせ」と叫んでも、実際には池は魚を渡してくれない。だが人間は、そんなふうにすれば池が魚をくれると、心の底で思ってる。普通に物質的に有効な手段で魚を捕りつつ、同時に石を投げて命令することもして、物理的な手段ではなく命令の効果で魚を手に入れたと考えるのが人間の常だ。

 もう少し考えすぎると、他の人間も自分自身さえも「擬人化」しているのかもしれないがね。人間は「擬人化」という形式でしか思考できない、だから自分自身も擬人化して自我とかを考え、他人も擬人化して……?群れ内で個体を判別することの暴走でもあるんだろうか、自分自身も「名前がある同一の存在としての個体」とみなすことで。

 あらゆることを、人間の個体同士や群れ同士、人間と捕食者などの争いのように、暴力をふるいそれから身を守る存在であるかのように擬人化するのも人間の根源的な考えだ。


 象徴というのは抽象とも関わる。私はどちらも完全には理解していないし、まったく前提を共有しない相手に説明するのは時間やエネルギーより困難だろう。

 たとえばきわめて多い視神経からの情報……画像情報を、動物のある特徴を持つ種の集合やそれに対する感情と対応させたりする心の働きで、それは情報の大幅な圧縮になる。

 目の前の果実や動物の、数だけを見ることもまた抽象だ……数学と抽象の関係はきわめて深い。抽象で重要なことは、人は「異なる種類のものの交換」が可能だということだ。肉と肉、石器と石器、背中をきれいにしてもらってやりかえす、それだけでなく石器と肉を交換し、双方がより得をすることができる。これができる他の動物は知らない。

 ものの形の重要な部分を単純化することも象徴の一部だ。たとえば槍・雄の生殖器の筒が交接準備のため肥大し硬くなった状態・高い木・木を切って枝葉を取った棒を地面に刺したもの・火・攻撃を準備している心のあり方など非常に多くのことを「上向きの方向性のある直線」とまとめ、矢印や二等辺三角形の二等辺が長いものなどで表現することができる。元々人間は、目で見たものを素早く認識し、脳内で回転させるなど複雑な操作をするため判別したものを単純な図形の集まりにするようだが、その能力も関係していると思う。

 さらにさまざまな、感情や言葉、群れや集合そのものを、ごく単純な絵・短い言葉・人物に集中してしまうことも象徴の一つの形だ。それは群れをまとめ、他から区別することにも役立つ。群れの象徴は短い言葉・後述する神話上の人物や動物・その単純化した絵・色・歌などだ、としてしまえばそれを身につけ、繰り返すことで自分がその群れに所属している、と周囲に短い時間で伝えられる。

 また重要なのが、人間の言語には「名前」というものがある。言葉自体が名前から構成されていると言ってもいい……上記のさまざまな、特徴から分けた生物の多数の種。生命を持たないあらゆるもの。人間が作りだす多数の道具など。多くの人間の群れ。そして群れの各個体。それら集合に対し名前を対応させ、その名前と動作・状態そのものにつけた多くの名前を文法に沿って組み合わせることで、世界……脳内に描かれた世界と対応する言葉を作り、あらゆるものを描く。

 群れは個体認識を必要とするが、そのために様々な特徴を総合し、名前をつける。その名前は本人にとってアイデンティティの核心となる……名前を変更することは、本人のアイデンティティを崩壊させるほど心に影響力がある。

 名前には力がある、というのが魔術の基礎の一つだ。他に魔術の基礎には、似たものは同じ、触れると感染する、本質と物体は切り離せるがあるかな。

 名前を口にしたり頭に思い浮かべたりするだけで、魔術の考え方ではきわめて大きな力をその名前をつけられたものに行使しているんだ。まあ支配する人が支配されている人を名前で呼び、何かを命じれば支配されている人はその通りにするから、支配関係のある人と人の間ではその通りなんだが、それこそ水の流れだろうが風だろうが野生動物だろうが、太陽や火山まで同じように名前を呼んで命令すれば操れると人は心のどこかで思っている。

 本来言葉を使うことは魔術を使っていることでもあるんだ。さらに集中してある言葉を口に出し、思考することでより強くその魔術が使えると人は思っている。実際強い集中、強い感情を込めた言葉で命令することは人を支配するのにとても有効だ。といっても、それと同じように太陽を止められるわけではないんだが。

 また名前は、分けてまとめる、階層構造を持つ集合という人間の認識法とも深く関わる。


 上でも言ったが、人間は自尊心が強い……自分を特別と思いたがり、様々な能力をほしいと思う。大型草食獣のように速く走りたい、鳥のように空を飛びたい、遠くを見たいし夜でも障害物を通してでも見たい、他人が何を考えているか知りたい、未来を知りたい、どんな怪我や病気も治したいし死人を生き返らせたい、肉食獣のように強くなりたい、他人の目に見えないようになりたい、手を使わずに物を動かしたい、確率を制御して幸運になりたい、動植物や岩などと話したい、動物などに変身したい……様々な願望を言葉で理解し、その願望をかなえることができる、と確信している。かなえられる願望も結構あるけど。

 その「信じる」というのが心の上では重要な言葉で、ある言葉、ある予想が現実世界と一致している、と判断し、その判断を変えない傾向が強いこと……か。と言ってもそんな単純じゃなく、もっと心の深い部分、自分自身という物語と絡んだややこしいことだ。さらにその信じることはものを見ること、考えること全般に働きかける。自分が信じていることを反証する内容の目や耳の情報さえ脳は見なかったことにする。他人の言葉も無視し、自分に対する攻撃だと判断したりすることも多い。個体の何を信じているかの集まりは、自我そのものといってもいい。そして集団の何を信じているかの集まりはもっと重大だ。

 強い自尊心と、それがもたらす劣等感、欠落感は、「あれができたら」という空想を産む……人間に、裸のままではできない多くのことができること……拳では壊せない獣の頭骨を握った石で砕くように……は事実であり、それは大きな快と遺伝子の存続繁殖をもたらす。だからこそ、なんでもできる道具・手段を求める心が強い。

 さらにそこで想像力という厄介で面白いものがある。それが人間特有の能力なのかどうかは知らない。存在しないことを頭の中で思い浮かべることができるんだ! 言葉そのものも、存在しないものを考えだすことができる。組み合わせで、たとえば血液の色である赤を肉食獣の毛皮につけて、さらに草食獣の角や鳥の翼もくっつけることさえできる。実際に遺伝子をそういじっても骨格が合わない、重すぎるなどで機能できない、なんてことはわからない。現実とは異なる物語を言葉や、感覚を操作した像として作り、そっちの方が現実だと信じてしまうこともできる。

 能力の拡張、変身は、人類が自己を認識する脳の働きとも深く関わっている。人間は自分の、例えば手に握った棒や抱いた子を自分の一部のように認識することもできるが、その機能が変に働くと、自分の外見を変えれば自分の能力も変わるとか、外見をいじり同じ動きをすることで群れ全体が一つの存在になるとか、そんなふうに思い感じる。人間が何かを所有するのにも、所有したものと同一化した別の何かに変身する、という面が強くある。

 物語で思考する癖もそれに関わる。

 人間の住む世界自体がどのようにできた、なぜ自分が産まれたかも好奇心から知りたがる。あらゆることに、言葉、できれば自分を中心にした物語としての説明を求める。人の、「自分はどこからきたのか」「これは何か」などを知りたがる好奇心はとても強い。

 また、その自尊心の強い物語思考は「運命」という考え方にもなる。多くの偶然である結果があっても、それが一貫した物語になったときには、物語のほうが先にあり、偶然は物語を実現するための必然だったのだ、と考えてしまう。あらかじめ人の一生は物語として定められており、その通りに進むと思っている。偶然というのは本質的に、人間の深い部分にとってとても不快で受け入れがたい考えなんだ。

 具体的には、何か特別な力を持とうとしたらそれをもつものを演じ、真似ることでその力が得られると人の深い部分は信じている。たとえば鳥を演じ真似れば空が飛べる、というわけだ。実際には飛べないが、自分に嘘をつくことで飛べると信じることはできる。

 ついでにだが人間は、心で思う力が強ければ、正しい行動をすれば現実を支配し変化させることができる、と考えることが多い。本当に強く何かを思うことができる人なら何でもできる、たとえば手を触れずに岩を浮かせたり触っただけで死人を生き返らせたり運命を変えたりなんでもできる、現実の人間にそれができないのは思いや必要な薬草が足りないからだ、と考えている。

 言葉も重要だ。幼児が親に食べ物を求めれば受け取れるように、ただ心を言葉にし、口から出したり心の中だけで思ったりするのも、重要な魔術の行使となり、現実に言葉を口で言ったり思考したりするのは自分の精神を変容させて肉体にも働きかけ、集団で同じ言葉を大声で言い続ければ集団全体の精神状態を変容させることができる。


 それが総合されたのが「神」だ。

 神とは親や群れの最上位者と深い関係があると思う。

 幼児の自分に乳・体温や衣服の熱・注目・愛情を与える愛着の対象で、逆らえば激しい怒りと暴力で罰し、自分よりはるかに力も強く自分にできないいろいろなことができる親。さらに群れに命令する最上位者の、支配する権力と判断する知恵。

 それを更に抽象化し、どんな時間がたっても老いたり死んだりしない・なんでも知ってる・なんでもできるを加え、この世のものでない精神的な存在として、そして善の極限として、またなぜこの世界があるかという、因果説明が無限に続く疑問に対する最後の答えとして。運命という自分を主人公とした物語の著者として。

 人間の姿、人間と似た心の構造をもつ。中には悪しき心を持つ神もある。

 さらに原初的にはあらゆる動植物・自然現象も神だ。太陽や地上にある大量の水、地形は重要な神だ。あらゆる概念、特に後述する美徳・悪徳、他にも本当にあらゆるものを人は神とする。祖先の霊も重要だ。

 その神は上で挙げたような様々な超能力を持ち人間を圧倒的な力で支配し命令するが、人間もまたその神の名を呼び、人にものを頼むとき同様、言葉で命じたり食料などを与えたり暴力で脅したりすれば神に命令できると考えているし、また歌い踊りその神の真似をすれば神に変身・一体化してその力を自分が使えるとも考えている。真似て演じることは、その真似て演じた相手になってしまうということでもある。それが究極の魔術だな、神になるということが。


 この世界は目や耳で見て理性で判断するものだけではなくそういう神がある、と思う人が多いことについて少し考えてみよう。人間の感覚は視覚と聴覚だけではないし、思考は論理・言語だけじゃない、視覚と聴覚だけでも多くを切り捨てていることは言った。また、夜寝れば夢を見てありえないこと、すでに死んだ人と話すこともあるし、さらに心の個人差には恐ろしくあり得ないことが心に浮かんでしまうことも多く、普通の人間には認識できない数などについての美を一種の感覚として感じることもある。いろいろな生物の毒には脳の働きを狂わせて滅茶苦茶な感覚像を覚えさせることもある。昔の人々にとっては日常だった極度の食料や水分の不足、過剰な運動や死の寸前の激しい苦痛や恐怖も、奇妙な感覚像を感じさせることがある。

 そして精神や肉体に多くの負担をかけてから非常に美しいものを見たりすると、自分が世界の膨大な光の一部であり、世界そのものが自分でそれがとてつもなく美しい、という感じを持ってしまうことが、少なくとも多くの人にある。

 人間の精神の個体差も大きく、さまざまな普通の人には見えないものが見える心のあり方をもつ人も、常に一定の割合で出てくる。それは実際に存在していないものが多いが、人間の目は元々現実の外界を完全忠実に見るものではない。

 それが、目に見える物の世界だけじゃなく、それ以上の神々・死後の次元があると人に思わせたのかもしれない。私自身は全部脳の副産物だと思ってるが。

 それら、どんな神がいてどんな規範や生活法などを人間に命じたか、を人は「信じる」。人間はいくつかの命題を、無条件に正しいとすることで自分及び群れの物語の根拠、行動を判断する前提とする。確率的にリスクを計算して行動する判断者ではない。

 ちょうど数学で、いくつかの命題を公理系として、それを前提に数学体系を作るのと同じだ。といっても、そんな構造で数学を作っているのも我々だけで、別の世界の知性は別のやり方をしているのかもしれない。

 その信じていることの集まりが、人の心の重要な基盤にもなっている。


 魔術的な考えとは、上記の衛生や医療も深く関わっている。

 感染症を防ぐには、微生物が体内にいる人……特有の症状を出している人、さらにその人の家族や接触した人、その人々が触れたもの、生活している場、糞尿や唾液、それら全てを群れから隔離すべきだ。

 さらに遺伝病と伝染病の区別は昔の技術では無理で、遺伝病は繁殖関係で伝わる。

 そのことを長い経験で知り、また人間の脳自体が長い進化の中でそのリスクがあるものに不快を感じ避けるように伝染病や遺伝病をかわしてきた遺伝子によって作られた……だが人間の目は微生物を見ることはできない。

 ただし、微生物に食われているものの匂い・味・色・感触などに不快を感じることはできる。それは生来でもあるし、また小さい頃からの経験……あるものを食べた直後吐き気がして腹が痛むとか、あるものを口に入れて親に叩かれたなど……の積み重ねでもある。

 その不快感と、さらに伝染病・遺伝病の要素についての判断を、昔の魔術的な思考では「清浄」「穢れ」の二元論で認識し、善悪と事実上一体化させる。

 その伝染病対策から穢れに接したら穢れる、遺伝病対策から穢れた人の繁殖関係がある別個体も穢れる、と考えられる。まあ正しい。

 穢れていない、清浄なものは人が触れていない物、火や塩や酒……実際これらは微生物を殺す……で浄めたもの、水で洗ったもの……

 あと、特に重要な穢れは死体と雌の出産に関係することだ。死体は確かに衛生上深刻な脅威だが、雌の出産や妊娠しないときの性器からの出血などを穢れとするのは、多分出産の魔力に対する過剰評価が裏返ったんだと私は考えている……人間は神聖すぎるものも避けるようにすることが多い。

 その穢れを除去するのはとても難しい。それを除去する方法もあるが、その多くは塩・火・水などを用いたり群れから隔離することなどで、実際に微生物を除去する方法と共通する。

 また、穢れ自体を擬人化して、悪い霊として扱うこともある。そうなると、穢れるというのは悪い霊にくっつかれている、と表現することもできるわけだ。

「彼は悪い霊につかれて皮膚が赤くなって苦しんでいる、彼は穢れている、彼は悪霊につかれている、彼が悪いことをしたからだ、だから彼が触れた物・彼の家族には近づくな、森の外に出しておけ、皮膚の赤みがとれたら塩と油を塗って全身を水に浸してから群れに戻せ、死んだら全て焼け」はそれなりに合理的な伝染病予防マニュアルだ。といっても彼の悪事と伝染病の因果関係は普通はないし、悪い霊というのは人格などない微生物だし、皮膚が赤く苦しいのは感染しない病気かもしれないが、伝染病予防策が何もないよりましだろう。

 さらに、地域などを「清浄」「穢れ」に分けることもする。ある領域の中は安全で、その外は危険だとするわけだ。おそらく捕食者に対する安全を得るためだと思う。


 その穢れは、他者を攻撃したり支配したりするのにも使える。呪うためには接触したものは同じ・形が同じものは同じ・名は体を表す、という魔術の原則を用いればいいわけだ。それを利用して「敵を呪う」ためには、たとえば土や木で人間の形に似せたものを作り……もしかすると、絵とかはそれがもとかもしれない……それを敵に触らせて、それからその人形を敵の名前で呼び、相手を象徴する属性をつけ……後述の文字があればなおよい……そして人形をたたき壊せばいい。そうすれば似ている・接触・名前で、その人形は敵そのものだ。だからその人形に対する破壊と同じように敵も破壊される、すぐには見えなくても敵の、肉体とは別の霊の部分は壊れている、と結論される。

 これは前提にいくつか科学から見ると誤りがあるだけで、論理的にはとても正しいことに注意して欲しい。

 実際「呪い・悪霊」「(魔術的に)身を護る」という言葉は驚くほど多くを説明する。

 人は常に人を攻撃して支配し、群れを強めたがる。そのメッセージは言葉としても、言葉にならない体の微妙な動きからも出る。

 特に人の自尊心を破壊し、家畜化する技術・言葉はとても発達しており、それは魔術の言語を用いることが多い。人の行動を支配するのを目的とすれば、人を怒らせ攻撃を誘うのも有用だ。特に臆病といわれて引き下がれば、それは自分が臆病だと認めることになる。ごく普通に会話するにも、攻撃と取られないようにするには迂回するような言葉を使わざるを得ないほどだ。

 また人は常に特に対象のない恐怖・怒り・不満などを抱いており、それから身を護り安心できる状態を作ろうとする。

 人の間の意識的でない攻撃とそれに対する防衛は実際には現実の、物理法則が禁じていない現象の集まりだが、あまりにも意識されない微妙な動きによるものが多い。そして魔術の言葉を用いるのが最もわかりやすく、人は魔術として意識していなくても、言葉や身振り、相手が大切なものを奪ったり攻撃したりなど魔術の方法論で他人を攻撃したり攻撃から身を守ろうとしたりしている。

 もちろん呪いにも様々な方法がある。言葉だけでも、相手や相手の親・先祖・神を悪と呼んだりすれば充分攻撃・呪いになる。

 呪いと穢れ、罪や恥には深い関係があり、要するに神に呪われた存在が穢れている、とも考える。犯罪に対する刑罰も穢れを排除する魔術と深い関わりがある。他にも実に多くのことにあてはまる。

 ちなみに私が上で、「これが地球の生物の〈呪われた〉基本法則」だと言ったのは、生物から弱肉強食を取り除くことが不可能であり、それは私は不快だ、と言っているわけだ、といってもこうして考えを整理するまで、ちゃんとわかってたわけじゃないんだけど。

 なぜそれが不快なのかというと、実はきわめて近代的な価値観に弱肉強食の否定があるが、それと生命の本質が矛盾していることに対する不快を感じていた。

 除去できないという点が呪い、穢れと同じなんだ。


 神と接触したり、穢れを除去したり、逆に人を呪ったりと様々な、複雑な手順をともなう行動を儀式と呼び、人類社会にとってきわめて重要な要素だ。

 むしろ、人類の行動で完全に儀式でないもののほうがまれだ。

 後述の様々な装飾をともなうものもあり、何か……神や後述の伝承の人物、動植物や太陽などの自然を擬人化したものなどを演じて歌い踊ることも多い。特定の言葉、歌もその一部になる。個体でやっている儀式も多くあるが、群れで飲食・歌舞・脳に働き意識を変える薬物などを利用し、多くは身体装飾を変えたり普段禁じられていることを逆に行ったりして共同で行う儀式も多くある。

 そして、他人にものを頼むために食料を差し出すように、神にいろいろなものを与えることも多い。特に生き物、中でも人間という最も貴重な資源を殺し、その生命と深く関わる血を神に捧げるのが重要で普遍性が高い儀式だ。

 決まった、複雑な手順で何かをすることは人に深い安心感を与える。中には心の病気として、その人の生活では大した意味を持たないことをものすごい回数繰り返してしまう人もいるし、誰もが多かれ少なかれ色々なことを決まった手順でやっている。


 宗教の重要な要素に、何かをしないことを参加者全員に強要することがある。その避ける理由としては、穢れと過剰な神聖さの両面があるし、まったく理由なしに「神の命令」ということもある。

 逆に特別な状況でその禁止が解除されることがある。たとえば普段は黒い服は禁じられるが、家族が死んでから三年間は黒い服を着なければならないなどだ。

 宗教のタブーなどを実用的に解析すると、群れの秩序を守るための裏切り防止・嘘防止・支配の正当化・衛生・そして過剰な森林伐採や狩猟を止める、新規発明を止めるなどの機能がある。

 特にある食物に関するタブーがあり、小さい頃からそれによって教育されてそれに対する嫌悪感を強く感じるように育てられていれば、その食物を食べなければならない別の宗教をもつ別の群れに参加することは事実上不可能だ。共に食事をすることは「同じ群れの一員である」という強いメッセージになる。

 他にもタブーは実に複雑で、人間社会にとって深い意味を持つ。法や道徳の重要な源泉でもある。

 タブーと、さまざまなものの中から何をその群れにとって重要な神とするかと関係があることもある。ただしそれは、他の群れから自分の群れを差別化するためという意味が大きいな。


 そして穢れ意識の副産物……というかもっと深い部分で人間には自分、社会を清浄にしたいという強い欲望がある。不快を避けたい、支配したい、敵を攻撃したい……特に飢えや支配されている群れ内地位など嫌なことを敵のせいにして怒りに変えたい、ということだろう。

 それによって、後述する様々な道徳を過剰に人々に強要するのが、人間の群れにとっては持病のようなものだ。


 人の死と誕生はそれ自体がきわめて魔術的な出来事であり、それに関連する魔術もきわめて多い。

 人の死は魔術的にも最大級の穢れだ……死という最大の穢れが群れに入ったということだ。

 愛する人が死んだときの大きい悲しみを処理するにも、様々な魔術的な処置が必須だ。

 特に家族の死ぬ前の本人に対する愛情は死んだらすぐ消えるようなものではない。本人に対する愛情と死体に対する嫌悪が強くぶつかり合って、適切な儀式がないと混乱するわけだ。

 実際的には、死体は微生物に食われないよう各細胞を維持する機能を失い、微生物や蠅など一部の昆虫にとって最良の餌になるため、よほど寒かったり乾燥したりしていない限り短時間で内部から微生物が大量に繁殖する。皮膚は割と丈夫でその中で二酸化炭素などを出す微生物が多いから膨らんで最後には破裂し、きわめて不快な匂いで有害微生物を多く含む液を大量にまき散らす。蠅もものすごい数に増え、その人を死体にした伝染病も含む微生物で汚染されたまま周囲を飛びまわる。その周辺で生活するのは伝染病のリスクがきわめて大きい。またその過程は匂いも見るのも非常に不快だ……それを不快と思う遺伝子をもつ個体のほうが死ぬ率が低かった。

 それを無害に処理するには、まず食べるか食べないか。

 人間も所詮動物であり、その死体は上記の獲物の死体同様食用・皮革などに加工しうる。ただし人類は自分たちを特別と思い、人間をほかの動物のように資源とのみ考えることに抵抗をもつ。群れの一員に対する愛情、また霊を認めれば、死んでも全て終わりではなく死者の霊と肉体のつながりも完全に切れてはいないので、死者の肉体を傷つけて食べることは群れの一員であることに変わりない死者を攻撃することになるので群れの一員を攻撃してはならないという法による束縛が関わってしまうこともある。さらに死者を大きい穢れと見なせば、それを食料や皮革にするのは大きな穢れになる。

 また実際上も、特に近い血族の人を食うのは、調理してさえも特殊な伝染病が伝わる可能性があり危険な行為でもある。特に病死だと死体そのものがきわめて危険だ。ちなみに私自身も含め、今の地球の人類のほとんどが食人を強く禁じている。だから上で、私は自分の肉のコピーを食べるという発想自体が群れに排除され殺されると言ったわけだ。

 食べないとしたらまず死体を保存するかどうか。死んでも霊は残り、いつか生き返って動きだすだろう、と信じる群れも多く、その場合は死体を保存する。特に乾燥しきった砂漠では、内臓を抜いて塩などで処理し、日光で乾燥させれば何千年も保存される。反面死体がまた活動を開始し、しかもきわめて邪悪で霊的な存在になると思うことも多く、それを防ぐためにも儀式が行われる。

 保存しないのなら死体をなくさなければならない。土・水・火・鳥獣などがある。土に深く埋めれば、多くの土壌生物が死体を食べ、短期間で骨だけになる。人間にとって病気になる有害な微生物も、多くは別の土壌微生物に食われる。水の流れがある場合、水に流してしまえば体内が微生物に食われて出るガスで浮くため、破裂するまで浮いたまま流れる。流れてしまえば生きている人々の生活圏からは消えるし、水中にも様々な大きさの生物がいるから有害微生物も、死体に比べて水が多い限り処理される。火で焼くのは大量の燃料を無駄にするが、微生物を全滅させるからきわめて安全だ。野外の適当な場に放置して鳥獣が食うに任せるのも短時間で安全になる。いまだにそれをやっている群れもある。

 その処理は実際的であると同時に、その多くは儀式だ。その儀式には死者の霊が神に守られて安楽な国に行った、という物語が多い。


 家族の誰かが死んだとき、群れの中でその家族は喪と呼ばれる特別な状態に置かれる。穢れているが、家族の誰も死なない人などいないから群れから追放するわけにもいかないため、特異な地位として喪の状態にあることを主張させ、生活できる程度に食料を得るためなどの行動も制限する。実際的には伝染病も多いから、念のための隔離としても有効だ。

 喪の時には体をわざと汚すのもよくある。自分は穢れているというアピールだろうか。灰をかぶる地域も広いが、それは浄化のためでもあるのだろうか。また普段はタブーである行動を意図的に行うことが多い。霊が属する、人間の世界とは別の世界に半ば移っている、と人間の心で認識され行動するわけだ。


 人の繁殖こそ最大の魔術だ。群れの存続と繁栄にも深く関わる。

 それゆえに女性の繁殖能力はきわめて重視され、同時に非常に大きな穢れとして扱われる。特に上述の定期的な出血や出産に付随する体液などは穢れとされる。群れの中での権力構造では女性が魔術の分野で権力を握ることもあるが、少なくとも繁殖時に戦闘力がほぼなくなるため、暴力の規模が大きい群れでは女性の地位は低下する。

 また、男女とも繁殖能力は知性や戦闘・狩猟・ものづくりなどの能力と同様かそれ以上に重視される。遺伝的な欠陥などで繁殖力がない個体も多いが、それらは低い地位に置かれ、特に女性は存在自体を否定されることもある。繁殖力がないことが周囲に知られることは、恐らく人間にとって最大級の恥だろうな。


 魔術・神や霊を信じることの重要な機能に裏切り防止がある。

 単に人間だけであれば、誰にも見られていないときに群れを裏切っても気づかれない。だが神や霊という自分では見えないものに常に見られていると思えば裏切り行為はしにくい。まして動物としての人間には常に対象がなくても恐怖はあり、それがそれら霊という対象を得るのだから効果は強い。

 人の言葉や行動の約束が間違いないという保証がなければ群れの機能は半減する。

 それを防ぐ方法としては、真実でないことを言ったり約束を破ったりしたことを、相手が記憶し群れの他のメンバーに伝え、以後彼の言葉を信じ、彼と約束する者はいなくなり、そうなると群れ生活の利益のほとんどがなくなり、地位を向上させるのも難しいし食料など物資を手に入れることも難しくなる、というシステムにすればいい。

 更に確実にするには第三者がいればいい。同じ群れの誰かが聞いていれば、たとえ裏切って約束相手を殺して口封じとやっても、第三者が群れに言いふらす。

 さらに約束を群れ全員の前でやれば、第三者も殺す手は不可能だ。

 それを拡大したのが誓いで、目に見えない監視者でもある神霊の前で約束し、さらにその約束を群れ全体に公言する。さらにそれには、約束を破ったり嘘だったりしたら強力な呪いがかかるように、と魔術的な儀式を加えることでより効力が増す。実際に呪いどおり死ぬことはなくても、当事者がそう信じていて効果があれば群れは機能するし、少なくとも強く穢れた存在として排斥されることにはなる。その誓いが変化したものに契約という考えがあり、それを破った人は全ての人に相手にされないという脅迫がかかっているし、また魔術的な脅迫も意識は普通されないが強くある。

 他、群れ内の信を維持することは群れにとって何よりも重要であり、人間は主に魔術的儀式と違反者を排除することによってそれを保とうとする。


 またもちろん、群れの最上位者は自分が霊や神であり、それが常に普通の人間にできる以上の力で皆を監視しており、嘘をついても隠れて行動しても心の中で考えるだけでもわかるし、自分の群れ内地位を上げようとしたら神の力で罰する、とすることでより強く群れを統制できる。

 それによって、全員を殴り倒さなくても支配することができるし、より大きい群れを維持できるし、群れ内順位を物資同様確実に子供に譲ることもできる。

 というか暴力だけの支配は無理がある、人類は眠らなければならずその間は無防備だ。まあ強い暴力と恐怖だけでも寝ていても逆らわないように恐れさせることもできるが。


**神話・民話・伝説

 人間は言葉で世界を理解するが、その理解は主に群れの中で伝えられる多くの物語によって構成される。どの人間の群れも、非常に多くの物語を伝えている。家族によって異なる話を伝えていることも多い。物語は音楽や踊りをともなうこともあり、儀式と一体化していることも多い。

 呼び方は神話・民話・伝説・俗謡などいろいろあるが、要するに群れとある意味一体化した非常に寿命の長いミームだ。

 幼い頃は親から、そして群れで伝えられる。

 その物語は群れがどのようにできたかを語り、群れ及び個人のアイデンティティにとても深く関わる。

 世界がどのようにできたかを語る話も多い。人間は好奇心が強く、あらゆることの理由を知りたがる。だがが昔の人類は観測手段もなく、上記のような科学的な知識は持てなかったから、魔術的な物語として世界が始まってから自分たちに至るまでを描いている。

 話の構造としては、ある個体にとって非常に都合のいい話が多い。

 聞くものは誰もがその話の主人公と自分を重ねるため、その都合のいい話を追体験できる。

 神の子孫である男が大きな富、地位とよい繁殖相手を兼ねた存在である高い地位を持つ美女、強力な武器、さまざまな超能力を得られる道具などを手に入れ、非常に強大な様々な恐ろしさを複合させた獣を殺す話が多い。そこに一度死んで復活する、生殖などの話が混じることも多い。

 その発展として、不老不死を獲得するのに失敗するという構造もある。それによって過剰な欲を抑止するなど、善悪などが混じる話も多い。

 動物や、時には植物や大地や山など自然物が人間と同質の精神・言語さえ備えていることも多い。

 多くの知識を説明する物語も多い。魔術の使い方や禁じられていることなどが主だが、その中によく見ると多くの動物の危険性や植物の毒、危険な地形についてしてはならないことが混じっている。

 ちなみにそれら昔から伝わる話は、人間の精神構造を理解するには非常に重要だ。人間にとって快い話が選ばれてきたのだから、「人間は何を好むのか」という問いに対する答えがたっぷり詰まっている。

 また、体験は必ずしも物語にできるとは限らない。あまりに大きな悲惨などがあると、それを適切な物語にできず、親が子供を攻撃したり暴力的に暮らすことでそれを伝えることがある。攻撃されて育った子供は適切な物語を持てずに育ち、親の攻撃を周囲や、何より自分の子供に対して行うことで模倣する。

 それがある種の文化として、家や群れの中に広がり受けつがれることも多くある。


 また、人間の深い情動である「恐怖」「怒り」「悲しみ」「復讐」「笑い」「莫大な富」などはとても好まれる話だ。

 興味深いのは笑いの重要性だが、それについては圧倒的に知識が不足している。特に「笑う」「泣く」ことが魔術的にどんな意味があるのかは奥が深すぎてとてもとても……


**習慣と常識

 人類は根は保守的で、従来どおりの習慣を続けようとする。

 これまでそれでうまくやってこれたのだから今まで群れが生き延びてきた、だからそれは正しい。

 だが、長い年月の間に気候が変わったり、ある獲物や食べられる植物を種ぐるみ絶滅させてしまったり、新しい場所に移動したりしたら当然新しい状態に合わせなければならない……んだが、そう簡単ではない。むしろ今までのやり方を守って全滅することを選ぶことのほうが多いぐらいだ。たとえば氷河の上で生活することになったら、植物からビタミンCは得られない、動物の生の脂肪と血液からしか得られない。だが、脂肪と血液をタブーとする人々も多く、そういう人々は生命、群れの存続よりもタブーを選んで滅んでしまうものだ。

 人間の生活、いや歴史では「試行錯誤」と「習慣」の争いも結構重要だな。

 まあだからこそ、それとは違うやり方をしたがる子が少ないけど生まれて、それは群れに順応できず群れを飛びだして大抵死ぬけど少数は新しい、より新しい環境に順応して生きられる群れができてなんとか人類自体は絶滅せずにすむ、という具合だ。

 というか人間は「ものを考える」ことが嫌いだとしか思えない。考えず、今まで通りに、できるだけ単純なものの考え方でやるのがものすごく人間にとっては楽であり、快なんだ。

 人間の認識は束縛されている。自分の常識と異なる情報を他人から聞くのはおろか、感覚器に入ってもちゃんと意識で認識することさえきわめて強い抵抗がある。そのためには自分が見たり聞いたりした情報をねじ曲げることさえ簡単にできる。

 まあ人間は癖や習慣がなければ、服を着ることすら困難だろう。


 常識・前提にも、個体・家族・群れ・巨大群れそれぞれである程度別々になる。まあそれはなんでもそうだが。

 もっと根本的に、人間はいくつかの命題を、無条件に正しいとすることで自分及び群れの物語の根拠とする。ちょうど数学で、いくつかの命題を公理系として、それを前提に数学体系を作るのと同じだ。といっても、そんな構造で数学を作っているのも我々だけで、別の世界の知性は別のやり方をしているのかもしれない。

 群れの全員が共有している、言語表現すらできないほど当たり前のこともたくさんある。たとえば私が時間やエネルギーなどをうまく言葉で表現できないのは、それが今の人間の心のあまりに深い部分でやる考え方だからだ。

 人類が人類以外と意思疎通することはないため、今私がしているように「人間以外を前提に」物事を説明しようとすること自体がありえない。そして人類が進化してきたあまりに長い間、自分の群れ以外と殺し合い以外で意思疎通することすら多くはなかった。

 特に通俗的物理学に属することは、すべて再検討の必要もなく誰もが共有する「当たり前」だ。ただしそれはその群れが生活する場、この地球の表面の諸条件、人類の体のサイズだけで通用することだ。

 逆に、その常識を論理・数学だけで表現しようとしたらものすごい、今の人類の技術でも処理不能な情報量になる。

 もちろん群れの中で常にいきかっている膨大な、言葉や言葉でない情報である常識は実に多い。


**善悪・刑罰

 人間にとって善悪というのは非常に重要だ。

 動物、いや生物の本質はDNAがそれ自体を複製することだから、生物である人間にとっても本来、善というか目的は個体が生き残り繁殖し、遺伝子の一部を共有する子孫を含んだ群れが全滅しないことのはずだ。だが人類はきわめて多くの情報を伝える性質があるので、そう単純にはいかなくなっている。

 人間は誰も生まれて間もなくから、「していいこと」「してはならないこと」を親などから教えられる。群れの一員として生きのびるために。それは個体の、恥・罪・穢れなどの感情と深く結びつき、良心とも呼ばれるようになる。また怒りとも強く関係し、基本的に群れの仲間、特に上位者を怒らせることはしてはならないこととなる。

 それはある程度どんな群れ動物にもあるが、人類は言葉や意識があり、特に元々生きていたアフリカとはまったく違う生活環境で暮らす群れも多くある。またしていいことならないことを言語化する傾向がある。

 ただそれだけではなく、支配者は感情だけで怒り罰し、行動を命じることもよくあるから、言語化された「していい」「ならない」の集まりだけではない。群れの中の任意の部分群れ、さらにその時の状況などに応じて違う、と言ってもいいぐらいだ。

 さらにいえば支配者……たとえば子供にとって親が不快な感情を出したことを感じれば、そのときにしていたことはしてはならないことだ、となる。それと、その時の親のメッセージが矛盾することさえあり、その時はどうしていいかわからなくなる。ただし、人間は完全に論理的な存在ではなく、自分の行いが群れの言葉では善とされていても支配者の怒りを買い、悪とみなされて圧倒的な力で叩き潰されることもよくあり、それは支配者に対する憎しみになることもあるが、逆に最も強い形で支配者に対する忠誠や愛情になることも多くある。


 していいことだけでなく、積極的にすべきことがある。特に自分の欲望より群れの利益を優先することがよいとされる。

 さらに善悪には魔術的なこと、言葉によることが入り、群れが大きくなるとますますややこしくなる。

 人間には様々な欲があり、常にその規範を守ることはできない。中には生来規範を守ろうとせず他人を支配することを好み長ける者もいる。また欲が強いときは、本来してはならないことだがそれをするのがより高い規範に従っているのだ、と意識の中で合理化することもある。他にも規範を破る理由としては自分は特別だからばれることはないし神も許していると考えることなどがある。それだけでなく、人間は普遍的に善をなしたいと思うと同時に悪をなしたいと思っているとしか思えない。意味がないように見えることに対する禁止があり、それにわざわざ違反して罰される者がいる。特に後に社会が複雑になると、特に若い個体が集まって社会の法を破る集団を作ることがきわめて多く見られる。

 罰するためには、その個体が統合されていることが必要になるが、実際には統合された個体というのは人間が人間を擬人化しているだけだ。たとえば同じ個体でも、ある個体と接しているときと、また別の個体と接しているときでは言動や行動基準が大きく異なることがある。また人間の擬人化は、個体内部の欲などをいくつかに分け、それぞれを別の性質を持つ小さな擬人化体……たとえば「理性」と「獣欲」……としてその対立構造で個体を把握することもある。

 また欲はいろいろあり、矛盾することもあるが、体は一つしかなく行動は一つしかできない。動物はどのようにそれを選択しているのか知らないし、人間も本当はどうしているのか知らない。

 だが人間の何でも擬人化する考えは、擬人化された個体が「目的」のために「意志を決めて」行動している、と解釈する。


 群れは、常にその違反に対して罰することをする。まず罰するのは一番小さい群れである親子間、家族での上から下。逆に言えば、群れを維持する方法として人類は、罪を罰することと富を分け与えること、魔術的な儀式を行うこと、群れの目的を定めて行動することぐらいしか知らない。

 本来は罰と賞は一体で、正しく規範を守れば誉めることもある。また、公的な罰に至らず、個体どうしや家族などで、怒りの表現と謝罪・許しによって解決することもある。これは本来群れ内部の争いに過ぎないとも言える。許しというのが複雑で、怒りを抑えてこれ以上争わない、と互いに制約することと言えば近いだろうか。

 この怒り・謝罪・許しも罪と罰においては重要であり、特に神概念が入ると、神の怒りに対して謝罪し償い、神がそれを許すまたは罰する、また罰した上で許す(当然群れの上位者が神でもある)という構造にもなる。その許しを求めるために生贄を捧げるなど儀式を行うことも多い。さらに罪が重い場合には、許しきれずに罪人を不可逆的に呪って穢れとなし、群れから排除することにもなる。

 謝罪は自分が規範を破ったことを認め、上位者・群れ自体・群れの規範に対する服従・自分の悪い心を追い出したこと(ここで自分の精神を霊の世界ととらえ、それを善霊と悪霊による小さな群れとし、その中から悪霊を追放することができると考えられている)を表明する行為だ。悪霊が強すぎるときには群れがその悪霊を追い出す儀式を行うことにもなり、それも罰に混じる。それには、たとえば汚染された食品も加熱してある程度菌を殺し食べられるようになることがあることからの類推があるのかもしれない。

 また罰には、群れ動物が進化させた攻撃に対する復讐、そして経済的な等価交換の考えも混じる。群れ内部でも、誰かが殺されるときにはそれは復讐の必要があると人は考え、殺害者を憎悪し攻撃する。また経済的な考えもあり、それで損害に対してそれを償う価値のあるもので返す発想もある。これは交換や群れでの共有の約束に違反したときに行われ、それは物を「返す」ことで償うことができる。それらが結びついて罰と呼ばれる儀式システムがあると考えるべきだ。

 最大の罰は、死後の世界をいいところと悪いところにわけ、悪いところに行くと宣言することだ。この恐怖はきわめて有効で、これまで生きてきた人間の多数を強く支配し、社会を機能させている。

 次いで群れからの追放。そして殺す、暴力を振るって苦痛を与える、群れ内部での地位を下げ名誉を奪う、また魔術を用いて呪うなど罰は多岐にわたる。

 人間は基本的に、群れの成因を全員穢れのない存在だとしたがる。そして誰かが規範を破ることは、群れに穢れ・悪霊を導き入れたと考え、それを排除する儀式を行うし、またその規範を破ったものを群れ内で別の、穢れたままの分類にある存在として扱うことも多くある。


 それらの「していい」「ならない」がはっきりしていて、してはならないことをしたら確実に罰が下される状態にあり、してはならないことをするものが群れにいない状態は秩序があるとされ、群れにとって好ましく個人も安心することが多い。ただし、それを嫌う気持ちもあり、個人差としてそれが強い者も一定の確率でいる。秩序・信関係の維持は群れの規模に関わらず群れの維持にとっては最も重要とされる。

 何が悪いことかを決めるのは支配者だ。

 支配・群れの最上位であることの本質は群れが肥大するごとに「善悪を定める」「情報自体を制御する」ことと「人を地位に就け、追う」ことになっていく。まあ「善悪を定める」のは神だから、それで後述する宗教群れの力が強まってしまうんだが。

 善悪の基準を言語化したがるのが人の常だが、無矛盾な基準は作りようがないし、またそれが……正しく行えば何でもできる、と人が魔術的に考えることまで考えれば……どうしても混乱がある。

 その基準が余りに混乱していると、まともな物語を作れなくなるが、ある程度の混乱は必然でもある。

 人間の考えとして、あらゆる悪いことは自分や誰か悪い心・行いのせいであるという前提があり、罰したくなることもあり、それが基準を作ることをややこしくしている。後に文字が発明されると、言葉だけで基準を定め、しかも変更が難しくなるのでよりややこしくなる。

 人間にとってずっと、道徳・宗教・魔術・法律・礼儀は一体であり、一つの価値観から事の善悪が裁かれてきた。基本的に「してはならない」ことは上位者に服従しないこと、罰など正当化されるものを除く群れの成員への攻撃が一番重い。また攻撃には、上下関係を確認するメッセージを誤ることも含む……、家族によって許されている相手以外との交接行為やそれに関するコミュニケーション、「自分は群れの一員だ」というメッセージを出していないこと、ある意味同じだが排泄や交接行為や食事における習慣など常識的な行動を取らないこと、魔術によって規定されたタブーを破ることなどがある。さらに後に群れが拡大し、複数の群れが混じって暮らすようになると支配者に対する反抗、支配神やその言葉に対する異論を言語表現すること、考えることなどさまざまなものが加わる。気をつけて欲しいのは、誰かが罪を犯したかどうかは最終的には群れが合意すればいいのであり、本人の心情や事実とは関係なくなる。

 そして善悪の基準を言語化したがるのが人の常だが、無矛盾な基準は作りようがないし、またそれが……正しく行えば何でもできる、と人が魔術的に考えることまで考えれば……どうしても混乱がある。さらに人間の考えは、あらゆる悪いことは自分や誰か悪い心・行いのせいとなり、罰したくなる。

 また何が「事実」かという事自体に価値判断が入る。自らの価値観・道徳体系を否定する証拠になるようなことを「事実」と認めるのはきわめて困難だ。そのような事実を出した者を、自分を攻撃する敵だと思うことさえある。

 その道徳は、群れそのもの、世界そのものにも向けられることがある。この世界は悪い、改良できる、という考え方が、特に文明ができてから強まる。原始時代や古代文明ではどうだったのかは知らないが。


 そこで自分の群れ内部での地位、ほかと比較して高い地位を持つ(とどの群れも考えている)群れの成員である条件としてこれまで正しい行いをしてきたと皆に認められていることも群れに留まり、地位を保つには必要とされる。群れ動物は本来注目を求めるので、他人に「よい」仲間と思われ、認められることは強い快になり、そうならないことを恐怖するのも当然のことだ。

 人間の群れは必ず支配構造ができるが、支配する側と支配される側の差は絶対的なものではない。

 支配する側は、支配される側を信用しないとしたら、支配される側を一日中完全に監視していたい。

 でもそれは不可能だ……支配する側も眠る必要があるし、目は二つしかない。

 また、人は「見られたくない」感情があり、特に排泄・交接・体の洗浄などについて見られ知られることはきわめて不快に感じる。また単純に、監視され管理されていると感じることすら不快に感じる。

 たとえば後の技術が進歩した世界では、全員の体にある遺伝子や皮膚に出る個体識別情報を政府で名簿と合わせて登録することに誰もが強く反対するため、なかなか実行できない。それが実行されれば犯罪を犯して逃げおおせるのは困難であり、抑止という仮定が有効ならば抑止になるし、少なくとも冤罪を晴らすには役立つのに、それがなされない。それどころか、全員の名前を扱いやすいように数字と対応させることすらも反対が多い。


 立場、性別、年齢によってしていいわるい、すべきでないが違うこともある。社会が複雑になると階級が生じ、その階級によっても従うべき規則が異なる。特に面倒なのが男性・武人の倫理だ。

 人間の雄、男性というものはなぜか、ある特定の倫理の集合に強くこだわる傾向がある。全体に二種類の男性倫理があり、どちらも重んじられる。公式には前者だが、実際の、特に下位の人々の間では後者も常に尊重される。

 共通するのは仲間を裏切らない、戦いでの怪我や死を恐れない、名誉を重んじる、暴力をよしとし、恐怖を感じても表に出さず、苦痛や不快を感じても感情表現をせず、従うべき相手に忠実に服従し、自分が死ぬリスクが高くても攻撃を続けることがよしとされる。他にも美を無視せよ、女子や子供を保護せよかつ(矛盾しているが)常に暴力を振るってきちんと支配せよ、嘘をつくな、などがある。それらの基準を満たしており善であると群れの成員に思われること、すなわち名誉がそのまま群れ内の地位に直結する。

 上位とされるのは暴力メッセージを抑えて礼儀正しく、敵であっても敬意を払って騙さず、自らを質素かつ美しく飾り清潔で、宗教に忠実で自分の快を欲さず、飲食は少なく特に酒は飲まず、賭博や売春はせず、人に苦痛を与えることを好まず、女子供など弱者に暴力をふるわず、文字を使いこなし美を重んじる。

 下位の規範は対照的に巨大肉食獣を人間なりに擬人化したような存在だ。暴力メッセージを常に出して誰にでも暴力を行使し服従を求め、声も体も巨大で礼儀を無視し不潔、飲食は誰よりもたくさん質よりも量を口にし、敵を倒すためには手段を選ばず、敵を誰よりも激しく軽蔑し憎み、文字を憎み焼き払い、美しいものはすべて破壊し生き物は殺し、女子供を容赦なく過剰に苦しめて皆殺しにし、自分の家族でも苦しめて家畜同様に従え、人を苦しめることを喜び、また宗教も軽蔑し、賭博や売春にも積極的で物をたくさん奪って惜しまず無償で仲間に配る。自分や自分の群れが攻撃されたら徹底的に復讐する。女そのもの・同性愛・臆病を同じカテゴリーとして憎み排除し、反面買春や強姦、冒涜的な魔術、浪費と破壊を群れ全体で強制的に共に楽しむ。

 ちなみに人類は雄と雌のかたちが違い、雄の方が攻撃能力が優れているし、精神的にも雄の方が攻撃的だ。


 問題は、人間には完全に「こうしたらこうなる」がわかるわけじゃないってことだ。さらに物事はなんにでも両面があるし、人間が得られる情報はごく限られている。だから何が本当に善なのか、人間にはわからない。人間でなくても、自然現象やほかの動物の動き、それどころか群れの心理の動きさえも、人間には完全に予測することはできない。多くが複雑……きわめて多くの要因がかかわり、そこには結果が原因の側に影響を与えて循環しながら増幅したり制御したりする過程も多く、数が増えると初期条件のどんな小さな変化も大きな結果の違いをもたらすことになる。

 やっかいなのが、人間にはわからないにもかかわらず、人間は「誰のせい」という考え方をしてしまうことだ。それは本質的には上記の魔術的思考だ、結果をわかりやすい物語にまとめてしまいたいだけだ。

 その「誰のせい」と罪と罰は、責任という概念にもつながる。これはかなり後世の、ある地域から出た文化の考え方かもしれないが、要するに健常な人は自由に行動を決定できる意思力を持ち、その意思による行動がなんらかの、群れにとって損になる結果をもたらしたら、意思によって決定した当人はその結果の責任を問わなければならない。また人はあらゆる地位・命令・誓約に従って、すべきことをし、失敗したときにはその責任を負って罰されねばならない、などだ。

 要するにある主体による物語にしたいわけだな。現実には人は感情に動かされるから行動を決定することなどできないし、結果がどうなるかも予測できないんだが。

 さらに言えば、完全に善・清浄であることは人間には不可能だ。


 礼儀も非常に厄介な点だ。本質的には「自分は敵ではない」というメッセージを相手に出すための、言葉・表情・体の動かし方・体の装飾などにいたるすべての制御だ。

 たとえば言葉などでは、相手に敵対しているととられないようにするため、特に否定的な情報を伝えるときには言葉をいろいろとひねったりする。

 礼儀が大きく関わるのが飲食の場で、それ自体魔術的にも特異な状態だ。逆に互いに不快感を与えずともに飲食できるとしたら、同じ群れの一員であるとみなしていい。またはそれぐらい相手の群れについて詳しく知っていて、正しい行動をしているということだ。

 その礼儀ができていることはそのまま「群れの正規の一員」というメッセージにもなる。


**娯楽・装飾

 人類は、便利な道具も少なく生存率が低かった頃から、生存に一見役立たない余計なことをいろいろやってきた。上記の魔術に関する儀式もそうだ。

 人間は少数の子供を長時間養育する群れ動物だから、息をし、水を飲み、ものを食べ、繁殖相手を捜して交接して卵をばらまくのを死ぬまで繰り返す、というほど単純じゃない。といってもそれが一番肝心だということは、よく忘れるけど間違いないんだが。

 群れを維持し、個体として地位を維持し、繁殖相手に選ばれるめの膨大なコミュニケーションには生存に一見役立たないものも多くある。これは人類だけでなく、鳥などにも生存には役立たない複雑な色や形をもつ大きい体表の余計なものや発生器官があることが多い……性淘汰だ。


 人間はほかの動物のように嗅覚を使わなず主に視覚を用いるため、自分が群れの一員だと示すためには皮膚または衣類に、人間に見える光で分かる変化をつけてそれで区別する。それには上述の魔術の要素も強く、典型的な思考様式はある肉食獣に特有の黄色と黒の模様を体に描き、それによって自分たちはその肉食獣の擬人化された霊を神とすると周囲に宣伝し、その肉食獣の強大な力と素早さが自分たちにもある、それもその力は悪霊にも有効であると思うわけだ。さらにその肉食獣自体の美しさを真似ることで、自分たちを美しくすることもある。

 人は生まれながらの皮膚と毛、そして温度調整と鋭い刺や肉食獣の爪牙から身を守る服だけでいい、とは思わないものだ。身を美しく飾りたい、より強いなにかと同一化したい、群れで同じ外見でいたい、と強く欲する。

 特に多くの資源を浪費する装飾は、自分が餓死しないだけの食料だけでなくそれだけの装飾用資源も集められる余裕がある、だから交配相手と子供五人ぐらい軽く餓死させずに食糧を供給できるし、それだけ遺伝子も優れている、だから自分を交配相手に選べば遺伝子を長く多く残すことができる、というメッセージを与えることができる。

 直截に大量の食料を無駄に燃やすなどして富を見せつけることもある。

 魔術的な意味も非常に強い。魔術によって肉食獣・人間の敵・伝染病などの害……悪霊とされる……を避けられるという考え方も強くあり、自分を群れにふさわしく飾ることによってそれらを遠ざけることもできる、と考えている。

 そのような理屈をつけず、ただ「人類は自らを飾ることを好み、そのために多くの資源や時間を費やす」といいきってしまったほうが正しいのかもしれない。 


 その装飾には「体を隠す」という面もある。人類は、特に他人に見られるところで体表に何も付けず全身を露出することを嫌う。それは人類共通の無意味な魔術的なタブーだったのが今生きている全人類に、誰もなぜなのか検討もせず引き継がれてきたものか……それはわからない。少なくとも、どの衣類を必要としないほど気候のいい場に暮らす、他との接触が最近までなかった群れでも、完全に何も身につけずに生活していることはないらしい。少なくとも生殖器にはなんらかの装飾をつける。

 まず皮膚表面に、土砂や植物など特定の波長の光を反射吸収してある色を見せるものをつける。皮膚を傷つけて色のついたものを入れることで一生皮膚の色を変える技術もある……これは大きな苦痛と、微生物の侵入による死のリスクがあるため、皆に対し自分の強さを強く主張できる。

 頭部の毛を様々な形・色にすることも重要だ。

 衣類の表側に色をつけたり、実際にあるものの形や、それを極度に単純化した図形やその繰り返しを見えるようにすることも多い。

 また武器や道具、巣などにも装飾を入れることがある。それには魔術的な意味も大きい。

 その飾りは大抵群れで統一されて群れとそれ以外を差別化し、また群れ内の地位を表現している。


 また不思議なことに、人間はリスクを好む面がある。まったく死ぬ心配も痛みの心配もない、というのは、少なくとも一部の人間には耐えがたいのだ。

 男性が群れのために危険を冒さなければならず、危険を冒せば群れの中での地位が上がることもあるだろう。

 また余分な若い雄が群れから出る必要があることもあるだろう。


 さらに、上記の子供が行ういろいろな、生存と直接関係のない模倣活動は魔術と密接に関係させながら成熟した大人も楽しむ。

 これも人間活動の中ではとても重要な要素だ。


 これらは基本的には農耕牧畜によって人間の群れが拡大してからだが、賭博・売買春・酒・依存症・占いなど人間の生活を大きく損なうほど生存とは関係のないことが社会にとって大きい要素になることがしばしばある。

 また、多くの動物、特に自力で餌を得て繁殖できる前の若い個体が、生存に直接関係のない行動を快とすることがある。群れの結束を強めたり、大人の模倣をして狩りの技術を覚えたりもあるが、純粋に楽しみでもある。

 まあそれについて詳しくは後述する。


**心理の罠

 基本的に人間の心理、特に感情などは、アフリカの森と草原の中間で狩猟採集生活をするためには、統計的にいい結果をもたらした判断行動方法だった。だから人類は長いこと苛酷な野生で生存できてきた。

 だが、それは後述する農耕を営み、巨大な群れで生活し、さらに技術を高めるにはまったく向いていない。

 本来なら統計的に考えてリスクを分析しなければならないが、ちゃんとした統計は人間の脳には入っていない。人間の記憶や、視覚など感覚の情報処理もいいかげんだ。

 これは昔の頭のいい人……皮肉に言えば考えを短い言葉にまとめ、それを多くの人に広まる有力なミームとすることができた人の考えなのだが、人の感覚には多くの錯覚があるのにそれを信頼し、個体の経験は宇宙・世界全体に比べあまりに小さいにもかかわらずそれをすべてとみなし、多くの人が言うことが正しいと考えずに信じる。時には明らかに間違ったことでさえ多くの人が正しいと言うだけで正しいと思いこむことさえある。そしてこれまでに重ねられた言葉、特に支配力がある人の言葉が造っている世界を世界すべてと思ってしまう。

 言葉が正しいかどうかより、どちらの人の表情などに強い支配力があるかで正しい間違いの判断をしてしまうこともよくあるし、自分が好むことが真実だと思ってしまうこともある。群れの常識・他の多くが正しいと思うことを疑うことは誰にとっても難しい。

 人間はものごとをありのまま情報として意識にのぼせることはできず、自分が意識していなくても出している結論を補強する情報に注目し、それに反する情報を無視・否定する。言葉も、視覚情報さえも。

 たとえば地球の地図を見れば、アフリカの西岸と南アメリカの東岸が、一枚の板を切り出したものだというのは一目見れば分かる。だが、地図がある程度できてから長いこと人はそれに気づかなかったし、信じなかった……それが、それまでの「群れの世界の見方」に反している、というわけだ。

 また人間は、常に不安と恐怖に支配されている。さらに群れになると、昔は有効だった不安や恐怖を伝える能力によって過剰な不安と恐怖を、冷静に統計的に調べれば大したことがなくても大きい物と感じてしまう。

 さらに人間の心は器用にできていて、特に自尊心を損なったり自分の属する群れの価値や支配的情報複合体を否定されたりするよりは、別の物語を作ってしまったり、記憶をなくしたりすることを選ぶ。

 多数の「いいわるい」があり、それは言葉にすると矛盾していることも多い。さらにどうするか決めるときには心の見えない部分が極めて強い役割を果たし、さらにその結果をわかりやすい物語にしようとしてまたいろいろねじまげる。

 ある行動を取ると、特に群れとして決めてしまうとそれを容易に修整できない。特に自尊感情を損ない、「正しい」を否定するような情報をすべて偽とみなして無視する……それによって誰が死のうと、群れが滅びようと、だ。

 また自分に都合の悪い情報を拒絶しようとすることも多く、さらに自分に都合が悪いことを言う人間を、その情報の真偽を問わず人格に対する攻撃と思うこともある。大規模な群れどうしの戦いで、指導者には見えない山向こうの味方が負けていると知らせる使者を指導者が怒りに任せて殺してしまって群れ自体の全面的な敗北につながるようなことさえある。

 物語好きの厄介なことは、因果関係を見出すのがうまい反面、因果関係と相関関係の区別もつかない。


**集団心理

 人間の群れは、本質的にまるで、一人一人の合計ではなくもっと別の何かのような挙動を示す。後述するように、人類が進化してきた狩猟採集生活より規模が大きい群れになると余計それがはなはだしくなる。ちなみに大抵個体より感情的で欲深でバカだ。

 進化段階より大きい群れについて詳しくは後述したほうがいいだろう。

 最も基本的には動物に共通する、「繁殖し、縄張りを他者から守り、他者を攻撃する」ことだ。


 まず群れのメンバーは互いに模倣をして、同じように話し、着飾り、活動し、楽しみ、考えるようでありたい、という感情がとても強くある。要するにすべての成員が、基本的に同一であって欲しいわけだ。あらゆる儀式・儀礼の目的はそれだと考えられる。

 ただ、考えが同一であれば新しいものを生みだし、新しい状態に適応することは困難になる。より高い情報・技術・何より科学のためには考えの多様性が必須になるのに。だから群れとしての結束を強める指向が強いと、ある程度以上の規模ではその群れはかえって弱くなる。試行錯誤さえできなくなるとその不利益はますますはなはだしくなる。

 生命そのものが「情報を増やして保存すること」で、それに矛盾がある。情報をそのまま伝えることが本来の目的で、だから変化はないほうがいいのだろうが、逆に変化しないと競争的な雰囲気では敗れて消えるから多様性も必要になる。

 人間自体も、変化し多様で試行錯誤しなければ生き続けられないのに、群れ全体で変化しない、完全だから試行錯誤は必要ないと思うことを好んでしまう。


 また群れは常に敵を作り出し、それを攻撃する傾向がある。そこでは人間の人格を単純化し、単純な言葉で表現することが多い。

 群れの中で、何か不安や不足がある時にそれを群れ内部で増幅させ、きわめて暴力的になり、同時に善悪にうるさくなることがある。善悪の判断を極度に単純にさせ、群れの内部の誰かを悪であると決めつけ、それを激しく攻撃することがよくある。

 道徳は、支配欲を満足させるのには実に便利だ。悪霊を追い払うための努力によってより安全になった気もするし、同時により多くの規則があれば下の人間を罰する機会も増える。罰、人格否定をともなう叱責は自分が上位であることを確認することができ、支配欲・攻撃欲を満足させる。何の理由もなく暴力を振るうのと比べ、群れの道徳で容認され、自分自身の罪悪感もないし反撃の恐れも小さい。

 特に攻撃性・支配欲が強い人間は、人をささいなことから「悪だ」と指弾することがある。しかも相手の内心にあるかないかわからない悪がある、と物理的暴力・言葉や態度による暴力を併用しながら責め続ける。そうするとやられた者の精神が崩壊することもあり、それはやる側にとってとてつもない快になる。家族間でもその構造はしばしば見られるし、後述する宗教群れ・暴力群れ・思想群れなどでも多用される。

 ここでやっかいなのが、群れの中で多くのコミュニケーションがあると、特に好まれるタイプの情報が多くの成員に共有され、群れ全体を構成する物語の一部になってしまうことで、噂と呼ばれる。同様に面倒なのが、後に巨大な群れができてそれが不安定なときに多く見られる、誰にも秘密で上位の秩序維持を担当する人に、ある人が悪いことをしていると告げることだ。これは本当にそうであってもなくても罪人を作り出してしまう。何しろ噂は正しいとされることが多いため、じっさいはどうあれ「みんなが悪いといっている人は悪い人だ」となってしまう。となると悪い噂を立てられただけで群れ内での地位を下げられ殺されかねない。


 人間の集団は同じ人間でも、自分の群れ以外を獲物扱いし、殺しても罪悪感を持たないのが普通だ。物を奪い、皆殺しにするか雄と子供を皆殺しにして雌だけを暴力で繁殖相手にするかだ。元々一緒に暮らしていたとしても、「やつらはおれたちと違う」、人間と認定しないことにすれば、どんな残酷なことでも平気でやる。それがどうしようもなく大好きなようだ。

 後に「攻撃してはならない」という価値観が、ある生活様式をする人類の多数派に浸透するが、それと矛盾しているからどうにも違和感がある。


 指導者は神なのだから完璧は当たり前、また逆に完璧な指導者は全能だから必ず群れは勝つ、と思い込んでしまうのは現実とは違うんだが、人間は大抵そう思っている。また努力すれば、正しい方法を取れば何でもできると人間は思いたがる。特にその正しさは道徳というか規範のほうに向かい、より罰を厳しくし、より多くの複雑な規範を厳しく守り、より欲望を否定し生活を不快にすれば全てがよくなると思ってる。


 ただし、相当昔からでも、ある程度群れと群れとの接触はあったはずだ。よい石器の材料・塩化ナトリウムが得られる場などは広い大陸の中でもごく限られた狭い場であり、それらの交易は得になる。

 また、別の群れからでも少数の人がある群れを訪れた場合、代償を払わなくても食物や休むための巣の一部を与える「もてなし」も広く見られる。ただし攻撃になることもあり、それはその群れの側では決まりどおりなのだろうが、訪ねる側にとってはどちらになるかわからないのが正直なところだ。

進化心理学を語る人が「魔術」に無関心なのはもったいないことです。

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