龍になった娘
昔、ある川沿いの村に一人の娘がおりました。その娘に親はなく、家族と呼べる者もなく、ずっと一人で暮らしていて、村の誰も娘のことを気にかけず、名を呼ぶ者も一人としていませんでした。村の者も娘自身もそれが当たり前のことだったので、寂しさも悲しさも、当然のこととして受け入れておりました。
ですが、村の中でも一人だけ、他の村人にするのと同じように娘のことも気にかけ、名前を呼ぶ者がありました。若くして村長を務める若者です。娘は村人の誰のことも気にかけていませんでしたが、若者のことだけは陰ながら慕っておりました。しかし、村中の者から必要とされ愛される若者と誰からも必要とされていない自分が話すなど…と思い。いつも遠くからその姿を眺めるばかりの日々を送っていました。
そんなある日、娘の家に皆から長老と呼ばれている相談役の老爺と、まじない師が訪れました。誰かが娘の家を訪ねてくるなど滅多にないことでした。
二人は娘に言いました。
「そなたに折り入って話がある。そなたには村を守る龍となってもらいたい。他の者には家族があって、頼める者は他にはいない。」
「もしそなたが村を守る龍となってくれたなら、私たちだけでなく、村中の者が感謝し、そなたを必要とし、毎日毎日そなたの名前を呼ぶだろう。」
「村にとって何より大事な川にもそなたの名前を付けよう。はるか先の未来まで川の名は語り継がれることだろう。どうか龍となり、村長の若者と共にこの村を守ってくれまいか。」
娘に断る理由などあるはずもありません。誰も自分のことを必要としない日々が当たり前なのだと思って日々を過ごしてきましたが、寂しくなかったわけではありません。一人で生き続けることは最早耐え難く、また、若者と共にという言葉が娘の背を押しました。
その日の夜、村はずれにある小高い丘の上で、娘は白い牙のようなものを持たされ、まじない師はいくつかの祝詞を唱えながら娘の周りをぐるぐると歩き回りました。そんな奇妙な状況ながらも娘の心は不思議と穏やかで、いつの間にか眠りに落ちていました。
朝日に照らされるまぶしさに目を覚ますと、娘はもう娘ではありませんでした。
その体は翡翠色に輝く美しいウロコに覆われ、細かった指は鋭いかぎ爪になり、背には銀糸のような鬣が豊かに生え、頭には牡鹿のように立派な角がありました。そして何よりも、翼もないのにその体は自由に空を舞うことができました。
龍は、娘だったころの自分には微塵も未練などありませんでした。新しく手に入れた素晴らしい体は軽く、あっという間に村の中心へ舞い降りることができました。
舞い降りてきた龍を見るなり村人たちは、口々に感謝の言葉をのべ、中には涙を浮かべながら龍の体に手を合わせている者もおりました。そして村長の若者は笑顔を浮かべながら龍の首に腕を回してぎゅっと抱きしめ、
「これから二人でもっと村を豊かにしていこうな。」
と言いました。龍は今までの人生で今が一番幸せだと思いました。
それから龍と若者は、村をより良い環境にするために日々尽力しました。困っている者がいれば手を貸し、火事や山崩れがあれば誰よりも先頭に立って人々を助け、村にあだなす者があれば、その手を血に染めようとも戦いました。龍と若者は村にとっての盾であり、矛でした。二人が守る村には近隣の村も手が出せず、村は目に見えて栄えていき、誰も手だしできず、そのやり方に口出しもできないような状況でした。そんな二人のことを村人たちは感謝と畏敬の念のこもった目で見つめておりました。
そんな生活を送る中で、龍には少し気になっていることがありました。龍は空を飛ぶだけでなく、体の大きさをある程度自由に変えられる力もありました。どこまで大きくできるのか試したことはありませんでしたが、山崩れから村人を逃がすために30人を背に乗せて軽々飛んだこともありました。そして馬ほどの大きさに縮むこともできました。ですが、長く空を飛び続けたり、体の大きさを何度も何度も変えるたび、少しずつ娘の時の記憶がうすぼんやりとしてきているように感じました。それでも針仕事の仕方やお作法など、人間の常識は龍にはもう必要のないものだったので、この話は誰にもしないままでした。多くの村人に必要とされ、何より慕っていた若者と日々ともに過ごせていることが、龍にはたまらなく幸せでした。
しかし、娘が龍となり数年がたったころ、ある大嵐の日、山から賊が降りてきて村を襲い始めました。多くの者が傷つけられ命を奪われ、大切なものを奪われました。賊には近隣の村の者たちも多く混ざっていました。それは龍と若者によって殺された者の家族や、乱暴なやり方で村を発展させていっていることをよく思っていない者たちでした。
若者と龍はもちろん村のために戦い、賊を次々と大嵐で荒れ狂う川に投げ込んでいきましたが、それでも賊の勢いは止まらず、ついに若者も賊と掴み合いになりながらもつれ合って川に落ちてしまいました。視界から若者が消えるや否や、龍は賊を放り出して川へと飛び込み、今までにないほど体を大きく長く変化させました。そして川を埋め尽くすほど大きくなった体で放り込んだ賊たちを押しつぶし、愛しい若者をそっと手で救い上げ、岸に体を寝かせました。
龍は体を縮め若者の顔を覗き込みましたが、若者はピクリとも動かず、口からは濁った水がたらたらと流れていました。龍はこんなときどうすればよいのか思い出そうとしましたが、何をするべきなのかがわからなくなっていました。それでも口の中に何かが詰まっているのはよくないということはわかったので、若者の足首を掴んで上下に強く揺さぶりました。すると若者の口からは水やぬるぬるとした魚がぼとぼととこぼれ落ちました。これでよいだろうとまた若者の体を横たえると、今度は少し若者の体が動き、細く呼吸をしていましたが、それでもまだ死んでしまいそうな様子でした。
娘の時ならこんな時にどういう行動をすればいいのか分かったかもしれませんが、龍にはもう人の理がわからなくなっていました。そして、龍はこう思いました。
『まだ、体の中に何か詰まっているのがいけないのかもしれない。さっきは口から吐き出させたから息をした。また何か吐き出させればもっと元気になるに違いない。』
そして龍はおもむろに、若者の喉の奥へと腕を差し入れました。龍の鋭い爪とウロコは若者の体内を傷つけ、大きすぎる腕は顎を外し、口を裂きました。若者は苦しみ、龍の腕を搔きむしり暴れましたが、龍は何がいけないのかわからず、より荒々しく若者の内側を探りました。そして、手当たり次第に若者の内側にあるものを次々掴んで引きずり出しました。それが正しいと信じて疑わなかったのです。
若者の腹がすっかり薄くなってしまったころ、龍はようやく手を止めました。若者のそばには最初に吐き出させてぬめる魚と共に、若者から無理やり引きずり出された赤い肉の塊がいくつも並べてありました。若者はもうピクリとも動きませんでした。龍は少し考えて、最後に掴みだしたまあるい肉の塊を置いて、最初に吐き出させたぬるぬるした魚を掴んでそっと若者の喉の奥に押し込みました。もうどちらが人間に必要なものなのか、龍にはわかりませんでした。
龍は何となく疲れたと思い、若者の隣でゆるくとぐろを巻きました。そうして、早く起きて、また名前を呼んでくれないかなと考えながら目を閉じました。