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セーコちゃん学

作者: 如月ふたば
掲載日:2026/06/22

 今朝までの結優(ゆゆ)は彼と付き合って2カ月記念日だった。

 家を出るときの足取りも、とても軽かったというのに。

 彼と昼食を終えるまでは。


 陽が落ち始めている今、履いている底の厚いブーツが結優にはひどく重く感じられた。

 何とか動かし、帰路へついている。

 

 肩から斜め掛けにされたバッグ。

 幅の広いヒモを、綺麗に切りそろえた黒い爪でギュッと掴む。

 そして結優は溜息を付き、足元を見るとハーフツインの髪が小さく揺れた。


 ふと吹いた風の中に、雨の匂いが混じっている。

「雨なんか降り出しちゃったら、今のウチにぴったりじゃん」自嘲気味に口角を上げる。

「ま、泣いたりなんかしないもん」呟き、雨が降り始める前にと駆け足にした。


 雨が降り出す前にアパートに着いた結優。

 可愛らしい表情をした柴犬のキーホルダーが付いた自宅の鍵を、バックから取り出し鍵を回す。


「ただいま」と玄関を入ると、上がり框に立てかけてあった姿見が目に入る。

 結優は全身を鏡に改めて映し、眉を顰め「全部これのせい」と口の中で呟いた。


 鏡の中の彼女は淡いグレイの短めのTシャツ。

 柄は大胆に大きく描かれたハートが、黒い線で揺らめくような線でプリントされている。

 同じくハートのチャームが付いたチョーカーに、同じエナメル生地のタイトなミニスカート。

 分厚いエナメルのブーツを脱ぎ、三和土に他にある靴と背の順に揃えて部屋に上がった。


 バッグを肩から外し、きちんとクローゼットに戻した。

 デフォルメされた柴犬がカバーのついたスマホは、いつものようにテーブル右手前の隅。


「ふぅ」という息とも声ともつかない声を出しソファに沈み込んだ。

 結優は自分の膝を抱えて。

 膝の上に頭を乗せると、切りそろえられた前髪がはらりと落ちた。


「自分が無い」「重い」「もう勘弁してくれ」

 今日、言われた言葉が頭の中を巡る。

 以前の彼氏だった人物たちからも同様なことを言われた挙句、彼女の恋は終わっていた。

 いつもいつもいつも。


 同じような浴びてきた言葉。

 関わった男性の声で耳に響く。

 彼女は振り払うように小さく首を振るために、頭を膝から上げた。


 膝を抱えていた黒い爪は、右人差し指だけ既に少しだけ自分の爪がのぞいている。

 朝はとても綺麗に塗られていたというのに。

「取っちゃお」


 ううん、マニキュアを落とす前にシャワーを浴びよう。

 マニキュアはその後にしよう。

 

 パンクともロックとも呼ばれる今身に付けている服を、結優は剥ぎ取り軽く整え洗濯籠へ。

 いつもより強く熱めのシャワーで、髪も化粧も聞こえてくる声だってきれいさっぱり流し落とした。

 シャワーを浴びる前に脱衣所に用意しておいた淡いブルーの無地のパジャマ。


 パジャマを身に付けると洗面台に仕舞ってあったコットンとリムーバーを持ちソファへ移動。


 ソファに深く腰掛け、短く黒い爪をリムーバーを含ませたコットンで丹念に拭いていく。

 爪の生え際まで一切色を残さぬように。


 リムーバーが含まれるツンと鼻につく匂いのコットンは、どんどんと黒で染まっていく。


 ゴミになった黒い塊捨てるために、テーブルの左下に控えてる小さな白いゴミ箱を彼女は自分への方へと引き寄せた。

 黒いコットンを捨て、ゴミ箱は元の場所へ。


 そして結優は役目を終えたリムーバーを、もう一度洗面台の棚の元に合った場所へと戻す。

 そのまま長く伸ばしていた髪にブロウをし乾かしていく。


 髪を乾かしながら、鏡の中の自分に彼女は語りかけた。

「明日は何を着ようかな、やっぱデニムとあのカットソーかな」

 デニムとよく一緒に着ている白のカットソー。

「あれ、ウチのスタイル良く見えるからさ」

 

「もうパンク服は着ないから売りに行っちゃおっかな」

 あのパンクファッションは六カ月程前から、ショップで目を付けていた。

 彼が恋人になってくれたら着るんだ、と。


 スマホで商品を眺めたり、お店に足を運んだりと少しずつ増やしていった服。

 今までのシンプルで動きやすい洋服は、どんどんクローゼットの端に追いやられていく。

 恋が成就し、彼女としての初めてのデートでパンクの「一式」をはじめて身に付けた。


「オレの趣味に合わせてくれたんだね」恋人になった男性は目を輝かせた。

 彼が好きだと知れば、YouTubeのお薦めも、ヘッドホンから流れる音楽もどんどん上書きされていく。


 始めは喜んでいてくれたはずなのに。

 なのにどうしてだろう。


「オレの趣味に合わせてくれた」といった唇はいつかは「自分の考えがない」に取って代ってしまう。

 何度も、言われてきたことだ。


「でも、ウチだって知るのが好きだし。それに気に入ったから取り入れたんだもん」

 特別思入れのある物が結優には無いと、ずっと思っていた。

 だから教わることが楽しかったのだ。


 少しずつ知識が増えていく感じと、好きな人の世界に一歩一歩近づいている感じも気に入っていた。

「ウチは自分が無いんじゃなくて、合わせるのが好きなんだもん」


「だからって『自分の考えがない』なんて」

 髪を乾かし終えた結優。鏡の中の彼女は少しだけ口を尖らせる。

「好きな人の物に興味を持って、ウチがそれを好きになったらダメなんて」


 ソファに戻るとやっと外から雨の音が聞こえ始めた。

「明日、ガッコ休んじゃおっかな」

 ソファに深く座り一限目の講義を一緒に取る予定の友人ノアに連絡をしようとスマホを手に取る。


 カバーを開けるとホーム画面にいる笑顔の柴犬が目に飛び込んだ。


 ノアへのメッセージを画面を開く。

 休む理由を入力しようと、指が画面をウロウロとした。


「振られたから」

 違うなぁ。

「うーん、明日雨っぽいから」

 雨じゃなくても、行きたくないでノアちゃんなら納得しちゃうかも。


「それとも。あ!!明日一限セーコちゃんじゃん」


 ノアへのメッセージを考えていた結優は、セーコちゃんをふと思い出して目を細めた。

 セーコちゃん。

 もちろん、あだ名だ。

 人気のある心理学の講座を担当している40代後半に見える女性のこと。


 今期の講義を選ぶ際に知人の先輩に迷っているときに声掛けた。

「月曜一限の心理学ってどうですか?」


 すると「安くするよ~」とニヤリと教科書と、講義の情報を提供してくれたのだ。

「この講師の授業、すっごい人気あるよ。だってセーコちゃんだもん」


 理由は「講義の時のお楽しみだから」とセーコちゃんの意味を教えてくれなかったが。

 初講義ですぐに理解できた。

 講堂にツカツカとローヒールを響かせて登場した「セーコちゃん」。


 デビュー当時の松田聖子さんのサモエドみたいにふんわりした髪型。 

 ふわふわとした生地に淡いピンクの衣装が、80年代のアイドルにそっくりだったのだ。

「あぁ、だからセーコちゃんなんだ」


 彼女の講義が人気なのも納得できた。

 響く声がとてもハキハキとしており、講義の内容はそれはそれは興味深く耳を澄ませられたから。


 結優はある日食堂でセーコちゃんとすれ違った時に、彼女の甘ったるい香水と共に思い当たる事があったのだ。

「セーコちゃん自体に自分があるってこと?」と。


 松田聖子ちゃんを彷彿とさせる、あの個性とも何とも表現しがたい見た目でずっと居続ける事。

 以前からに引っかかっていたことだった。

「あれの見た目が、自分。なのかなぁ」


「でもなぁ」

 セーコちゃんの講義は面白いけれど、なんとなく明日は大学なんて行きたくない。

 結優は改めて思う。


「朝一から、あのセーコちゃんかぁ」

 ノアへの連絡を結優は迷いスマホを眺めながら、ベッドにドサリと仰向けになる。


 だって、今日振られたし。

 明日、朝から雨かも知れないし。 

 それに。


 明日行きたくない理由をあげつらっていき結優は気付いた。

 今日の帰りがけの雨の匂いは勘違いだった。

 だって、気付けば涙を流したくなった時なんて本当は無かったもの。


 彼から「自分が無い」と言われたときですら。

「あぁ、またこの人も同じこと言うんだ」と、悲しくは思ったけれど。


 実はもう分かっていたことだった。

 同じ理由で彼をも失うって。あの「オレの趣味に合わせてくれた」の瞳が輝いたの見た時に。

 だから、こんなにも悲しい気もするのに泣いちゃってないじゃん。

  

「うーん」考えるような声とともにノアへの連絡のを閉じ、枕の横に置いた。


 いいや全部、明日の朝考えようっと。

 今夜は明日の大学の準備をするなんて、面倒だから今日は辞めちゃおう。

 明日着ていく服は、明日着る前に出せばいい。脱衣所に持って行く必要なんかない。

 そうだ、それでいい。

 

 そう眠りに付こうと横を向くと、ホーム画面にいる笑顔の柴犬の明かりが消えた。

「一限じゃなければ、行くのにな」

 呟いた結優は目を閉じたのだった。

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― 新着の感想 ―
 結優さんの外見、内面共に丁寧に描写されていてイメージを掴みやすい作品でした。  特に内面の「冷静な自分、既に何処か冷めた自分」がいいと思います。このような感覚を持っているのなら「人に合わせて染まる…
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