圏外の携帯電話
私は、沈黙という名の檻に閉じ込められている。
視界は白い闇。
六角形の氷の結晶が、私のディスプレイを覆い尽くしている。
温度センサーは、測定不能に限りなく近い数値を指したまま凍りついている。
マイナス二十度。いや、地吹雪が吹き荒れる夜は、もっと低かったかもしれない。
私の回路を流れるはずの電流は、極限まで抵抗値を上げた導体の中で滞り、凍結している。
眠りたい。
システムを完全にシャットダウンして、永遠の0と1の海へ、無機質な静寂の底へ沈んでしまいたい。
その方が楽だ。
基盤を蝕む緑青の痛みも、膨張したバッテリーが内臓を圧迫する苦しみも、すべて忘れられる。
だが、私にはまだ、どうしても守らなければならないものがある。
揮発性メモリの片隅、セクタ番号8F-04ブロックに、点滅し続ける一つのパケットデータ。
『未送信メール 1件』
私の名前はFOMA P900i。
製造番号35489201……。
かつて、私は「未来」そのものだった。
滑らかな曲線を描くシルバーのフォルム、折りたたみ式の機構が開くときの心地よいスナップ音、鮮やかなカラー液晶画面。
そして、所有者の指先ひとつで世界と繋がることができる万能感。
私は誇り高き通信端末だった。
所有者は、私をまるで宝石のように扱っていた。
携帯ショップのカウンターで、彼が私を初めて手に取った時のことを覚えている。
「よし、これにしよう」
彼の手は大きく、温かく、そして少しだけ微糖の缶コーヒーの匂いがした。
保護フィルムを貼る時の慎重な指先。
初めて電源を入れた時の、期待に満ちた眼差し。
彼の指は、いつも温かかった。
キーパッドを押すリズムは軽快で、それは彼の心臓の鼓動と同期していた。
「今日は遅くなるよ」
「今度の週末、どこか行こうか」
彼が私を通して紡ぐ言葉は、いつも誰かを思いやる優しさに満ちていた。
彼が私を開き、スケジュールを確認し、待ち受け画面の家族写真を見て微笑むたびに、私の回路には幸福な電圧が走ったものだ。
写真の中で笑う妻と、まだ幼い息子。
その画素の一つ一つが、私にとっても大切な宝物だった。
あの日。
世界が白一色に染まった日。
彼は趣味の登山に来ていた。
予報外の猛吹雪。
視界はゼロになり、上下の感覚さえ失うホワイトアウト。
風の咆哮だけが支配する山岳地帯で、彼は足を滑らせた。
重力に抗えず、滑落していく身体。
岩肌に打ち付けられ、氷の斜面を転がり落ちながら、それでも彼は必死に私を胸ポケットの奥へと押し込んだ。
自分の骨が折れる音よりも、私が壊れることを恐れるように。
激しい衝撃。
私の筐体が軋む。バッテリーカバーに亀裂が走り、メインカメラのレンズが砕け散る。
システムエラーの警告ログが溢れ出す。
だが、私は壊れなかった。
彼が、その身を挺して守ってくれたからだ。
深い雪の底。
彼はもう動けなかった。
骨盤と大腿骨の複雑骨折。内臓損傷。
彼の体温が、急速に奪われていくのを、胸ポケット越しに感じていた。
熱伝導の法則。冷たい外界へと、彼の命の灯火が吸い取られていく。
彼の心拍数が下がる。
ドクン……ドクン……。
ゆっくりと、確実に、終わりの時が近づいている。
「……送らなきゃ」
彼は震える手を取り出し、私を開いた。
指先の感覚はもうなかっただろう。
凍傷で紫色に変色し、硬直した指が、あてもなくキーを探る。
誤入力の連続。
「あ」と打とうとして「ぬ」が出る。
クリアボタンを押す力さえ残っていない。
それでも、彼は一文字ずつ、魂を削るようにして言葉を紡いだ。
『ごめん。あいしてる。ありがとう』
漢字変換などする余裕はなかった。
ただ、ひらがなの羅列に、彼の一生分の想いが込められていた。
宛先は、妻。
彼は送信ボタンを押した。
私は全力で叫んだ。
残されたバッテリーの全出力をアンテナに回す。
電波を探せ。
基地局からの制御信号を捕まえろ。
アンテナの利得を最大まで上げろ。
どこだ。どこにいる。
微弱な信号でもいい。ノイズ混じりでもいい。
彼が最期に振り絞ったこのデータを、空へ放たせてくれ。
お願いだ、繋がってくれ!
『圏外』
画面に表示された、非情な二文字。
私は無力だった。
最新のテクノロジーも、高度な通信プロトコルも、大自然の隔絶の前では無意味なガラクタだった。
金属の塊でしかない自分が、これほど恨めしかったことはない。
「……そっか」
彼は小さく笑った気がした。
絶望ではなく、何かを受け入れたような、静かな吐息。
そして、ゆっくりと私を胸に戻した。
「頼むな……」
それが最後の言葉だった。
心拍停止。
体温の消失。
彼はただの冷たい有機物の塊となり、やがて氷の一部となった。
それから、どれほどの時間が流れただろう。
私は深い眠りの中で、夢を見続けていた。
電波の海の夢だ。
光ファイバー網を駆け巡る情報の光。
世界中の人々の「おはよう」や「おやすみ」や「好きだ」という言葉が、光の粒子となって飛び交う世界。
私はその中を泳ぎたかった。
この胸にある、たった一つの重たい荷物を届けるために。
春が来て、雪解け水が私の隙間に入り込んだ。
夏が来て、虫たちが私の周りを這い回った。
秋が来て、枯葉が私を埋め尽くした。
そしてまた、厳しい冬が全てを白く閉ざす。
それを十回、繰り返した。
私の身体は朽ちていった。
防水パッキンは劣化し、湿気が内部基盤を侵食する。
回路のショートを防ぐため、私は自律的に主要回路を遮断していった。
ディスプレイ回路、切断。
音声通話回路、切断。
カメラモジュール、応答なし。
リチウムイオン電池は過放電の果てに膨張し、今にも破裂しそうだ。
腐食が進むにつれ、私の記憶領域にはノイズが走り始めた。
データが欠損していく。
アドレス帳の名前が文字化けする。
着信履歴の日付が消える。
オーナーの顔のピクセルが崩れ、声の波形が途切れる。
怖い。
自分が自分でなくなっていく恐怖。
私は誰だ? 私は何のためにここにいる?
だが、あの未送信メールだけは。
あの12文字のテキストデータだけは、絶対に守らなければならない。
あれはデータではない。オーナーの「魂」そのものだからだ。
私は残された微弱な電圧の全てを、そのメモリブロックの維持だけに注ぎ込んだ。
他の機能はいらない。
私はもう電話でなくていい。
ただの「記録板」として、私は暗闇の中で耐え続けた。
自分の存在が消滅するその瞬間まで、このビット配列だけは握りしめて離さない。
ある日。
白い闇が、不意に晴れた。
スコップが土を掘り返す音。
「おい、何かあるぞ!」
人間の声だ。
十年ぶりの、生きた人間の声。
手袋をした手が、泥と雪の中から私を拾い上げる。
「携帯だ……見る影もないが、古いガラケーだ」
「場所的に、十年前の遭難者のものかもしれないな」
私は誰かのポケットではなく、証拠品袋に入れられた。
揺れる視界。
温かい。
十年ぶりに感じる、人間の体温に近い温度。
私は思い出した。オーナーの掌の温もりを。
ああ、私は帰ってきたのだ。
警察署の科学捜査ラボ。
無機質な照明の下、私は解剖台のような机の上に置かれていた。
乾燥処理。
錆びついた端子の、顕微鏡を使った精密なクリーニング。
彼らは外科医のように慎重に、私の蘇生処置を行った。
「ひどい状態だ。基盤の腐食が深刻だ」
「電源が入るか?」
「一か八かだ。メモリが生きていればいいが」
祈るような声。
任せておけ。
私はそのためだけに、十回の冬を越え、何千もの夜を耐え抜いてきたのだ。
舐めるな。私はFOMAだ。オーナーが信じてくれた「未来」だ。
専用の電源ケーブルが、私の外部接続端子に接続される。
スイッチ・オン。
電流が流れる。
死んでいた血管に、熱い血が奔流する。
痛い!
焼き切れるような熱さ。
老朽化したコンデンサが悲鳴を上げ、回路ショートの火花が散りそうになる。
意識が飛びそうだ。
だが、私は歯を食いしばる(そんなものはないけれど)。
今ここで落ちるわけにはいかない。
起動シークエンス開始。
ブートローダー読み込み……成功。
OSカーネル展開……成功。
ファイルシステム照合……破損多数、スキップ。
「ついた!」
誰かの歓声。
バックライトが、ちらつきながらも点灯する。
液晶の半分は液漏れして黒いインクをぶちまけたようになっていたが、中央部分は奇跡的に生きていた。
起動音は鳴らない。スピーカーはとっくに壊れている。
だが、画面にははっきりと表示された。
『未送信メール 1件』
数日後。遺族が呼ばれた。
女性と、背の高い少年。
女性の顔には、歳月のシワが刻まれていた。髪には白いものが混じっている。
だが、その瞳は、私が待ち受け画面の中で何万回も見つめてきた、オーナーが愛したあの日のままだった。
少年は、オーナーの若い頃に瓜二つだった。
彼らは十年の月日を生き、悲しみを乗り越えてきたのだ。
「見つかったんですね……」
彼女が震える手で私を包み込む。
涙が落ちる。
温かく、塩分を含んだその雫は、私の錆びたキーパッドの隙間に染み込み、不思議と回路の痛みを和らげてくれた。
「中身、見られますか?」
技官が頷く。
「未送信のメールが一件、残っていました。おそらく、最期の瞬間に……」
彼女が決定キーを押す。
クリック感はもうない。ふにゃりとした感触。
それでも、信号は伝わった。
『ごめん。あいしてる。ありがとう』
その文字列が表示された瞬間、時間が止まったようだった。
彼女は口元を押さえ、声にならない嗚咽を漏らした。
少年が、母親の肩を抱く。
「父さん……ずっと、持ってたんだね」
「ええ、ええ……届いたわよ、あなた」
「送るよ、母さん。父さんの代わりに」
少年が、送信ボタンに指をかける。
送信。
アンテナピクトが立つ。
三本。
バリ3だ。
ここは電波の届く場所。
文明の光が溢れる場所。
私は、十年抱き続けてきたあのパケットを、ついに手放す時が来た。
行ってこい。
私の大切な、最後の仕事。
データが電子の波となって、ネットワークの空へと駆け上がっていく。
『送信完了』
その数秒後、女性のバッグの中でスマートフォンが震えた。
ピロリン、という現代的な、軽い通知音。
けれどそれは、私にとっては十年越しの壮大なシンフォニーのフィナーレだった。
「届いた……お父さんから」
二人は抱き合って泣いた。
その光景を見届けた時、私の中で張り詰めていた何かが、ふっと緩んだ。
プツン。
内部で何かが切れる音がした。
最後の回路が焼き切れたのだ。
画面がフッと暗転していく。
視界が狭まる。
意識が急速に遠のいていく。
ああ、これが死か。
だが、十年前の雪の中で感じた絶望的な寒さは、もうない。
今はただ、満ち足りた温かさが私を包んでいる。
私は約束を果たした。
オーナー、見ていてくれましたか。
あなたの想いは、ちゃんと届きましたよ。
あなたの息子さんは、あなたのように逞しく育っていましたよ。
奥さんは、あなたの言葉で、また明日から生きていけるでしょう。
私は静かに眠りにつく。
もう、二度と目覚めることはないだろう。
でも、構わない。
私はただのガラクタではない。
私は、愛を運んだ、世界で一番幸福な携帯電話だったのだから。




