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フィアの結婚

作者: ミクロ犬
掲載日:2026/05/27



「好きだよ、フィア」


 飽きもせずうるさくまとわりついてくるのは、幼馴染のジュードである。


 この男、初めて出会った幼い日以来、寝ても覚めてもフィアに愛を叫び続けている。


「わかったから、邪魔しないで」


 フィアは洗い場で洗濯の途中だ。後ろから抱きしめられて苛立った。


「動いている時に邪魔されるのが何より嫌いなの。何度も言ってるでしょ。私の動きを制限しないで。私の前に立ち塞がらないで。後ろから羽交締めにしないで」


「わかったよ。可愛いフィア。怒った顔も可愛いよ」


 ジュードの家はこの辺りでは一番大きな商家であり、フィアはそこの使用人夫婦の娘だ。父は旦那様の手となり足となって国中あちこち出掛けていくし、母は甲斐甲斐しく奥様の身の回りの世話をしてきた。フィアはジュードと共に育ったが、物心ついてからはその身分差をきちんと弁えるよう教育されている。


 けれどもそのすべてを台無しにしてしまうのがジュードなのだ。


 彼はとにかくフィアのことが好きだった。頭からつま先まで、その動きも声も表情も、なんでも好き。なんでも最高に可愛い。好きすぎてつらい。こんなに好きな女の子を僕に授けてくれて神様ありがとう。


 残念ながらフィアにはそのような熱烈な恋愛感情というものは生じなかった。でもまあ、別に嫌なわけではない。ずっと一緒にいるから今更無理に離れようとも思わない。


 ジュードが望むなら、このまま結婚するのもやぶさかでない。


 そう思っていて、本当にそうなってしまった。

 二人は家中みんなに祝福されて、何の障害もなく夫婦になった。



*



 二人が結ばれて一年が経った頃。

 王都から一台の馬車がこの片田舎の屋敷にやってきた。


 使者から書状を受け取った旦那様は、ひどくしぶい顔をした。


「あなた、お異母兄様からですか」


奥様が不安げに尋ねると、旦那様は少し躊躇ってから、口を開いた。


「厄介なことになった。

 ジュードとフィアに何と伝えたらよいものか」


「お異母兄様は何と」


「異母兄の嫡男が怪我をして……その、子どもが望めなくなったそうだ。だが、君にも言ったように、嫡男の嫁は宰相の娘だ。どうしても子が必要だそうだ」


「それはお気の毒ですが、うちと何の関係が」


「秘密裏に、ジュードと宰相の娘の子をなせと。世間には嫡男の子として」


奥様は息を呑んだ。


「そんな、まさか」


「私の生まれのせいで家族にまでこんな面倒事をもたらすとは。本当に済まない」


「あなた」


奥様は項垂れる旦那様に縋りつく。


「どうにもならないことなのですか」

「あの家の意思は私などにはどうすることもできない。済まない」


 旦那様は、王都のとある侯爵がメイドの娘に生ませた庶子である。

 産まれてすぐに母親もろとも地方の縁もゆかりもない土地に追いやられたが、それなりの金は持たされていた。

 旦那様は母親が苦労する姿を見て育ち、平民としてはそれなりの教育を受けて、商家の下働きからここまでのしあがった。しかしその背後に実は父侯爵からの大小さまざまな支援の手があったのである。


 侯爵は妻の悋気を恐れてはいたが、手をつけたメイドにもその息子にも確かな愛情があった。政略で結ばれた正妻とその子どもたちよりもよほど強い思い入れが。

 できれば二人を手の届くところで愛でていたいというのが本音だったのだ。


 本妻の息子である旦那様の異母兄は謹厳な母親そっくりの堅物に育ち、侯爵位を譲り受けて大臣の職に就いている。血を継いでいくのは絶対の使命なのである。


「いっそ、お異母兄様が子をなせばよいではありませんか!」


奥様が叫ぶように言った。


「それが、嫡男たっての希望だそうだ。ジュードにならば新妻を預けられると。ジュードの子であれば我が子として愛おしむことができると。自分の父親との子はどうしても受け入れることができないそうだ。

 その気持ちはわからんでもないが……」


「そんな、必要なのはあの家の血なのでしょう?家のためであればそんな我儘は通用しないのではありませんか!?」


 旦那様は溜息をついた。


「私は異母兄に恩がある。私と母の存在を見逃してくれた父の正妻にもだ。私が今こうして好きなことをして暮らしているのも、すべてはあの家の支えがあったからだ。

 もしあの家を怒らせたら、私もこの家も紙屑のように握り潰されてしまうだろうな」


 二人は青い顔をして、ジュードとフィアにこのことを決定事項として告げざるを得なかった。



*



 王都へ向かう馬車に揺られながら、ジュードはまだ自分が悪い夢でも見ているのではないかと思っていた。


 父の生まれのことは知っていた。それを父から聞いた時に感じたのは、貴族に対する嫌悪感だった。そして自分が地方の裕福な商家の跡取りとして自由に生きていることに感謝したものだ。

 それが巡り巡って、なぜか今、こうして馬車に揺られている。

 愛しいフィアを残して。


「嫌だ」


ジュードは呻いた。


「フィア。俺が望んだのはフィアだけだ」


 皆に見送られながら馬車に乗り込んだ時の、フィアの顔を思い出す。

 何かに漂白されたような白っぽい顔。

 あんな顔をさせるために結婚したのではなかった。

 何より自分が、フィアのそばを離れたくなかった。


「貴族の種馬なんて。この俺が」


 王都の中心地にある侯爵家の屋敷は、よそよそしく、いかめしくジュードを迎え入れた。


 難しい顔をした当主夫妻と対面したあと、ジュードは嫡男の部屋へと通された。


 薬品の匂いのする部屋で、彼は寝台に横たわる従兄弟と初めて顔を合わせた。


「遠いところを済まない」


ハロルドという名の、ジュードとよく似た顔の男の声は、意外にも穏やかだった。


「君も新婚だと聞いた。奥方にも申し訳ないことをしたと思っている」


「お体の具合はいかがですか」


「よくも悪くもない。……何も感じないんだ」


 ハロルドは薄く笑った。

 ジュードは二の句が継げなかった。


「君には苦労をかける。どうか、よろしく頼む」


 その人を目の前にすると、言おうと思っていた文句を何一つ言うことができなかった。

 ジュードがフィアを愛しているように、ハロルドも妻を愛しているのだとしたら。

 ハロルドは、あの日のフィアとそっくりの、漂白されたような白い顔をしていた。ジュードは胸が締め付けられて、ただ頭を下げるよりなかった。



*



 子を孕みやすい日取りというものがある。だがハロルドが落馬事故を起こして以来、妻のソフィアの生理は不順であるらしい。そのため日取りを正確に計算することができない、と侯爵家付きの医師から説明を受けた。

 なんのことはない、その日からすぐに始めろという話だった。


 嫡男の子であるとするためには、子をなすのは早ければ早いほどよい。


 通された客間の寝台の端に腰掛けてぶるぶる震えているソフィアを見て、ジュードは何とも言えない気分になった。


「ソフィア様。貴女になるべくつらい思いはさせたくありません」


ソフィアは目に涙を浮かべた。


「申し訳ありません。覚悟はしております」


「私の妻は、フィアというのです」


ソフィアの手の震えが止まった。


「奥様を愛しておられるのですね」


「はい。貴女に名前が似ているのです。でも、外見は少しも似ておりません。フィアは麦の穂のような髪で、明るい琥珀色の瞳をしております。

……貴女様もハロルド様を愛しておられますか」


「はい。何よりも、誰よりも」


二人の目が初めて合った。ソフィアの目は静まり返った泉のように薄い水色だった。


 それから三ヶ月ののち、ソフィアの腹に子が宿った。



*



 生まれたのは女児だった。

 しかし侯爵家はそれ以上を望まなかった。

 婿養子を迎えて家を繋いでいくと言って、ジュードを送り出してくれた。


 ジュードは生まれた子にも会わず、また馬車に揺られて故郷に帰って行った。

 誰に見送られることもない静かな出立だった。


 懐かしい我が家の扉の前でジュードが馬車から降りると、唇を噛み締めて俯くフィアがいた。


「フィア」


ジュードはフィアに駆け寄り、その体を力いっぱい抱きしめた。


「フィア、ずいぶん痩せてしまったね。長い間ごめん。寂しいと思ってくれた?フィア、会いたかった。こんなに長く離れたことがないから」


 フィアは何かを確かめるようにジュードの顔を見つめ、それから泣き出した。


「ジュード、おかえりなさい。おかえりなさい」


「フィア、相変わらず可愛いね。泣いた顔も可愛いけど、君を泣かせるのは嫌なんだ。もう二度と君を泣かせたくない」


フィアは何度も頷いた。


「ジュード、愛してる。私、あなたを愛してる」


 ジュードがいない長い長い時間、フィアは恐れと混乱と痛みをもって自分の心と向き合わなければならなかった。


 ジュードの目を覗き込んだとき、フィアは確かに、その目の中に何か自分の知らないものが混ざっているのを見た。


おそらくは、静まり返った泉の色のような何かが。


だが、フィアはそれを口に出して言うことはなかった。


 子どもの頃からフィアとジュードの間にあった美しいものは、それによってもう透明ではなくなった。


 だが、フィアはそれを飲み込むことで、これからようやく二人の夫婦としての時間を始めようとしていたのだった。


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