青茶の香りに誘われて
生まれ変わる前の記憶を保持している者はどのくらいだろうか。
それを口にする者は滅多にいない。
かく言う自分もその一人だ。
前世以前からずっと、そのどれもが心惹かれ続ける彼女と再会し、その恋を実らせずに終わっている。
今生もまたそうなりそうな予感がする。
今しがたやって来た自分より少し年上な宦官、旭と茶を飲む間柄にはなってはいたが、それも自分が宦官の姿だからだろうと志遠は思っていた。
大方、この数年で片付いた。
外傷も毒の気配もなく赤ん坊を殺す物は依然として見つかっていないが後宮を統べるべき者、その一族、関わる者全てが責任を取るべきだと皇帝陛下は判断された。
手も足をも出して隠さずにいるのだから、ものすごい奴だ! ということで最初からこの者達には頼れなかった。だからこそ、最初から『宦官』と志遠となる前の永華は言った。
その中にならまだその者達と通じてはいない輩がいるかもしれないという望みからだったが、皇帝陛下はその宦官さえも信じられず、自分の唯一の異母弟である永華に頼みというより命を出した。
そこまで信用できない宦官、旭は違うと思うのだが――と青茶をすすっと飲む旭を見る。
「それで陛下は夜伽をすると言っているのか?」
「ぶしつけな」
茶菓子に手を付ける旭を見る。
「ああ、これはあの食欲旺盛な宮女の物ですか?」
「違う」
「あの宮女、そこから得られたものは噂話程度の世間話でしょ? それで突破口が開いたものでもない。あなたがただ癒されていただけでは?」
「違う」
「そうでしょうか?」
旭は真意を確かめる為に志遠となっている永華を見た。
幼き頃からずっと一緒に居るから何かあれば微かな事でも分かるのだが、彼はそれに関してだけは頑なだった。
「お前が宦官で良かった」
「いえ、違うでしょ? ここが後宮だからですよ」
殺生と無縁なこの場所でそんな話をするものではないと、志遠は再度旭に聞いた。
「それで先日やっと後宮入りして来た浮光を陛下はどうすると?」
「聞き直さないでください。夜伽をするかどうかは分かりませんが、一度会っても良いな……とは申されていましたよ。あなたがあんなに反応するからです」
「さて、何の事やら」
志遠もすすっと自分の青茶を飲む。
旭には気付かれていたと思っていたが、まさか陛下にまでとは知らなかった。
「私が彼女を見たのはその後宮入りの際にだけだが、どう見ても美人でドキッとした。この後宮でそう思うのも珍しい」
「そうでしょうね、あなたなら尚更だ。綺麗な方です」
「ああ」
「お認めになる」
そう言って、旭にしては珍しく笑った。
「何だ? 気持ちが悪いぞ?」
「いえ、あなたがそうやって素直に女性のことを言うと思うと、あの話の方なのではないかと思ってしまいます」
「そうだな」
あれはいつだったろう。何故、滅多に言わない話を陛下になる前の兄と旭に言ってしまったのだろう。旭はその頃にはもう宦官だったか、そんな遠い子供だった頃の話。
「また……」
そう言って旭は穏やかそうに笑う。
「あんなにあなたと同じように頑なだった陛下が、あの口走ったあなたの信じられないような話を覚えていらっしゃるからこそ、そうなったのかもしれませんね」
「俺を貶める為だろう」
ついつい永華様が出てしまった。旭は気付かれないように口の端でまた小さく笑った。
こんなに笑うのも久しぶりな気がする。
青茶の香りは何を招くのか。
少し気になることを眼前に据え、旭はまた口を開く。
「ですが、あなたがずっとこの後宮にいらっしゃると何が起こりますかね?」
「何も起こらないだろう。その為にここがある」
「びっくりしましたね、あなたがここに来てすぐにこの永庭宮が出来た」
「そこまでして、俺はここに居る必要があるのだ。外ではなく、こうしてな」
そう言って、志遠に戻ったのはあの宮女がこそこそと体を小さくして近付いて来たのに気付いたからだ。
旭はさっきから気付いていたのか慌てた様子は一切なく、落ち着いている。
こそこそとまだ気付かれていないと思っているのか随分と図々しく近くまで来ている。
「何をしている?」
志遠はその宮女に声を掛けた。
「あ!」
ビクッとしつつも、そろーりと机の端から出て来た宮女、春鈴は謝るどころか目をそちらの方に向け、一言。
「美味しい匂いの正体はそれだったのですね!」
「お変わりなく」
淡々と旭は青茶をまたすする。
「舌も鼻も目も良いと来たら次は何がある?」
「さあ?」
春鈴はとってもあっけらかんとしてその場に立った。
よく出来る……と思いながら、志遠は春鈴の言いたいことを代わりに言った。
「どれでも好きなだけ持って行け」
「え? 良いのですか? 本当に?」
「ああ、お前にこうされるのはもう数え切れないくらいだ。慣れている。それで今回は何の話を聞いていた?」
「何も」
「本当か?」
「はい」
「そうか」
そういう話には一切興味がないこの宮女、春鈴だからこそ、志遠もこうして甘くなるのか。
茶菓子を適当に選ぶ手がふと止まり、春鈴は志遠に問い掛けた。
「そういえば、この前、香彩宮に入られたばかりの綺麗な方はどなたなのでしょうか?」
「もう噂になっているのか?」
「ええ、それはそれはお綺麗ですから。私と同じ年頃なのでしょう? 何でも、ご自分の身にそれが出来るとは到底思えなかったそうです。それでもお顔やお身体が大変お美しく、誰も放っておかないからと、やって来たそうです。このままでいたら怖いと……香彩宮の誰かが教え込めば一気に花開くでしょう! と期待を込めていらっしゃるという話をお聞きしております」
一体、何を花開かせる気なのか? とても気になるが、春鈴は確か静風宮の宮女だったはず。
「それを波妃はご存知か?」
「はい」
だからか。
「名は浮光と言う」
「そうですか」
それだけで十分と、春鈴は残りをざっと取ると一礼をして、脱兎の如く逃げた。
「とても軽やかですね」
「こういう時だけはな……」
少し面倒になるかもしれないと思いつつ、志遠は残っていた青茶を飲み干した。