10話 AMS
辺境、アッシュ領。
二つの『商品』が完成した、その直後。
俺は、精製された『AMS(白い塩)』と『RC(鎮静剤)』のサンプルを詰めた小さな木箱を閉じた。
そこへ、「交易ルート確立」を命じたゲイルが、闇から滑り出るように戻ってきた。
「ヴィンスの旦那」
ゲイルは、埃を払いながら、荒々しく報告する。
「言われた通り、王都までの『安全な裏道』は確保した。王子の目も、聖女の目も掻い潜れる、ネズミの道だ。で、何を運べと?」
俺は、返事の代わりに、その小さな木箱をゲイルに放り投げた。
ゲイルが、それを無造作に受け止める。
「今回は『香辛料』だ」
俺は、冷ややかに告げる。
「ボルジア伯爵(財務卿)の食卓を『美味しく』するためのな」
「……チッ。相変わらず趣味の悪いジョークだ」
ゲイルは、木箱を軽く振り、その中身の軽さを確認する。
「伯爵サマに、このガラクタ(サンプル)を届けりゃいいんだな?」
「ああ。これは『挨拶状』だ」
俺は、ゲイルに一枚の指示書――ボルジア伯爵への交渉条件を簡潔に記したもの――を渡す。
「伯爵が『クロウ』と名乗る男(俺)からの『取引』に乗るかどうか、見極めてこい」
「……ああ、それと」
俺は、ゲイルの肩を叩く。
「交渉内容は、ここに書いてある。お前の『裏』の交渉術で、あの老狐の反応を探ってこい」
ゲイルは、指示書にさっと目を通すと、不敵に笑った。
「ハッ。面白え。任せろ」
彼は、木箱を懐に仕舞う。
「あの貴族サマの生き血、美味しく啜ってきてやるよ」
ゲイルが、選りすぐりの部下と共に、再び闇に消えるのを見送る。
(さて、財務卿。俺からの『餌』だ)
俺の思考が、次の盤面を構築する。
(聖女という『共通の敵』を前に、お前がどのような『合理的判断』を下すか……見せてもらうぞ)
◆
王都、財務卿ボルジア伯爵の屋敷。
夜更けの書斎で、ボルジア伯爵は、聖女派ギルドの金の流れに関する調査報告書を読み、不機嫌に眉をひそめていた。
(聖女ユナめ……)
ボルジアは、指先でこめかみを押さえる。
(王子の威光を笠に、ギルドの塩利権を私物化しおって。何が『奇跡の塩』だ。あれではギルドの『規約違反』どころか、王国の『経済』そのものを歪める『王家への背信』に等しい)
そこへ、側近が、静かに入室した。
「旦那様。アッシュ領の『クロウ』と名乗る男からの使者が、面会を求めております。『贈り物』を持参した、と」
ボルジアの眉が、ピクリと動いた。
(クロウ……? あの、王子を退けたという、追放された執事か。このタイミングで、俺に何の用だ?)
「……通せ」
書斎に通されたのは、ゲイルの部下の一人。
影のような男だった。
男は、一切の挨拶もせず、ただ、ヴィンセントから託された木箱をテーブルに置き、無言で一礼し、退出していった。
◆
書斎に、再び静寂が戻る。
ボルジアは、毒見役が検分を終えるのを待ってから、その木箱を開けた。
中には、二つの小瓶と、一枚の指示書。
彼は、まず、一つ目の小瓶――『RC(鎮静剤)』のサンプルを手に取った。
指示書には、こうある。
「不眠、不安を癒やす薬。聖女の『奇跡』が届かぬ市場へ」
(……薬、だと?)
ボルジアの目が、細められる。
(確かに、聖女の奇跡は『心の病』には効かん。王都の貴族どもは、夜ごと悪夢にうなされている。これは……新たな『市場』になる!)
次に、彼は、二つ目の小瓶――『AMS(白い塩)』を手に取った。
指示書には、こうある。
「魔力浄化作用を持つ『工業用塩』。聖女の『奇跡の塩』の代替品、あるいはそれ以上」
ボルジアは、その『AMS』を少量、水差しから注いだ水に溶かす。
そして、書斎のテーブルに置かれた魔道具のランプ――微弱な魔力で灯り続ける高価な照明――に、その塩水を一滴、垂らした。
パチ、と小さな音がして、ランプの光が、明確に『揺らいだ』。
魔力が、中和されたのだ。
ボルジアの目が、驚愕と、そして次の瞬間、底知れぬ歓喜で見開かれた。
(……バカな! この塩、『本物』だ!)
(聖女のギルドが売っている、あの高価な『まがい物』とは比べ物にならん!)
彼は、即座に、二つのサンプルを送りつけてきた『クロウ』――あの執事の、真の意図に気づき、戦慄した。
(あの執事……!)
(この『AMS(本物)』を俺に渡し、聖女の『塩利権(偽物)』を『経済的』に叩き潰せ、と言っているのか!)
(しかも、この『薬(RC)』で、聖女とは無関係な、新たな市場まで提供するという……!)
ボルジア伯爵は、しばらくの間、二つの小瓶を睨みつけたまま黙考していた。
やがて、その老獪な顔に、悪辣な笑みが浮かんだ。
「……面白い。『クロウ』とやら。その『取引』、乗る価値がある!」
彼は、即座に呼び鈴を鳴らし、側近の調査官を呼びつけた。
「今すぐ、聖女派がギルドで売っている『奇跡の塩』を、市場が気づかぬよう、ありったけ買い集めろ!」
調査官が、驚きに目を見開く。
「あの『偽物』と、このアッシュ領から届いた『本物(AMS)』の成分調査を、徹底的に行う!」
ボルジアは、窓の外の闇――聖女の神殿がある方角――を睨みつけた。
(聖女ユナ……お前の『化けの皮』を剥がす時が来たようだな)
ヴィンセントが放った『サンプル』という名の火種は、確かに、王都の『泥沼(聖女 vs ボルジア)』に投下された。
新たな『戦争(経済戦争)』の号砲が、今、鳴らされたのだ。
ヴィンセント
フン……。第10話の読了、ご苦労だったな。ヴィンセントだ。
あの老狐が、俺の『餌』に食いついた。王都で『経済戦争』の号砲が鳴る……実に、いい音だ。
この『盤面』の行く末を特等席で見届けたいなら、貴様の『対価(★や感想)』を置いていけ。この茶の『つまみ』にはなるだろう。
さて、次回は『燃え盛るタヌキ』。
老狐が聖女の『利権』を焼き払い、俺が仕込んだ『薬』が聖女の『権威』を蝕む。
『金』と『権威』を同時に失いかけた時、あの『偽りの聖女』がどんな顔で悲鳴を上げるか……せいぜい、この『特等席』から共に見物しようではないか。




