1話「石工の心に刻まれた約束」
ガリラヤの石造りの家々が、朝もやに包まれていく。ベツレヘムの石工ヨセフは、ナザレでの仕事を終えようとしていた。石切り場から運ばれてきた石材に向かい合い、彼は深いため息をつく。
「なぜ、神よ…なぜ私なのですか」
木槌を持つ手が震える。婚約者マリアの懐妊―。その知らせを聞いてから、もう幾日も、彼の心は暗闇の中を彷徨っていた。
石材の表面を撫でる手が止まる。幼い頃、父に教わった最初の仕事を思い出していた。「ヨセフよ、石を削る前に、まずその石の声を聴くのだ」。確かな手つきで石を撫でながら、父は語り続けた。
「この石にも物語があるのだ。ソロモン王の神殿も、一つ一つの石の声を聴くことから始まった。そして、お前の血にも物語がある」
会堂での安息日の記憶が蘇る。トーラーの巻物が開かれ、朗読が始まる。アブラハムへの約束―「あなたの子孫を、天の星のように、海辺の砂のように増やそう」。九十九歳での約束の子。不可能を可能とされる神の御業。
「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」。長老の声が、今も耳に響く。信仰は、目に見える確かさを超えて、神の約束に信頼を置くこと。その教えが、今、ヨセフの心を揺さぶっていた。
イサクもまた、理解を超える従順を示した。モリヤの山での出来事は、信仰の極みを語るものだった。ヤコブは、ヤボク川で夜通し神と格闘した。「あなたが祝福してくれるまでは離しません」。その懸命な信仰が、イスラエルという新しい名を生んだ。
そしてユダ。ヨセフは彼の物語に、特別な思いを抱いていた。タマルとの出会いを通して、自らの傲りを悟った男。「私よりも彼女の方が正しい」。その謙遜が、メシアの系図を紡ぐ糸となった。
そして、ダビデ。この名を思うとき、ヨセフの心は特別な感慨に満たされる。同じベツレヘムの地で羊を飼っていた少年が、神の選びによって王となった。預言者サムエルでさえ、外見で判断しようとしたという。しかし、神は心を見られる。
「人は外見を見るが、神は心を見る」
その言葉が、今のヨセフの状況と重なって見えた。マリアの懐妊という、外見では理解できない出来事。それを裁くべきか、それとも、その背後にある神の計画を見つめるべきか。
アブラハムからダビデまでの十四代。その歩みは決して平坦ではなかった。タマルは、義を求めて慣習を破った。ラハブは、異邦人でありながら真の神を信じ、神の民を救った。ルツもまた、異邦人の血を引きながら、ダビデの曾祖母となった。そして、ウリヤの妻バト・シェバ。不義の関係から生まれた子が、神の知恵の王となる。
ダビデから捕囚までの十四代。栄光と没落の歴史。ソロモンの輝かしい神殿も崩れ落ち、民は捕らわれの身となった。しかし、その中にあっても、神の約束は生き続けた。
「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」―預言者イザヤの言葉が、心に響く。切り株のように見える時でさえ、神は新しい命を芽生えさせる。
捕囚からこの時代まで、さらに十四代。その最後の一節に、今、自分が立っている。マリアの懐妊は、この長い歴史の新しい一章なのかもしれない。
そしてあの夜―。月光が地面を照らす中、天使が夢に現れた。「ダビデの子ヨセフよ」。その呼びかけは、単なる系図の確認ではなかった。アブラハムが信じた約束、イサクが従った召命、ヤコブが格闘して得た祝福、ユダが悟った正義、ダビデに与えられた約束―それらすべての成就への招きだった。
「恐れるな。マリアを妻として迎えるがよい」天使の声は、預言の成就を告げるかのようだった。「胎内の子は聖霊によって宿ったのだ」
その瞬間、すべてが一つに結びついた。アブラハムの信仰、ダビデの心、女性たちの真実。不可能を可能とされる神の御業が、今、目の前で展開しようとしていた。
夜明けの祈りで、ヨセフは再び「シェマー・イスラエル」を唱える。日々の祈りの言葉が、新しい意味を持って心に響く。アブラハムが聞いた神の声、ダビデが詠んだ讃美、預言者たちが告げた約束―それらすべてが、今、この時に向かって流れ込んでくるようだった。
戸外で朝の光が大地を照らし始めていた。ヨセフは、新しい石材に向かう。父から受け継いだ技と、神からの新しい使命を思いながら、石に向き合う。生まれ故郷ベツレヘム―。その町は、ダビデが羊を追い、神に選ばれた場所。預言者ミカは語っていた。「ベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者」。今、その預言の意味が、新たな光を帯びて見えてきた。
木槌とのみを手に取る時、もはや迷いはなかった。石を削る音が、今朝は祈りのように響く。アブラハムは九十九歳で父となった。サラの胎は、既に死んでいたも同然だった。しかし、神は約束を成就された。マリアの懐妊もまた、人の理解を超えた神の業なのだ。
「神は我々と共におられる」―インマヌエル。その約束は、石のように確かなものとなっていた。アブラハムから始まり、ダビデを経て、この時代まで。世代を超えて語り継がれてきた救いの物語が、今、彼の人生において実現しようとしているのだ。
石工の手の中で、石は少しずつ形を整えていく。削られ、磨かれ、正しい場所に据えられる。人の人生もまた、神の御手の中で、同じように形作られていくのかもしれない。
夕暮れの光の中、ヨセフは仕事を終えた。扉を閉める前に、彼は小声で唱えた。「バルーフ・アタ・アドナイ(主をほめたたえよ)」。アブラハムが見上げた星空の下で、ダビデが羊を追った丘で、預言者たちが待ち望んだ約束が、今、実現しようとしていた。
その物語の中で、一人の石工に与えられた役割。
それは、神の子を養い育てる父となることだった。その使命に、もはや迷いはなかった。彼もまた、この壮大な物語の中の一つの石となるのだから。新しい契約の礎となる方を、彼の手で育てていくのだから。