鳴かぬ蛍はベランダを舞う
――その光は、ふらふらと彷徨うように。
ガラス戸を開くと、室内を侵食する冷気と共に冬の匂いがした。
着古した黒いダウンコートを首まで締め、俺はベランダへと一歩踏み出す。
「お父さん寒い」という家族の言葉に追い立てられながら、後ろ手で戸を閉めた。
ホタル族――それは集合住宅のベランダで喫煙をする人々のことだ。
最近は禁煙の場所も増え、喫煙者の肩身はどんどん狭くなっている。
我が家の喫煙所も当初は換気扇の下だったが、娘の蛍子から「タバコ臭い」と非難を浴びて以来、ガラス戸に隔てられた奥行き1m幅2mの空間が俺の定位置となった。
冬空に輝く星座たちを見上げながら、吹き付ける風にちろちろと踊る焔を抱え、咥えた煙草の先端にそっと灯す。
生まれた煙を胸の奥深くまで吸い込んでから、細く長く息を吐いた。
白く立ち昇るのは煙草の煙か、外気に冷やされた吐息か――もしかしたら俺の内に巣食うやるせなさかも知れない。
ふと、最後に蛍を見た時のことを思い出す。
あれは10年以上前、幼い蛍子と旅行先で見た蛍の光は幻想的で、そして儚かった。
そんな彼らからしてみれば、俺のような奴と同族扱いされるのは不本意でならないと思う。
ホタル族というこの呼び名は、命を燃やし飛ぶ彼らへの冒涜だろうか。
――いや、俺だってこの焔がなければ生きてはいけない。
生来の口下手が祟り、上司の理不尽な要求と部下の突き上げにただ耐える日々、家族との会話も少なくなる一方だ。
どうか、行き場を喪ったこの弱き者を、これ以上嫌わないではくれないか。
――コンコン
背後から響いた音が俺を現実に引き戻す。
振り返ると、そこには両手にマグカップを持った蛍子が立っていた。
慌てて戸を開けると、蛍子が左手のマグカップを差し出す。
「はい」
「……俺に?」
「作りすぎただけ。外寒いから、風邪ひかないでよね」
そう言うと、ぷいと視線を逸らし早足で廊下の奥へと消えて行く。
渡されたマグカップを覗き込むと、中にはミルク色に染まったコーヒー。
ブラック派の蛍子にしては珍しいと口元まで持ち上げて、ふと気付く。
――まさか、わざわざ俺のために?
瞬間、胸の奥にじわりと焔が灯る。
その焔が消えないように、おそるおそる、一口。
優しい味のコーヒーが冷えた喉を温め、俺の中をゆっくりと巡っていく。
――あぁ、俺にもかけがえのない光がある。
立ち昇る湯気を見ながら、一人幸福の味を噛み締める。
煙草の焔はただ穏やかに燃えていた。
(了)
最後までお読み頂きまして、ありがとうございました。
なろうラジオのキーワード、ベランダを見て最初に思い付いたのがホタル族でした。
私は煙草を吸わないのですが、夜のベランダで煙草を吸う姿って画になるなぁと思いまして……(´ω`*)
実際にはホタル族さん、ご近所トラブルの原因にもなってしまうそうですが、頑張るお父さんたちの憩いの場がどこかにあるといいなと思います。
お忙しい中あとがきまでお読み頂きまして、ありがとうございました。
【追記】
たんばりんさんからイラストを頂きました!
手元に光る小さな灯、それは背景に描かれた他の建物にもちらりちらりと光っています。
人物は勿論ですが、本当に背景が細部までこだわっていらして素晴らしいです……!
たんばりんさんありがとうございました。