ゾンビ
ゾンビ――それは空想科学でありながら人々に現実味のある世紀末の世界観として恐怖を覚えさせる、ホラーの定番。
死者が墓から蘇るという発想から次第に発展し、近代では生者がウイルス等の外的要因で発症するという設定も良く見られる。
大抵の場合感染者は血肉を食らう為に攻撃的で、ウイルスの感染は攻撃による創傷感染が主。その他ウイルスを自ら摂取するという奇異な行動による事もあるが、自分の体を信じてウイルスへ勝負を望んだ馬鹿がどうなるか――私の知る限りでは皆、人間を辞めた。
ゾンビに対する共通認識は恐らく、「知性を失っている」「血肉を食う為だけに徘徊する」「頭が弱点」「走らない」「音に敏感」「火が苦手」「太陽光に弱い」といった所だろう。全てでは無いにせよ、此れ等が当て嵌まるゾンビ作品は多数生み出されてきた。
それは最早クリエイターだけのゾンビでは無くなって来ている。映画、ゲーム、小説、ドラマ――ゾンビは私達の頭の中に着々と、他人と共有出来るだけの概念として蓄積されてきているのである。
そして奴等はいつの日か、私達の前に姿を現すだろう。
その存在が空想から現実になる可能性を、COVID-19の蔓延でより身近に感じる事が出来たと私は思っている。それまでにもあった感染症の拡大だが、伝聞だけでは如何にも危機感が湧かなかった。
私は自分の目で見た物の方が他人から伝え聞いた物事よりも圧倒的に信じられ、落ち着けるという面倒な性格をしているのだが、仮にそれが空想だったとしても一定の信頼を置いている。
それだけに有事の際、既存の知識で対処法を語るのは些か危険だと感じた。現実にゾンビが現れたとして、それが走らないという保証は何処にも無く、たった1つの野性的な目的に群れを成した動物となっているとは限らない。
私が考えるゾンビの姿を知れば、あなたもきっと感染の概念が変わるだろう。これまでに見た数々の啓示的な夢を基に、私が普段している空想をお聞き願おう。
私は自身の夢について頻繁に語っている。それが予知夢なら備える為のきっかけとなり、唯の夢だったとしても笑い話になるから。
何より其れ等を正義として自分の精神衛生を管理出来るのだから、空想や推論として語る分にはやらない手は無い。
今から私がする話を信じろとは言わない。これを読むあなたにその言葉は野暮だと知っている。
これは飽く迄も私の夢という主観的事実が根底にある話なので、先ずはその夢を共有する所から始めよう。
今回の話に関する夢は全部で3つ。最初の夢の舞台は実家だった。その光景を見た夢の中の私がそうであると確信していた。
間取りは同じ。登場人物は皆親族。畳6畳程の広さの居間ともう1室の2部屋が並ぶ1階で、彼等が集合している場所に私が1人入って来た格好だった。
印象的に映ったのが祖母と親戚。祖母は椅子に座ったまま一点を見詰め、魂を引き抜かれたかの様に動かない。一方親戚は私が来た事を祖母に伝えていた。
この夢が一体何を意味するのか――私も啓示的な夢許りでは無く、気付いたら自分が人前で全裸になっていたなどの下らない夢を見る事もある。何ならストレス発散になる一般的な夢の方が多い位だ。
この夢を見た私は家族と自分の将来に関する暗示かも知れないと思いつつ、心当たりも無かった為特に気に留めていなかった。
それから日が経って見た2つ目の夢で、私は夢同士の親和性に本格的な考察を始める事となる。
その夢は私の唯一の兄弟である弟と、幼少期の頃を彷彿とさせる関係性で暮らしている夢だった。それは本当に幼少期の記憶から見た夢だったのではないかと、そう思った人も居るだろう。
私がそう思えなかった要素が、夢の舞台と登場したゲーム機にある。私達兄弟の成長に合わせて両親は実家の側に別宅を購入したのだが、それは私が13歳前後の頃の事。
その時には私は私、弟は弟でそれぞれ学校の友人と遊んでいた為、別宅でそのゲーム機を使い仲良く遊んだ記憶は無い。そもそも、そのゲーム機が発売されたのは私が19歳の時だ。
それはあのニンテンドースイッチ。ゲーム機として一種の完成形とも言える、着脱式のコントローラーと本体によりスタンドから分離させて外出先でのプレイを可能とした次世代機。
家庭用ゲーム機ならコントローラーさえあれば複数人で同じ映像を見てプレイ出来る。対して携帯型ゲーム機ともなると各々が機器を持ち寄って漸く始まる通信プレイは、見て呉れとしては小ぢんまりとした画面で孤立したままの状態。
又携帯型1つを2人で遊ぶとなると大抵は左手と右手でゲーム機を掴み役割分担して、ムーブとアクションが思う様に噛み合わないむず痒さを楽しんだものだが、それもクリアという結果を求め始めると最終的には1人がプレイしているのをもう1人が見ている構図になっていた。
当機はそんな携帯型ゲーム機の欠点の克服へ、家庭用ゲーム機という位置付けでありながら大きく前進した革命児だった。
当時の私は不要な物を売りお小遣いを貯めて、弟と半々の分割で買ったと記憶している。共有していたのはゲーム機だけでは無い、それは単なる媒体に過ぎない――そう自信を持って言えたなら良かったのだが、少なくとも私は1つのゲーム機を分け合い、同じ画面でプレイする特別な高揚感に期待していた。
赤と青のコントローラーを分け合ってゲームをしたのも、「した」という事実しか覚えていない程朧げな記憶。お互いに成人して1機ずつ所持してからはそのゲーム機の真髄も鳴りを潜めた。
その次世代機に対する私の未練があったとでもいうのだろうか――後継機はナンバリングで同じ名前を引き継ぎ発表された事もあって、私が見た夢は私の理想とも、予知夢ともとれる筈である。どうせ私の話は終わりまで主観性に満ちた妄想でしか無いのだから、都合良く行かせて貰うとしよう。
1人暮らしをしている弟と実家暮らしの私の、幼少期の様とも他人ともつかぬぎこちない距離感が、高々ゲーム機1つで引き合わされるものだろうか――夢の中での私は自分からゲームの誘いを口にし、それに対する返事の一声目には既に有頂天となっていた。
子供の様に喜ぶ私から距離を置こうとして呆れていたのだろう、弟の負の感情も僅かに流れ込んで来た。そしてその夢はゲームが出来る喜びの内に幕を閉じた。
此処までに語った2つの夢同士は、其処に映っていた場面や登場人物への印象、夢の中で私が彼等に抱いた感情など、直接的には関係無いかも知れない。
唯の夢として忘れ去る事は簡単だ。人々が銃撃から逃げ惑っていようが見知った景色が火の海になっていようが、起きてからなら誰でも何とでも言える。
だが世界には予言者が存在して、更には非科学的な未来のビジョンを見る事が出来る者まで居るのも又、事実だ。たとえそれが制御不可能で局所的な力だったとしても、SNSが普及し発信が容易となった今、彼等が変えた未来は確かに存在する。
夢を語る事の楽しさは正に其処にある。如何にも夢らしい非現実の集合体ならいざ知らず、自らの実情から派生するに難く無い内容やはっきりと記憶に残る程の啓示的な夢なら、語らうに値するだけの神秘がある。
家族という共通点が有する現実性は私に言わせれば神秘の塊だ。贋作溢れる骨董品の世界で日々真作を探し求める人にも通ずるかも知れない――私は夢の虜になっている。
同時にそれは私が此れ等2つの夢を自分の未来の可能性の1つとして認識してしまっているという事でもある。だから何なのかと言えば、私がこれから語る推論の未来に於ける信用度を損なう事となり兼ねない。
自分の周りの極小規模な未来を変えるだけならそれでも良い。言葉への信用は他人を巻き込んで未来を変えたいとなった時に重要な役割を果たす。
予てより私は言葉への信憑性を持たない者が語る予知夢は予知夢では無く、正夢であると考えている。
未来を知る術は2025年現在では確立されていないので、多少こじ付けがましかったとしても予言者達は凶兆を敏感に察知する必要があるのだが、残念ながら私は自分に起きた事実と推論しか語らないので尚更信憑性を欠いている事だろう。そもそも私は少し予知夢を見るだけで何も特別では無い人間だ――その筈だ。
そんな私の夢だが、まるでゾンビと関係無い話で正夢になろうとあなたからすれば知った事では無いと思うかも知れない。
実際、他人の信不信に拘らず夢が実現する可能性は一定数あるのは揺るぎ無い事実だ。それは自分の無意識下での行動による所が大きいが、自然災害といった絶対的な要因も存在する。
そしてその要因に含まれるのが「他人とその言動」である。
中でも外因的な物に限定され、ある日突然他人の意思により引き起こされるイベントが自分1人の処理能力を上回っていたら、テレビの前でニュースを見ながら唖然とするのが関の山だ。
予知夢を見た者がどんなに意識的な行動を心掛けて正夢になる未来を避けようとしても、その者より社会的、金銭的、或いは権威的に力を持った他人による人生への介入が起これば、その者は従わざるを得ない。
それは自然の摂理。負けた方がより強い方へ道を譲る一対一の単純明快なルール。
正夢となって欲しく無いが為に夢の内容を言い触らして、1人でも多くの人へ考えるきっかけを与えれば与える程、信を得ようと得まいと言い触らした者のそれは正夢へと近づいていく――他人は私の様な者を無知な愚か者と呼ぶのだ、きっと。
都合の良さ?――ああそうだ、私は許されている。そうでなければ今頃は急に心臓が止まるなり交通事故に巻き込まれるなりして死んでいる。
人は老いるものであり、兄弟の間には成長と共に無邪気さが陰るものである。それなのに夢で見た私達兄弟の仲は過去へ逆行したかの様だった。此処までの2つの夢に違和感を感じたのは、順行と逆行の2つを取り合わせてしまったにも拘らず其れ等に唯の夢と割り切れるだけの反発が生まれなかったのが要因だと思う。
年老いた祖母の夢は「順行」、年甲斐も無く燥ぐ兄弟の夢は「逆行」と来て、3つ目となった夢は其れ等の関連性を日常からでは無く「原因」の観点からも保証しそうだった。
此れ又実家の近所にて――7メートル程の橋長の道路橋付近を理由も無くぶらついていた私。橋下を流れる川へ向かい、恐らくは1人でフラフラと歩いていた。
どれ程呆けていたのか、力無く歩いていた私はその川を挟んだ向かい側から近づいてくる人の集団と目が合ってから呑み込まれるまで、動かなかった。
目が合った瞬間の彼等の表情は、映像で見た筈の夢が静止画1枚にしか残らない私の脳に、刻印となって今もこびり付いている――彼等は皆笑っていた。そしてその笑みに当てられた私も反射的に笑った(夢を見た私がそういう認識)のだ。
それからどれ位経ったのか、夢にカットが入っても私は未だその橋の側。笑い掛ける見知らぬ2人に挟まれて座った私の心理や感情は、夢が終わるその時まで流れ込んでくる事は無かった。
大半の夢は1枚の静止画としてしか思い出せないのだが、この夢だけは1枚に留まらない。別に夢自体が特別なのでは無く、私がそれだけ強い関心を持っているという事である。
この夢の特異性を語るに当たって先ずは私が予知夢を見た時の共通点を話そう。
誰しも一度は夢で味わうであろう自分が裸だと自覚した瞬間の冷静さや、虫歯など口内に問題を抱えてもいないのに歯が抜けたとの錯覚からくる、痛みの無い恐怖。
テレビを見ていて自分が感じた感覚を背後の誰かに言語化され耳元で囁かれたかの様に、夢の中で単発の思考が不意に心の中へと浮かび上がる。私が此処まで夢を断定的に語って来たのは、自分が見た物の鮮烈さと其れを形容した言葉が持つ浸透力の高さ故に。
夢の中で肉体と精神が分かれて、肉体は映像を、精神は感情をそれぞれ読み取った。私の場合、予知夢に分類される夢は客観的主観とでも言おうか、「夢を見た自分」はその背後の誰かとして、「未来の自分」は夢の中で行動している自分として記憶されている。
そしてその肉体と精神の乖離こそが、この夢は予知夢であるとの確信へ繋がっていると私は考えた。
此れと似た状態としてはフラッシュバックが挙げられる。予知夢が未来を見せるのに対しフラッシュバックは過去への優雅な時間旅行。
その誘いは当日無計画も同然で、懐かしさを覚える旅行先では時間を忘れる位の御もて成しを受けて、まんまともて成されるや否や後方の遥かから脳へ追い出されると、視神経を通って帰路につく――あれこれと蘇るトラウマに「もしかしたらあの時も」「やっぱりこうしていれば」などと無性に後悔が湧き出る中、肉体は呆気に取られて我を忘れる。
この、肉体が一時的に活動を制限し精神のみが活性化した状態が、夢とフラッシュバックとで類似している。一生の付き合いとなり兼ねない傷を心に負う事と予知夢とにどんな関連性があるかと言われたら、私は先に述べた通り性質が似ているのと、予知夢に目覚めた時期がトラウマを抱えた時期と重なっている事位しか話せない。
だからこれは過度なストレスを受けるという行為を推奨するものでないと理解頂きたい。唯予知夢は誰もが経験する事柄では無いので、想像して貰い易い様に類似する事象を挙げただけなのだが、それすら一般的な経験では無かったらしい。
もしかしたら大病や事故での入院にもそういった状態の合致する部分があるかも知れない。意識を失い生死の境を彷徨って入院した人で、その間病床を訪れた相手の会話が聞こえていたと言う人を私は知っているが、それも同様の状態と言えるとしたら――。
何せ私自身も意識を失う程の容態となった事が無い。とにかく、其れ等の状況の類似点として「肉体と精神の結び付きが一時的に弱まる事による精神の活性化」が挙げられるという事を押さえて貰えればそれで良い。
3つ目の夢も例に漏れずその状態だった。集団と目が合って、それに取り込まれる自分をまるで他人事の様に見ていた。
それから目が覚めて、夢の違和感を綺麗さっぱり忘れてしまう前に思い起こした私には1つの疑問が浮かんだ――感情が伝わって来ていただろうか、と。
1つ目には憐れみ、2つ目には喜び。しかし3つ目の夢には「自分も笑っている」という所見はあっても、夢の中の自分が抱いたであろう感情まで記憶に残らなかった。
此れが何を意味するのかを、前述の状態という観点から私なりに考えてみた。私の記憶力に考察が着地する事は無いので安心して欲しい。
私は大まかに3種類の夢を見る――記憶に残らない極普通の夢、明晰夢、そして予知夢。普通の夢については良い印象、或いは悪い印象だけが残って朝を迎える変わり映えの無い物だ。
明晰夢はそれが夢なのだろうと寝ながらにして思える程には精神が活性化していて、起こった出来事へ夢の中の自分として間を置かずリアクションするのが特徴(私の経験)である。
又、それは痛覚を伴う事があった。痛覚については予知夢、或いはそうと見られる夢でも伴う事があったが、睡眠中の動作が反映されていると体の可動域の狭さから分かれば、私にとってはそれも夢を区別する要素の1つになる。
直近では有名人から幼少期の友人まで幅広い人物と、私が執筆している小説の内容について議論していた。「それはこの言葉1つで表す事が出来る事象で既に世に出ている」と小学校の同級生から言われると、私が「だからと言って議論を止める理由にはならない。――(忘却)多角的な議論に繋がる」と言い返し、それを私が知識面で最も尊敬している人物が頷きながら聞いていた。
例に挙げたのは執筆に関する私の悩みが反映されたであろう明晰夢なのだが、私は此れが将来的にほぼそのままの形で実現する可能性は無いと言い切れる。
未来に於いて私が尊敬する有名人と私、そして私の同級生とが集まり、小説で語った内容を議論する日が来るには、私が何かしらで成功を納めている事が前提となる。
それが小説だったと仮定しよう――先ず其処がスタートラインなのだ。一般人の私に有名人とのツテがある筈も無い。綴った小説を議論して貰えるという事はその作品がある程度認められていなくては成り立たない。
書かずに惚けている事は容易い。他人からのアクションを待つ事も。その未来へピンポイントで到るには余りにも確率にブレが有り過ぎる。
それは予知夢も同じだ。双方の違いを見つけるのは軟水と硬水を見分けようとするに等しい作業だが、私が現時点で挙げられる1つとして「肉体と精神の距離感」がある。
明晰夢を「体感型一人称視点映画の主人公」だとするならば、予知夢は「その映画とそれを鑑賞する観客」といった所だろうか。
要するに私は予知夢かそれ以外かを以上の観点から分別している。
体感型映画館でありながら映画にはその要素が皆無で且つ観客はポップコーンを食べる手が止まらない――その観客から映画の内容を、時に盗撮写真を交えて伝え聞いているのが覚醒している自分だとするなら、3つ目の夢は正にそんな感じだ。
予知夢を見ている筈なのに普通の夢を見ているのと変わらない位精神の活性が見受けられなかった事は、感情が伝わって来なかった原因と言えよう。
そしてそれは夢を見ていた私では無く、夢の中の私に精神面での何らかの異常があった可能性を感じさせた。
私はその異常について、「理性の衰退」と考える。これは歳を重ねれば誰しもに訪れる苦難の為、此処では中年期頃までの想定とする。
人は普段、意思の疎通を図る為に言語化という作業を行うが、それが必ずしも脳で行われる訳では無いという事は多様な人と接していれば分かるだろう。
時に激流の様な感情をも制御するその基盤は、人が人たる大本。
3つ目の夢の中で見た私は如何にもそれを失っていた。私だけでは無い――集団を成していた人々にもそれは見受けられなかった。
現実と整合性がある確かな情報は「夢の中の私」と「場所」について受けた印象の2つである。断言の根拠を挙げるとするならば他の夢との比較以外に、私の直感しか浮かばない。
中心視野の、それも注目した対象しか見えない程白飛びした映像だった筈なのに、場所が何処なのかを確信している――寝ながらであっても感情同様に知識を直感するのならば、その知識は未来の私が知り得る物か、或いは既に知っている可能性が高い。
明晰夢は知っている人物達が関連性も無く登場し、私も交ざって知らない場所で取り留めの無い話をして、最後には話した概要とその場面しか覚えていなかった。
大別すれば一般的な夢に分類出来る中間的立ち位置の明晰夢でさえ知識が反映されるのだから、より精神が肉体から独立し活性化している予知夢ならば直感した知識の確実性も担保されているというもの。
纏めると3つ目の夢は明晰夢と予知夢、両方の特徴を併せ持った夢で、何方とも言い切れない曖昧さが違和感に繋がった――こういう事だ。
と、主に夢について熱弁してしまったが、私の推論を少しでも現実味を持って聞いて貰うにはこうする他に思い浮かばなかった。
此れ等の夢に親和性を見た私の推論は、此処からが本番である。
冒頭で私はゾンビについて触れた。空想科学が生み出した畏怖の対象に対する世間の認識が如何いったものか、はっきりとさせておく必要があったからだ。
そのゾンビだが、今の私達の認識が根底から覆るかも知れないと言ったら、あなたは信じられるだろうか。
ゾンビが現実に起こり得ると仮定した場合、私はそれが細菌やウイルスなどによるバイオハザードでは無く人間の不確定性によって発症、伝播すると考えている。そう考えるに至った経緯は話したので、次はその考え方を詳しく触れていこう。
現代の空想科学に於けるゾンビは主にウイルスによる人為的感染が主流だ。アンデッド全体では呪いや魔法など様々な非科学的又は超自然的な存在として描かれ、執筆現在(2025年)から見て約128年前よりSFホラーの確固たる地位を築いている。
古くから伝承なりで語り継がれてきたアンデッド――中でもゾンビはドラキュラやミイラと並んで有名な存在。名前を聞いただけでピンと来る人も多いだろう。
日本でその名が広まったのはゲームからだと私は思っている。カプコンの大ヒットシリーズ、「BIOHAZARD」はその代表格ではないだろうか。ハリウッドで映画化もされた作品であり、コンテンツとしては今や国内だけに留まらない成長を遂げている。
そう、ゾンビだ。あなたも良く知る、あの。
誇り高い国産で盛り上がった所に水をさして申し訳無いが、ゾンビウイルスは存在している――勿論、あなたの中にも。
信じられないだろうが、それは事実だ。とは言っても未知の病原体が水面下で世界的に蔓延しているとか、そういった話では無い。
2025年から約128年前と聞いて、あなたが思い浮かべたのは何か。
実はその頃、アイルランドの作家であるブラム・ストーカー著の「吸血鬼ドラキュラ」にて、"The Un-Dead"の綴りでアンデッドという言葉が世に送り出されたと言われている。
正直に言うと私は彼の小説を読んだ事が無い。加えて彼と同じ時代を生きた訳でも無い為、それが本当かは伝聞でしか知る事が出来ない。
なので彼以前に小説なりでアンデッドの語を使用した者が居たとしても、その者達は墓場で静かに眠るしかない。
勘違いしないで欲しいのは、私は彼に関する伝聞を嘘だと言いたいのでは無いという事。
私は「吸血鬼ドラキュラ」が感染力の面で優れているという事を言いたかっただけなのだ。彼の小説と、彼の小説が生まれるよりも前に存在したかも知れないアンデッドの概念を綴った創作物とでは、人々への影響力、感情を揺さぶる力、得られる知的満足度に差があったのだろう。
そしてこの感染力という表現だが、これは比喩であって比喩では無い。作品の人気が広まる事、それにより多くの人がアンデッドの知識を身に付ける事を指し、私の推論ではそれを以て「ウイルス」としている。
人間には欲がある。三大欲求をはじめとした様々なそれは人の行動の原動力となり、時に文明をも崩壊させ兼ねない道を指し示してきた。
中でも知識欲は別格で、人間社会とは知識の集大成であり、言ってしまえばあなたが住んでいるその大地でさえ先人達が知識欲に動いた賜物なのだ。
何故そう思うかと言えば知る事は生存に直結するからだろう。
日本の烏を例に挙げてみよう。ハシボソガラスの間では食糧となる胡桃を車道に置き、車に轢かせる事で中身を食す個体が現れて久しい。又、轢かれるかも知れないリスクを楽しんでいるのか、彼等の中には車が迫っているにも拘らず車道を両足で飛び跳ねて横断する個体が居る。
此れ等の行動は烏が車を「個体差に関係無く極めて高確率で一定の動作をする」生物、或いは物であると理解しているからこそだ。
一定の動作とは白線の内側を走る事。もしかすると彼等に道路は獣道の様に映っているのかも。
車の性質を知らない個体は胡桃を割る為に高所から落下させるが、これは嘴から離せば良いだけでどの個体でも出来る手段である。寧ろ手軽さで言えば此方の方が上の筈だ。
悪戯をした子供の頭に鳥が糞を落とす事がある。その糞も肩に落ちたり顔に掛かったり当たらなかったりと、鳥によって得手不得手もあるだろう。
落下させて割った胡桃をいざ食べに行こうとしたら、他の烏に横取りされている――雑食の烏が食べ物に困るとは考え辛く、胡桃を食す為に危険を冒している理由自体は別の所にある。
それが何であれ、車道を悠々と横断し走行車を利用する命知らずな烏が居る事実に今は目を向けるべきだ。彼等が食糧の為に車道で活動出来る様になったのは、自分達が車道へ下りて車の往来を妨げた時に車がどの様な反応をするかを知ったからなのだから。
野生では先ず居ない道を譲る強者と、彼等は共生する選択をした。そうなるまでの経緯は飽く迄憶測だが、自分よりも優れた同種に追いやられた末の行動――淘汰によるものと考えられる。追いやった側に弱者の行動を真似て利点があるという事でも無い以上、弱者にしかその知識は広まらないのだ。
後は野生の法則に則って、弱者の下に格付けされた弱者は車道さえも追われていく。
よって車との共生という知恵は一部の烏にしか広まらず、日本の烏の場合、私が言うウイルス(以下|A-Virus《Agitation-Virus》)を定義する「情的能動者と情的受動者の関係」には当たらない。
此処でその定義について説明しよう。A-Virusが病原の1つとして雑学知識を挙げたが、何も知識の全てがそうと言っている訳では無い。
病原となる知識とそれ以外とを区別するに当たって先述の関係性が重要となるのだが、恐らく誰も耳にした事が無いだろう。それもその筈、「情的能動者と情的受動者の関係」とは私が自分の推論を少しでも詳細に説明したいが為にこの場で作り出した言葉だから。
仮に他の言葉で定義されていたとしても、私はこの言い方で語らせて貰うとしよう。夢にて啓示があったのだ。無知ではあっても愚か者で無いと証明する機会をこの手で捨てる事はしない。
情的能動者とは論理よりも喜びや怒り、鳥肌が立つ様な高揚感といったその時々の気持ちに従い、自ら活動する人を指す。
行動原理に他からの働き掛けを必要とせず、心に感じたそれが有りの儘に言動へ表れる。他人と違う事をしたいとなった経験は珍しいもので無いと思うが、こういった自主性を培う事が軈て他者を惹きつける能動性になると私は考えた。
敢えて対の存在を作るとすれば、知的能動者になるだろうか。情的であれば波状的且つ強力に、知的であれば論理性を以て普遍的に他者へ影響を与える。
反対に情的受動者は事に触れて感情が先行し、発言や行動はその上から主観で構成される。前述の特徴を持った人に限らず能動者の影響を受けて同調や反発、意見のトレースなど、流される傾向にある人を指した言葉である。
私の知人に我欲的で心配性な人が居る。その人は私がいつもと違う行動をするとその原因を自分に求めてしまう癖がある。
態々理由を説明するに値しない、ペットボトルのキャップを置く際に内側を上にしていた所その日だけ下にしたという程度の違いでも、その人にとっては心のざわつきが治らなくなる位の一大事。
内側を上にして置いてくれないと落ち着かない――そう言ってくれたら私の中でその人が自己中心的な人との印象になって、それで済むのに。
内側は口を付ける所に接触する。テーブルを拭いているのは自分なのだから、衛生面を保ってくれないと何かあった時、自分のせいの様な気がしてならない――自分の不安を尤もらしい理由付けで他人の為として解消するのは、自分の弱さを認める事が出来ない卑怯者の遣り方である。
私の定義に当て嵌めた時、その人は後者だ。不安に突き動かされるがまま有りもしない原因を身の回りで探り、果ては堪え兼ねて頭の中で物語を捏造していく――そんな極端に主観的な人。
双方の特徴を説明したが、平たく言えば情的能動者は直感型の人間が多く、知的能動者(及び受動者)と相対した時に言葉に詰まったり、場を精神論で乗り切ろうとする。情的受動者は何方の影響だろうと甘んじて受ける事だろう。
雑学知識をウイルスとそれ以外とに区別するのに、この「情的能動者と情的受動者の関係」は切っても切れない関係だ。何故なら知識がウイルスへ変質するのは、他者に触れ引き起こされた感情により、記憶が活性化した時なのだから。
暫く使われていない記憶が匂いや音などの外的刺激で不意に蘇る事がある。懐かしさの余りその記憶を共有している人物との話題に挙げて、そこでお互いに懐古した経験は無いだろうか。
私の場合は1つ語らう度にまるで茹で卵の殻が細かく砕けずに剥けたかの様な、テストの採点とはまた違った快感と共に。
記憶の想起と同一記憶による共感――此れ等は一見すると記憶を思い出している点で共通している。
記憶の想起はどんなに忘れっぽい人であっても、1日の間、1時間の間、何なら1分1秒前の事を対象としても起こり得るものだ。あなたも私の話を聞きながら、世間一般の知識と照らし合わせて私の話に整合性を探っている事だろう。
一方の同一記憶(2人以上の相手と体験を共有した記憶)による共感は、思い出した手段が他者とのコミュニケーションに限定される。
此れ等の違いは思い出すまでの情動の変化にあり、それこそがウイルスへの変質とゾンビ化を予防する鍵になると私は考えている。
ウイルスとなった知識には大別して2つが存在する――それは「ポジティブ」と「ネガティブ」だ。
嫌な経験を他人に相談した、又は他人から相談されたとして、あなたがその対話中気分が上向き、笑顔になったのは一体どのタイミングか。
嫌な出来事を笑うには何かしらに責任を押し付けるなどして、攻撃するのが最も単純な方法だと私は思う。中でも自虐は促されるで無く自分からやっているなら誰も傷付かない素晴らしい手段だ。
聞いている側も自虐であれば比較的明るい気持ちで相談に乗れるが、この手段には他人に話す事で更に不幸な立場の他人が嫌な思いをするという欠点もある。
一度嫌な気分になった人を犠牲無しに笑顔へと導くのは容易では無い。話そうが話すまいが不愉快は既に人を蝕んでいて、後はそれに対する向き合い方にその人の人間性が表れるといった所だ。
何れにせよ、そういった情動が私に言わせれば「ネガティブ」(以下マイナス)というウイルスの症状であり、罹った時点でその人は知らず知らずの内にウイルスを振り撒いていた、という事になり兼ねないのである。
そしてすれ違い様に他人へと移してしまい兼ねないそれは「ポジティブ」(以下プラス)も同様である。
幸せな体験をしたあなたがそれを友人に話したからといって、必ずしも友人まで幸せになるとは限らない。ゾンビになどならなくても、人は醜い生き物だ。醜さを取り繕う為に仮面や服を着て、それを如何に歪な形状から人型へ近付けられるかに躍起となっている。
その分厚い殻の内側、膨張した肉と変形した骨とを掻き分けた芯となる部分で、感染と伝播は起こるのだ。
それを表に出したくないとする者程、醜く着膨れる。
此処で1つ、言い忘れていた事があったので補足させて貰おう――先程『嫌な出来事を笑うには何かしらに責任を押し付ける』のが手っ取り早いと話したが、此処での笑うとはウイルスとしてのマイナスがプラスへと変質するという意味だ。
相談した側とされた側、両者に共通の敵を作るなどすれば両者共に笑顔になれる。これは言い方を変えれば両者のウイルスがプラスへと変質したとも言えるだろう。
基本的にマイナスには伝播の要素はあっても、私の考えるゾンビへと人を変貌させる力は無い。其処には明白な違いが――誰もが感じた事のあるであろう違いがある。
それは事に触れて胸の奥が緩むか締まるか。辛い思いをした時に胸が締め付けられるあの感覚は、伝播と共鳴への拒絶反応だと私は見ている。
その拒絶反応とは別の、胸の奥が熱くなり浮ついて何でも出来ると錯覚してしまいそうになる気分を指して、緩むと表現した。
何故プラスだけがゾンビ化へ至るのかと問われれば、気分が緩んだ際に表れ易い人の本性である、同族意識と淘汰圧が感情的に増幅されるからと私は言う。
プラスマイナス共に他人へ伝播する可能性を持ち、何方も感情を餌にして爆発的に増殖する。唯マイナスの状態だと伝播するだけして、共鳴し合う事が無い。
感受性豊かな人程「そんな事は無い」と言いたくなるだろう。共感と私の言う共鳴は似て非なるものだ。マイナスの者が能動的立場になる時は攻撃性を暴走させた擬似的な変質を起こした時か、或いは屋上から飛び降りた先で不運な者を巻き添えた時くらいのものである。
その点、プラスは能動性にこそ本質がある。一度活性化すれば常に相手へと牙を剥き爪を突き立てて、力を示さんとする血気盛んな野性が疼く。
私は「わらう」という動作に野の漢字を当てる事がある。人間しか笑わないというのが定説ではあるが、「野う」と書けば他の動物の表情にも目が向くのではないか。
ハハハと声を上げて笑い、それによって感情を表現してコミュニケーションをとる、又はリラックス効果を得るなどしているのは確かに人間だけかも知れない。
動物の野うとは人の表現で言えばニヤけるに近いもので、悪魔が歯茎まで見える位に口角を吊り上げた笑みを思い浮かべたら分かり易いだろう。
それは人間にも見られる野い方である。悪魔の様だなどと、表現はやや過激だったかも知れないが、淘汰では説明が付けられない攻撃性を同族に対して発揮するのは人間だけであり、私に言わせれば野蛮以外の何物でもない。
野うとは言わばプラスの症状なのだ。人ならば誰しもそれをした事がある。但し、私は赤ん坊の其れを野いと思った事は無い。
プラスとマイナスの関係を要約すると何方であれ相手に受動的立場を強制する事は出来る。特にプラスは強力に作用し、マイナスは基本的に受動的だという事。
プラスの状態でしかゾンビ化に至らない理由はマイナスの性質に受動性と拒絶反応があり、それはプラスを以てしても変質させるに難いから。
変質の可能性があるのはプラスとマイナスが接した場合、或いはマイナスのみでの擬似的な変質のみ。
そして此れ等ウイルスが感情に反応して発現し、人は皆感染していると話した。因みに説明の導入で私はそれを知識としたが、詰まるところ知識はウイルスが伝播する最もポピュラーな方法であり、同時にその発現を抑制する働きもある。そうした空気感染の様に目には見えない物を媒介して潜伏するのがA-Virusなのだ。
此処でA-Virusに対し私が効果的だと考える対策を幾つか紹介しよう。私が思うに人として生きている限り感染は避けられず、このウイルスに完治という概念は存在しない。「共鳴の制御」と「ウイルスへの理解」こそ、発現への数少ない予防策と成り得るだろう。
私の話を聞いて私が言わんとする事への理解は深まってきたのではないかと思う。
いつか、この話をあなたが誰かと話す時が来るとして、その時見解の方向性が合致した為に話し相手と通じ合えた気分になって嬉しくなり、そのままA-Virusが発現するといった事の無い様に。
感情豊かなのは決して悪い事許りでは無い。寧ろ其れが希薄すればするほどに人間性が乏しくなると私は思っている。
知性と野性の両方を尊重し均等に鍛えるのは容易ではない。野性に偏ればゾンビ化の恐怖が待ち受けている。知性を育てればそんな心配は消え去り、私の話も欠伸をしながら聞ける様になる筈だ。
今すぐにでも出来る簡単な方法を知りたければ私の話を最初から読み返してくると良い。その必要は無いと言うあなたには、いよいよゾンビの概念を教えよう。
結論から言うと私の推論でのゾンビとは「知性が衰退し無意識に淘汰を繰り返す様になった人間」であり、パンデミックの世界とは「人間が野生化した世界」を指す。
もし私の見た夢が人類の野生化を予期したものだったとしたら――私が単に妄想癖のある心配性で、突飛な未来を空想してはそれを流布し安堵しようとしているだけならば、あなたから卑怯者のレッテルを貼られて終わりなのだが。
幸い2025年現在では人間が野生化する兆しは無い。しかしその本能たる性質が1つの淘汰は知性の陰に隠れ、私達の身の回りで繰り返されている。
燻り続けているのだ、ウイルスは――私達が人間性を手放す瞬間を虎視眈々と狙って。
最も狙われ易い瞬間を挙げるなら「プラス同士で高揚感に任せ結論を急いた会話をしている瞬間」である。相手の意見を頭ごなしに否定し合い、又は交互に同調を繰り返した末の結論とは、淘汰の勝者だけが真っ先に行き着く物。
敗者は意見を否定されたストレスや、間髪を容れないレスポンスをし合って同列を約束していた筈の間柄から抜け出た者が現れた事への不満を、日々押し殺して生きている。
見ての通り私は捻くれ者だ。その捻くれ具合は筋金入りで、例えるなら、自分の足であちこちと歩き回っておきながら、気分次第ではベビーカーに乗り込んであやされようとする1歳児。
だから私は、少なくともこの日本で既に「生きながらにして死んでいる」人間が紛れていると警告する――新たなパンデミックはCOVID-19が確認された時よりも遥かに身近で、それが蔓延した時よりも私達に猶予をくれない可能性があるのだと提唱する為に。
もしも人に未来を変えられる方法があるとしたら、私にはこれしか思い付かない。
知らない事はSNSから他人の知識を得てそれを「自分で調べた」と言う。新たな言葉を易々と作り出して会話に使用する。深層心理に敵か味方かから来る快不快が根付き、言動にそれを表す事が珍しくない。会話中の無言は不安になる――私達(取り分け日本人)は自覚しなくてはならない事が沢山ある。
特に攻撃性とブランド至上主義、そして未来に対する暗いイメージの涵養は看過出来ない所まで来ていると私は考えている。
それはとても残念な事だが、現に私の様な社会不適合者の捻くれ者がする話もその1つに当たっていると見えるのではないだろうか。
良く言えば議論の為、悪く言えば暗い話題を吹聴していると取られもする、此処までの私の話。未来について唯不安がり、その不安を私への攻撃材料とするだけならいっそ、怯えたままで居るのが賢明だ。議論とは常に未来を見据えた前向きな物の筈である。
そう都合の良い捉え方をして初めて、私の推論は完成するのだから。
如何だっただろうか。そもそもSFやゾンビ自体に興味が無い人も居る中で、こんな話をしても妄想と跳ね除けられて当然だ。
これで刺激の薄そうな人生を送る私を憐れむ視線が増えたかと思うと、いっそ自分の事が愛おしくなってくる。
歳を取るにつれて増えて行く物事は沢山ある。身の回りに限って見ても、疎遠となった友人の連絡先や使う薬の数、誰かの為に何かをしようとする時間等々、歳を取るというのは孤独なものである。
逆に減って行く事と言えば、学年で合唱した時の高揚感、友人と並んで歩いたあの無敵感、林の獣道――老人ホームで歌った所で、小学校時代を思い出す前に隣りの老人が漏らす死神の様な吐息が肌を凍てつかせるだけだ。
そんな日々を想像してケラケラと笑いながら、白髪が目立ち始めたパートナーと見慣れた景色を散歩したとして、あの頃の様に私達の心を躍らせてくれる事柄は一体幾つ見つかるのだろうか。
歳を重ねる、知識が増えるとは受動的になるという事だ。何事にも知識と経験に基づいた思考を巡らせて、それ無くしては行動に移せなくなる。
それは人としての成熟。あなたの中に読み飛ばしたい苛立ちを覚えた人が居た位には当たり前の事柄。
その苛立ちなどの感情も私の話に触れなければ引き起こされる事は無かった。此処まで難無く読み進めて来た人は勿論、苛立ちを覚えた人も漏れなく受動的な人間と言える。
そしてあなた達は皆、私の小説という能動的な媒体の影響下にあったという事。読了に掛かる時間は人それぞれ。私の話に感動したなら、記憶したなら、以降あなた達の思考に私の推論というウイルスは居座り、それはまるで鳥の群れが鳴き声を調音してお互いに情動の交信を行うかの様に、微細なきっかけで目覚める。
その時あなたは試される事になるだろう。私の推論が知識で収まるのか、或いは感情を食って発現したウイルスによりゾンビと化すか。
私は高みの見物といきたいので、今暫く空想を続ける事にしよう。