星ソラ( 読み切り)
朝、彼女は空を歩いて会社へ向かった。
いつもの時間だった。
空の街には、朝の光がゆっくりと広がっていた。
遠くに見える高層ビルの窓が一枚ずつ明るくなり、その間を通る道路には、出勤する人々が増えている。
駅へ向かう人。
小さな店のシャッターを開ける人。
子どもの手を引いて歩く母親。
交差点の信号が変わるのを待つ人。
どこにでもある、朝の街だった。
彼女もその中の一人だった。
紺色のスーツに身を包み、片手に鞄を持って、決められた道を歩いていく。
空の道は、今日も静かに彼女の足を受け止めていた。
その下には、何もない。
ただ、果てのない青が広がっている。
けれど、彼女は一度もそれを怖いと思ったことがなかった。
生まれたときから、そういう場所で暮らしてきたからだ。
空は空だった。
そして、空には地面がある。
それだけのことだった。
会社に着くと、彼女はいつものようにエレベーターへ乗った。
「おはようございます」
「おはよう」
同僚と挨拶を交わす。
パソコンを起動し、メールを確認する。
午前中は会議。
昼には近くの店で食事。
午後は資料を作り、上司に修正を頼まれ、また修正する。
特別なことは何もなかった。
空の上で暮らしているからといって、毎日が特別になるわけではない。
仕事が終われば疲れる。
休みの日には眠りたい。
給料日には少し嬉しくなる。
雨が降れば傘を持っていく。
明日の予定を考えながら、家へ帰る。
彼女にとって、それが普通の生活だった。
だからこそ、彼女は夜が好きだった。
仕事が終わり、街の明かりが少しずつ増えていく時間。
人の声が減り、空の街が静かになっていく時間。
その時間になると、彼女はよく立ち止まった。
今日も会社を出たあと、駅へ向かう途中で足を止めた。
そして、空を見上げた。
星が出ていた。
小さな星。
大きな星。
明るい星。
ほとんど見えない星。
雲の切れ間から、いくつもの光が覗いている。
彼女は星を見るのが好きだった。
子どもの頃からそうだった。
星には名前があるものもある。
けれど、名前のない星もたくさんある。
彼女は名前のない星を見るのが好きだった。
名前がないからこそ、何を考えているのか分からない。
どこから来たのかも分からない。
ただ、遠くで光っている。
それだけだった。
その日も、彼女はしばらく星を眺めていた。
すると、星と星の間に、小さな光が見えた。
星ではない。
街の明かりだった。
彼女は少し目を細めた。
遠い。
とても遠い。
それは、地面の国だった。
空の国から見える、もう一つの国。
彼女たちとは違う場所で暮らす人々の国だった。
地面の国は、夜になるとよく分かる。
昼間は光に紛れて見えにくいけれど、夜になると街の明かりが浮かび上がる。
建物の窓。
道路を走る車。
駅の明かり。
家々の明かり。
遠くから見ると、それらは星に似ていた。
彼女はいつも思う。
向こうにも、夜がある。
向こうにも、朝がある。
向こうにも、会社があって。
向こうにも、学校があって。
向こうにも、家があって。
誰かが帰りを待っている。
誰かが夕食を作っている。
誰かが仕事で怒られている。
誰かが今日あった出来事を友達に話している。
そんなことを考えると、少し不思議な気持ちになった。
あまりにも遠いからだ。
地面の国の人間を、彼女は一度も間近で見たことがない。
テレビや資料では見たことがある。
けれど、それは遠い国の人間だった。
言葉も似ている。
食べ物も似ている。
家も似ている。
仕事もある。
家族もいる。
笑ったり、怒ったり、泣いたりする。
なのに、どうしても別の世界の人間に見えた。
彼女は夜空を見上げながら、地面の国の明かりを眺めた。
一つの窓が消えた。
少しして、隣の窓が消えた。
また一つ。
また一つ。
眠る人が増えているのだろう。
「向こうも、そろそろ寝るのかな」
誰に言うでもなく、彼女は呟いた。
返事はない。
風が静かに通り過ぎていった。
そのときだった。
地面の国の街に、一つだけ明るい窓が残っていることに気づいた。
周囲の明かりが少しずつ消えていく中、その窓だけがずっと光っていた。
彼女はなんとなく、その窓を見続けた。
小さな四角形だった。
そこに誰かがいる。
きっと一人ではない。
家族かもしれない。
仕事をしている人かもしれない。
眠れない人かもしれない。
あるいは、ただ電気を消し忘れているだけかもしれない。
彼女には分からない。
分からないから、想像する。
それが彼女にとっての夜空だった。
星の一つを見るたびに、その向こうに誰かの人生があるような気がする。
けれど、実際には何も知らない。
知らないまま、眺めている。
それは星を見るのと同じだった。
彼女は少し笑った。
「明日も仕事か」
独り言を言って、歩き始める。
空の道路を、家へ向かって歩いていく。
その途中で、彼女はもう一度だけ振り返った。
遠くに地面の国が見えている。
街の明かりは、さらに少なくなっていた。
けれど、まだいくつか残っている。
その一つ一つに、誰かがいる。
そう思うと、夜が少しだけ賑やかに感じられた。
*
同じ頃。
地面の国でも、一人の人間が夜空を見上げていた。
仕事帰りの男だった。
駅から家へ向かう途中、ふと足を止めた。
雲のない夜だった。
星がよく見える。
男は空を眺めた。
いつもと変わらない星空だった。
その中に、奇妙なものがあった。
遠く。
とても遠く。
星々の向こうに、何かが見える。
街だった。
道路だった。
建物だった。
そして、その道路を歩いている人々がいた。
男には、その人々が自分たちとは違う方向を向いて歩いているように見えた。
まるで、空そのものを道にしているように。
男はしばらく黙って見ていた。
隣を通った人が、同じように空を見上げる。
「あれ、空の国だよ」
「そうなんだ」
「昔からあるよ」
「へえ」
それだけだった。
男も歩き出した。
空の国では、誰かが会社から帰っている。
地面の国では、誰かが会社から帰っている。
どちらも夜だった。
どちらにも家があり、明かりがあり、明日がある。
ただ、見上げる方向だけが違っていた。
*
家に着いた彼女は、窓を開けた。
夜の空気が部屋へ入ってくる。
遠くには、まだ街の明かりが残っている。
彼女は窓辺に座った。
そして、もう一度だけ空を見上げた。
地面の国が見える。
さっきの明るい窓も、まだ消えていない。
「まだ起きてるんだ」
彼女は小さく笑った。
向こうにいる誰かは、こちらのことなど知らない。
こちらにいる彼女も、向こうの誰かを知らない。
それでも、同じ夜を過ごしている。
彼女はそれを、少しだけ嬉しいことだと思った。
星を見るとき、人は星の名前を知らなくてもいい。
そこに誰がいるのか知らなくてもいい。
ただ、遠くで光っていることを知っていればいい。
彼女にとって地面の国も、そういうものだった。
遠い。
知らない。
けれど、確かにそこにある。
そして、あちらから見れば。
きっと自分たちも、同じように見えている。
彼女はそう考えた。
空の上で暮らす、名も知らない誰かとして。
遠い夜空に浮かぶ、ひとつの小さな光として。
窓を閉める前に、彼女は最後にもう一度だけ空を見た。
地面の国の明かりが、静かに瞬いていた。
それは星とほとんど変わらなかった。
だから彼女は、いつものように思った。
――明日も、あちらは朝になる。
そしてこちらにも、朝が来る。
どちらが上なのか。
どちらが下なのか。
そんなことを考える必要はない。
自分が立っている場所を地面と呼び、遠くにある場所を空と呼ぶ。
ただ、それだけなのだから。
彼女は窓を閉めた。
夜が静かになった。
そして、空の国の一日が終わった。




