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【後編】

 夏休みに入った。


 貴輝と藤花はあの後程なくして付き合い始めていた。


 紫音と将斗は友達以上恋人未満の関係を保っている。


 貴輝と別れてから、紫音は将斗と一緒にいることが多くなった。


 将斗は紫音を気遣うように、貴輝のことを思い出させないように、彼女の傍で彼女を守っていた。

 休日には遊びに連れ出してくれた。


 それは決して強引なものではない。


 紫音は傍らに感じる将斗の温かな空気に心救われていた。


(将斗先輩のこと好きになりたい。彼の想いに応えてあげたい)


 貴輝以外の誰かを好きになれる時が来たとしたら、それは将斗以外考えられないくらい、紫音は将斗を頼りにしていた。


 将斗は女子の妬みからも紫音を守っていた。


 貴輝と別れたことは付き合いだした時よりも早く学校に広がった。


 だが紫音の傍には今度は頭中将と呼ばれる学園第二位の人気を持つ将斗がいたのだ。


 女子は紫音のことを取り入るのが上手い子などと中傷した。


 学園の一、二位を争う男子を独占されたようで、女子には面白くなかったのだ。


 特にテニス部内で紫音は肩身の狭い思いをしていた。


 それを知った将斗はある時女子の部室へ強引に入って言った。


 貴輝が今藤花と付き合っていること。まだ紫音が自分の想いを受け入れてないが、諦める気はないこと。どうして紫音を好きになったのか。


 あの藤花と比べられ続けた紫音の心を分かってやってくれと。自分が好きで紫音の隣にいるのだから、何か言いたいことがあったら紫音ではなく自分に言ってこいと。


 普段の和やかにしている将斗と怒りを抑えた眼差しの将斗のそのギャップに、女子は大人に叱られた子供のようにシュンとなった。


 それからというもの、女子の陰口はずいぶん減った。


 一方貴輝と藤花との関係は何事もなく順調にいっていた。


 休みの日には時々二人でどこか出掛けたり、夜も電話で話しているのを紫音も耳にしていた。


 紫音と藤花の部屋は隣同士。


 夜の静けさが壁一つ隔てた二人の会話を微かに伝えていた。


 紫音は初め、そんな様子に二人の仲が上手くいっているのを知り、貴輝が幸せならそれでいいと思おうとしていた。


 だが最近は二人の様子を見たくも聞きたくもないと思うようになっていた。


 夜の電話での二人の会話が聞こえると、紫音は耳を塞いで聞かないようにしていた。


 藤花への妬みが紫音を悩ませていたのだ。


 ――どうしていつも姉ばかり。


 貴輝の幸せを願っているのに、そう思うたびに紫音は自分の心が汚れていくのを感じていた。


 こんな心捨ててしまいたい。


 紫音は惨めな思いを噛み締めていた。


 そんなある日の夜。


 紫音はベランダに出て夜空を眺めていた。


 星の輝きが自分の醜い心を清めてくれる気がした。


 紫音は人の話し声に下を見下ろす。


 家の前に貴輝と藤花が立っていた。デート帰りに藤花を家まで送ってきたところらしい。


 紫音は二人を見たとたん、その場に凍りついてしまった。


 ベランダの手摺りを握る手に思わず力が入る。


「藤花先輩、じゃあまた今度」


 貴輝がそう言って帰ろうとした時、藤花が動いた。


 まるで貴輝に吸い寄せられるように、藤花が貴輝へ口付けしたのだ。


 貴輝は初め驚いたが、藤花の想いに応えるように彼女の背に手を回した。


 紫音はそれ以上見ていられなかった。


 ベランダの壁に隠れるように、その場に座り込んでしまった。


 紫音の心はまるで鷲掴みされたかのように息が詰まるくらい苦しかった。


(お姉ちゃん、……貴輝先輩)


 紫音は手を胸の前で握り合わせ体中をガクガク震えさせていた。


 二人は付き合っているのだからキスするのは当たり前のこと。


 だがどうして自分の見ている前でそれが起こってしまったのか。


 どうして自分が見なければならなかったのか。


 目に焼き付いて離れないそのシーンに、紫音は自分の心が壊れるのではないかと思った。


 貴輝と別れた時、紫音はまだ貴輝への想いを忘れたくないと思った。


 片想いでもいい。そっと遠くから見るだけなら許される気がしていた。


 貴輝を好きになったこの気持ちだけは思い出として残しておきたいと思った。


 しかし、今紫音ははっきり思ったのだ。


 ――貴輝を忘れたい。


 彼への想いも好きになった自分のことも、すべて何もなかったことにしてしまいたいと。


 今のこの苦しみから解放されるのであれば、何と引き換えにしても構わなかった。


 紫音は部屋に入ると救いを求め携帯電話を手に取った。


 アドレスから一つのナンバーを表示し発信する。


 紫音は祈るような気持ちでコールを三回聞いた。


『もしもし、紫音ちゃん?』


「……将斗先輩」


 将斗の声に紫音は縋るような声で彼の名を呼んだ。


 今にも泣き出しそうな紫音の声に、将斗の声が返ってくる。


『紫音ちゃんどうしたの? 何かあったの?』


 紫音は携帯電話を握り締める。


「将斗先輩、助けて。……私もう耐えられない」


 紫音の様子に、将斗は電話ではらちがあかないと思った。


『今、家?』


「う……ん」


『今からそっち行くから会って話そう。近くに行ったら携帯に連絡するから出てきて。いいね?』


「うん、待ってる。早く……来てね」


『ああ、待ってろよ。すぐ行くから』


 紫音の心細い頼りなさそうな声に将斗は力強く答えた。


 紫音はそれから携帯を握り締め、ただひたすら将斗からの電話を待っていた。


 将斗なら自分を助けてくれる。


 その思いが今の紫音を支えていた。


 やがて紫音の携帯が鳴り出す。


 紫音はすぐさま携帯に出た。


『紫音ちゃん? あと二、三分で着くから出てきて』


「うん、すぐ行く」


 紫音は携帯を持ったまま部屋を出て階段を降りた。


「あら、こんな時間にどこ行くの?」


 玄関へ向かう紫音に母親が聞いてきた。


 時間は夜の九時をすでに回っている。紫音が夜から出掛けるなんて滅多にないからだ。


「うん。ちょっと学校の先輩と会ってくるだけだから……」


 紫音は顔も会わせず俯いて言うと、急いで玄関を出た。


 家の門の前で待つこと一分弱、将斗が走って現れた。


 将斗と紫音の家は通常電車と徒歩で四十分くらい離れている。


 それが三十分切って紫音の家まで来ることができた。徒歩の部分を持てる力一杯使って走ってきたか

らだ。


 それだけ将斗は紫音のことを案じていた。


 そしてそこまでして駆けつけて来てくれた将斗の気持ちを、紫音は嬉しく感じた。


「紫音ちゃんお待たせ。何があったのか話して。俺、君の力になりたいから」


 息を切らしながら己のことより紫音を心配する将斗。


 紫音はすぐにでも打ち明けたかったが、家にいる藤花を気にしてしまう。いや藤花だけではない。近所の誰が聞いているかもしれないこの場所で話すのを躊躇う。


「将斗先輩にだけ話したいの。他の誰にも聞かれたくないの。二人だけになれる所へ連れて行って」


 自分の心の醜さを、将斗にだから曝け出せると思った。


 将斗以外の誰にも知られたくない。


「分かったよ。……駅前のカラオケ屋でいい?」


 将斗は少し考え答えた。


 とりあえず個室だから他の邪魔は入らない。多少の雑音は仕方ないと思った。


 公園なども考えたが、夜の公園は意外と物騒だからやめにしたのだ。


 ともかく、場所のことより紫音のことの方が大事だった。


 将斗は思い詰めたように自分を見る紫音の瞳を見て、その訳を早く知りたかった。


 夜に助けを求めてくるくらい追い詰められることが紫音に起こった。よっぽどのことがあったのだと将斗は思う。


 紫音は将斗の提案にただ頷いた。


 二人は無言で移動した。


 その間、将斗はまるで紫音を包み込むように肩を抱いて労わっていたのだった。


 カラオケ店の個室に入ると、紫音は張り詰めた糸が切れたのか、涙を零しだした。


 将斗は紫音をソファーに座らせると自分も隣に腰を下ろした。


「もう我慢しなくても大丈夫だよ」


 将斗の優しい言葉に、紫音は心に抱えていた苦しみを口に出す。


「将斗先輩、貴輝先輩を忘れさせて。私の心から消し去ってしまって!」


「……何があったの?」


 将斗は紫音の心境の変化を知る。


 告白した時はまだ貴輝のことを忘れたくなさそうにしていた紫音が、今はっきり忘れたいと口にしたのだ。


 忘れたいほどのことが紫音の身に起こったのだと将斗は悟った。


「今日貴輝先輩とお姉ちゃんがキスしてるところを見ちゃったの。そのことが頭から離れないの。……本当は毎日辛かった。二人が一緒のところを見るのも、電話で話しているのが聞こえてくるのも。いつも壁一つ隔てた向こうで二人の存在を感じていたの。……もう嫌、疲れちゃった。貴輝先輩への想いで苦しむのもお姉ちゃんに嫉妬するのも、こんな醜い心を持った自分を惨めに思うのも!」


 将斗は紫音の心を知り、彼女を抱き寄せた。


 自分が考えていた以上に紫音が傷ついているのを感じ、守ってやりたかったのだ。


 紫音は将斗の温もりに、自分の過去と決別する決心をした。


「私、将斗先輩を好きになりたい。貴輝先輩の代わりとかじゃなくて、将斗先輩自身を好きになりたい」


 紫音は将斗の瞳を真っ直ぐ見て言った。


 将斗は紫音の一途な想いに胸を熱くさせる。


 告白した時、紫音は貴輝の面影を追ってしまうからと将斗の想いを拒んだ。


 その紫音が将斗の想いを受け入れたのだ。


 決して貴輝の身代わりにはしない。将斗自身を愛したい。


 将斗は紫音の並々ならぬ決意を感じていた。


「俺と付き合ってくれるんだね?」


「はい」


 紫音は迷いもなく即答した。


「……必ず貴輝のこと忘れさせてあげる」


 紫音の想いに答えるように、将斗は決意を秘めた想いを口にした。


 将斗は紫音の頬に触れじっと彼女を見つめる。


 紫音はそっと瞳を閉じた。


 将斗の唇が優しく紫音の唇を覆った。


 まだ誰も、貴輝ですら触れたことのなかった紫音の唇。


 愛する人とのキスを夢見ていた紫音にとって、それは悲しい現実であった。


(……もう戻れない。もう………戻らない)


 紫音は決別の思いに一筋の涙を零した。



        *    *    *



 秋、長雨の時期を過ぎた頃。


 紫音は将斗を頼りに毎日を送っていた。


 貴輝を忘れる決心をした時、紫音はテニス部を辞めようと思っていた。貴輝との接点をなくそうとしたのだ。


 だが将斗がそれを止めた。テニスが嫌になって辞めるなら仕方ないけど、そうでないなら続けていればきっと自分のためになるからと


 だから紫音は今でもテニス部に在籍している。


 ただ貴輝の方をなるべく見ないようにしていた。将斗もそれを分かっているから、休憩中は紫音の傍に来て貴輝が紫音の視界に入らないように努めている。


 紫音と将斗が二人一緒にいる光景は、もはやテニス部では見慣れたものとなっていた。


 そんな光景を浮かない想いを胸に秘めながら眺めている生徒が一人いた。


 ――貴輝だ。


 将斗一人を頼りにする紫音の姿を見ているうちに、貴輝は自分の想いが分からなくなっていた。


 将斗から紫音と正式に付き合うことになったと告げられた時、紫音を傷つけた自分には何も言う権利はないと思ったし、将斗なら紫音を大切にすることも分かっていたから、反対する理由は何もなかった。


 自分と付き合っていた時の紫音はどこか遠慮がちにしていたが、将斗といる紫音は無防備に将斗を慕っている。


 紫音には自分より将斗の方が相応しかったのだ。


 貴輝はそう思うと同時に胸が締めつけられた。


 なぜ今さらこんな気持ちになるのか、貴輝には分からなかった。


 紫音が言ったように、彼女に藤花の面影を見ていたのは否定できないこと。ただその面影を好きになったのか紫音自身に惹かれたのか、貴輝には区別できなかった。


 そして今自分は藤花本人と付き合っている。しかし貴輝は今度は藤花の中にある紫音の面影を捜している自分がいることに気づいていた。


 ――自分が本当に愛しているのは誰なのか。


 貴輝は自分の心が見えてこないことで苦々しい思いを抱えていた。


 そんなある日。


 貴輝は藤花から映画に誘われ出掛けた。


 切符を買ってロビーに入る。ちょうど前の回が終わり続々と人が出てきていた。


 貴輝はある一点を見た瞬間、目を丸くする。


 出てくる人の中に将斗と紫音の二人の姿を見つけたのだ。


 二人も貴輝と藤花を見つけ一瞬立ち止まったが、将斗が紫音の肩を抱いて何事もなかったかのように館内から出て行った。


「今の紫音と将斗くんだったよね? 気づかなかったのかな?」


 藤花は不思議そうに言った。


「どうかな……」


 貴輝は誤魔化す。


(いや気づいていた。だから将斗は俺から紫音を隠したんだ)


 将斗が自分から紫音を離そうとしているのは分かっていた。


 いつもそう。


 紫音の隣にいていいのは将斗だけ。


 だがこの瞬間、貴輝にははっきり分かったことがあった。


 それは将斗に嫉妬している自分の心だ。


 藤花が隣にいるというのに、貴輝の心は紫音に向いていた。


 今自分の心が誰にあるのか、貴輝は悟ったのだ。


 藤花の面影ではなく、紫音自身を想っていると。


 どうしてもっと早く気づけなかったのか。


 もう遅いのだろうか。


 二人の去って行った方を見つめる貴輝を見上げ、隣にいる藤花が決心したように口を開く。


「貴輝くん、今日誘ったのは本当は大事な話があるからなの」


 貴輝は藤花の言おうとしていることが分からず、ただ彼女を見つめるのだった。



        *    *    *


             

「お父さんお母さん、ちょっと話があるの」


 夕食を食べ終えくつろいでいるところで、藤花が改まったように言った。


「……話?」


 父親がテレビを見ていた視線を藤花へと移した。


 母親も食後のフルーツを食べている手を止める。


「なーに? 改まっちゃって」


「うん、大事な話なの」


 紫音も自分の部屋に行こうとしていたのを止めて、その場に留まった。


(大事な話って何?)


 これから家族会議でも始まるような雰囲気が漂っている。


 藤花のもたらしたこの空気に、紫音は無言でこれから起こることを見届けようとしていた。


「あのね、私来年から大学を一年休学してイギリスに留学しようと思ってるの」


 藤花の意外な一言に、両親も紫音もすぐに言葉が出なかった。


「費用はバイトして少しはあるけど、お父さんたちに負担かけてしまうことだから私の一存では決められないの。もしかしたら一年以上になるかもしれない。でも私、将来通訳関係の仕事に就きたいから、だから許して欲しいの」


 藤花は両親に頭を下げた。


 両親は顔を見合わせる。


 何の手も掛からない、何でも自分で率先してやってきた藤花が頭を下げてまで自分達に頼んできている。


「……費用の足りない分は出来る限り私達で出すから、自分の思う通りにやってみなさい。ただし途中で投げ出して帰って来ることのないように。あと週に一度は電話でもメールでもいいから連絡すること」


「じゃあ……いいの?」


「頑張りなさい」


 藤花の顔が喜びにほころぶ。


 両親もこの選択が間違っていないことに自信を持っていた。


 子供が遠くの外国へ行くのが心配でないはずはない。しかし子供はいつかは巣立っていくもの。それを止めることは子供の自由を奪うことになってしまう。


 両親は快く見送ってやろうと思った。


「ありがとう、お父さんお母さん!」


 それから両親と藤花は留学の話で一通りの盛り上がりを見せた。


 ただ一人紫音だけが話についていけてなかった。


(お姉ちゃんがイギリスに留学。それも最低一年も……)


 いつも一緒にいた姉がこの家からいなくなる。その淋しさの実感はまだない。


 紫音の心を沈ませたのは貴輝のことだ。


 一年間も離れ離れになるなんて、貴輝は今どんな思いをしているのだろうか。藤花を一年間待っていられるのだろうか。


(お姉ちゃん、どうして貴輝先輩と離れてまで留学しようと思ったの!?)


 将来の夢を叶えるため。それは分かっている。


 だがどうしてこの時期に行くのを決めたのか。


 藤花が自分の部屋へ戻ろうと席を立った後を紫音は追う。


「お姉ちゃん!」


「何、紫音?」


 藤花がまだ嬉しそうな表情を浮かべたまま紫音に振り返った。


 紫音は貴輝のことを思うとやり切れない思いがした。


「貴輝先輩には留学のこと話したの? 先輩、待っててくれるって言ったんだよね?」


 紫音の思い詰めたような瞳に、藤花は真顔になる。


 藤花はこの時はっきり確信した。紫音の心に誰が住んでいるのかを。


 そうではないかと思ってはいたが、今の今まで確信できずにいたのだ。


「貴輝くんとは……別れたの」


 藤花の一言に紫音は藤花を凝視した。


「……先輩に待てないって言われたの?」


 言いながらもそんなはずはないと否定する。


 あの貴輝がそんなこと言うはずはないと。


「私も貴輝くんももう半年前とは違う方向を向いてしまってた。だから終わりにしたの。……紫音、もう私に遠慮しなくてもいいんだからね」


 藤花は納得のいっていない紫音に苦笑し、自分の部屋へ入って行った。


 残された紫音は茫然とたたずんでいた。


 あの貴輝が藤花以外に目を向けるなんて考えられなかった。


 藤花にもそれは同じこと。


 紫音は姉の言葉を思い出し、ハッとする。


(お姉ちゃん、私の気持ちに気づいてた? だから私に遠慮して別れたんじゃ……)


 忘れたくてもいまだ忘れられずにいる貴輝への想いを見抜かれた。だから身を引いたのではと思った。


(あの二人を別れさせちゃダメッ)


 紫音はどうすればいいのか、考えあぐねるのだった。



         *    *    *



 次の日の部活終了後。


 紫音は将斗に先に帰ってもらい、一人居残り練習をしていた貴輝があがるのを、コートの横にある体育館の前で待っていた。


 やがて練習を終えた貴輝が、部室へ行くため体育館の前を通った。


 紫音は貴輝の前に歩み出る。


 貴輝は紫音がそこにいることに驚いた。


「貴輝先輩、お姉ちゃんとどうして別れたの? お姉ちゃんが留学するからなの? ねぇどうして!?」


 紫音の思い詰めた顔に、貴輝は一瞬躊躇した。


 一度は紫音を傷つけ別れた自分が、彼女に自分の本音を言う資格があるのだろうかと思ったからだ。


 だが変な言い訳をしても紫音は納得しないと思った。そして自分の心を何の偽りもない今こそ伝えたいと痛切に思った。


「藤花先輩も俺も、今は別の物に目を向けているのが分かったから別れたんだ。藤花先輩は将来の夢を、俺は藤花先輩でない女の子のことが今一番大切だって」


「……お姉ちゃんでない女の子?」


 貴輝に藤花以外で想いを寄せる者のいることが信じられなかった。


 熱い瞳で藤花を見ていた貴輝を思い出すと、藤花以外は有り得ないと思った。


 疑問を投げかけるように見つめてくる紫音を、貴輝は真剣な眼差しで見つめ返す。


「君だよ、紫音」


「……う………そ」


「嘘じゃない。やっと本当の気持ちがはっきり分かったんだ。君が好きだと。藤花先輩の面影でもなく君が好きだと。藤花先輩に再会した時、以前の気持ちを思い出して揺れた。だから君が藤花先輩と重ねて見てると言った時否定できなかった。でも藤花先輩と付き合って初めて分かったんだ。彼女に対する思いは以前とは違う、憧れだってことに。藤花先輩も俺と同じ思いだったんだと思う。もうお互い、あの頃の気持ちを通過してしまってたんだよ」


 紫音は必死で頭を振って否定する。


「違う! お姉ちゃんは私の気持ちを知ってるから貴輝先輩と別れようとしてるんだと思う。貴輝先輩もお姉ちゃんと離れ離れになるのが怖いから別れようとしてるんでしょ? ねぇお姉ちゃんを止めて。止められるの、貴輝先輩だけなの!」


 自分のせいかもしれない。二人が別れてしまったのは。


 紫音の言葉に貴輝は目を見開く。


「……紫音の気持ちって」


 紫音は我に返ったように口に手を当てた。


 自分の気持ちがまだ貴輝にある。そう言ってしまったも同然だった。


「君は俺のことどう思ってるんだ!? 聞かせてくれ!」


 貴輝はラケットを下に落とし、紫音の両の二の腕を掴んだ。


 貴輝に強い瞳で見つめられ、紫音は溢れ出そうになる想いをグッと堪える。


(言えるわけない、本当の気持ちなんか。……将斗先輩だけは絶対裏切りたくない)


 一番辛い時、いつも傍にいてくれた将斗の想いを、紫音は何があっても裏切りたくはなかった。


 紫音は俯いた。


「……私、将斗先輩が大事なの。貴輝先輩はお姉ちゃんを大事にしてあげて」


「将斗が……好きか?」


 貴輝のトーンの落ちた低い声に、紫音の胸に切なさが込み上げた。


 貴輝をまだこんなにも好きなことを改めて思い知る。


 貴輝の想いに応えたかった。しかしそれと同時にもう二度と姉の身代わりとして見られたくないと思った。そして何よりも将斗の想いに報いたかった。


 紫音はただ黙って頷いた。


「そう……か」


 貴輝は自分を納得させるように呟き、紫音の腕からそっと手を離した。


 紫音はもう一度「お姉ちゃんのことよろしくお願いします」とだけ言い残し、その場を後にした。


 貴輝は何も言わず、紫音の後ろ姿を見送ったのだった。


 紫音はそのまま駅へ向かった。


 ホームで地元へ行く電車を待つこと数分、電車がホームに入ってきた。


 だが紫音はその電車には乗れず、電車は紫音を残し発車してしまった。


 紫音はどうしても家に帰る気にはなれなかった。


(お姉ちゃんにどんな顔して会ったらいいの?)


 二人を戻そうとした結果、貴輝に自分の想いが悟られてしまったかもしれない。しかも貴輝は藤花ではなく、自分が好きだと告げてきた。


 その言葉を瞬間でも嬉しいと感じた自分が許せなかった。


 藤花が自分のことを思って身を引いたかもしれないのに、嬉しいと思った心を消し去ってしまいたかった。


 しかしそれでもなお貴輝のことが好きで、忘れたくても忘れられない想いが切なくて、紫音は貴輝の残り香を探すように、それにすがるように、反対側のホームへと歩き出す。


 それはたった一度デートで訪れた遊園地の方角だった。


 遊園地へ着いた頃にはすでに辺りは薄暗くなり始めていた。


 もうほとんど営業時間が終わりかけている。


 紫音は入場券を買うとフラフラと遊園地へ入っていった。

 

 紫音はあの日の自分達を捜すように辺りを見渡していた。


 やがて営業時間が終わり遊園地内は人気がなくなった。だが紫音は帰ろうとしない。


 足はメリーゴーランドの方へ向かっていた。


(あの一番幸せだった瞬間に戻れたら……)


 紫音はあの頃の想いを取り戻したかった。


 ほんの少しの間でいい。幸せな思いに浸りたかった。


 紫音はメリーゴーランドの周りを半周ほどして、中央付近にある馬車の中に腰を下ろした。


 辺りは静寂の闇に包まれていた。


 月明かりだけがぼんやりと地上を照らしている。


 夜の暗闇が紫音の心の悲しみをさらに増長させた。


(もうどんなに願っても、あの頃には戻れないんだ)


 あの日のことを思い出すことで、紫音は過去がもう二度とやってこないことを痛感し涙した。


 そして思い知らさせる。


 自分の心が貴輝の何一つ忘れていないことを。


 止めようもないほど溢れ出る熱い想いが胸を焦がしていることを。


 貴輝の胸にもう一度飛び込んでいけていたら、また二人でここへ来れたのかもしれない。


 しかし紫音は藤花も将斗も傷つけたくはなかった。


 藤花が身を引いたのに、自分だけが貴輝の想いを受け入れることはできなかった。


 将斗のことにしても、貴輝を忘れたくて彼の何もかもを捨てる覚悟で将斗にすがったのに、ここで貴輝の元へ戻ったら将斗を利用してしまっただけになってしまう。


 自分のコンプレックスを理解し、悲しい時には必ず傍で温かく守ってくれていた将斗。


 紫音にはもう彼の想いに応えることしかできなかった。


(でも今だけ。この一時だけは貴輝先輩を想うことを許して欲しい)


 ――それで今度こそすべて忘れるから。


 紫音は貴輝への想いを放出するように、ただひたすら彼のことを想い泣き続けたのだった。



         *    *    *



 自宅で予習していた貴輝の携帯が鳴り響いた。


「はい、藤花先輩?」


『貴輝くん、将斗くんの携帯知らない?』


 切羽詰まった藤花の声。


「知ってるけど、どうかしたのか?」


 貴輝は一抹の不安を覚えた。


『紫音、将斗くんと付き合ってるでしょ? 将斗くんの自宅に電話しても留守電だったのよ。……実は紫音がまだ学校から帰って来てないの。いつも夕食までに戻らない時は必ず連絡くれる子だから、何の連絡もなしにって変だと思って……。携帯の電源も入ってないみたいなの。何かに巻き込まれたりしてなければいいのだけれど……。貴輝くんは何も聞いてない?』


 貴輝は藤花の話を聞いて、携帯を握り締めた。


(紫音が家に……帰って…ない)


 時間は夜の七時半を回っていた。

 自分のせいかもしれないと思った。気持ちを打ち明けたことが、彼女を追い詰めてしまったのかもしれないと。


「俺から将斗に電話するよ。折り返しすぐ電話するから待ってて」


 貴輝はすぐさま将斗の携帯へ発信する。


「将斗か? 今紫音と一緒か!?」


『いや。今日は学校で別れたっきりだけど。……何かあったのか?』


 慌てた様子の貴輝の声に将斗は嫌な予感がした。


「紫音がまだ帰ってないらしい。連絡もないからって藤花先輩が心配してお前の連絡先聞いてきたんだ。俺これから心当たり捜すから、お前も見つけたら紫音の家に連絡いれて欲しい」


『分かった!』


 貴輝はすぐ藤花に電話し、将斗と捜すから待っていて欲しい旨を伝える。


 そして携帯と財布だけを持って家を飛び出した。


 向かった先は学校。


 あの後紫音の身に何があったのか。家に帰ってないのは自分の意思なのか、何かに巻き込まれたからなのか。


 貴輝は学校の最寄の駅で駅員に尋ねる。


「今日の夕方遅く、この子を見ませんでしたか?」


 貴輝は付き合っていた頃携帯のカメラで撮った写真を見せた。


「……あーこの子は気分悪そうに俯いてたから声掛けようとしたんだけど、待ってた電車に乗らずに反対のホームへ行っちゃったんだよね」


 貴輝はホームを振り返った。


(反対方面って……まさか!)


 もし反対方面の電車に乗ったのだとしたら、行き先は一つしか考えられなかった。


 貴輝は来た電車に駆け込んだ。



         *    *    *



「………紫音」


 貴輝の直感した通り、紫音はメリーゴーランドの中にいた。


 馬車の中で泣き疲れ眠ってしまっていたのだ。


 貴輝は紫音の傍から少し離れ、藤花に連絡を取った。


 紫音は見つけた。一緒に帰るから心配はいらないと。


 そして将斗の携帯にも電話する。


「将斗か? 紫音、見つかったよ。俺が家まで送ってくから……」


 将斗の安堵の溜息が聞こえてきた。


『よかった。……紫音ちゃん、どこにいたんだ?』


「………遊園地だ」


『遊園地? 何で?』


 将斗には思いもよらない場所だった。そしてどうして貴輝には紫音がそこにいると分かったのか知りたかった。


「俺と紫音がたった一度のデートで来た所なんだ」


『……そ…う……なん…だ』


 将斗には貴輝の言葉がショックだった。


 今もなお紫音の心の中にいるのは貴輝なのだと痛感したのだ。


「多分俺のせいでこんなことになったんだ。詳しくは明日にでも話すから」


『……ああ』


 将斗は自分が学校から帰った後、あの二人に何かあったんだと思いそれを知りたいと思ったが、話すと長くなりそうだから我慢した。


 貴輝は電話を切ると再び紫音に近づいた。そして紫音の隣に腰掛け起こそうか迷う。


 その時紫音が苦悩の表情を浮かべたかと思うと、その瞳から涙が一筋零れ落ちたのだった。


 泣きながら眠っている紫音を目の当たりにした貴輝の胸に痛みが駆け抜けた。


「……紫音、………紫音!」


 貴輝は夢の中でなお苦しみに耐えようとしている紫音を、その夢から救い出そうと名前を呼んだ。


 貴輝の声に紫音はぼんやりとした瞳を開ける。


 目の前にある顔が夢の中なのか現実なのか、すぐには判断できなかった。


 だが自分が今どんな状況にいるのかを悟った瞬間、紫音は貴輝から逃げ出そうとした。


「紫音っ!」


 貴輝が紫音の行く手を腕を伸ばし遮る。


「行かせない。ちゃんと家に帰ろう」


 紫音は夢中で頭を横に振った。


「皆心配してる。……帰るんだ」


「帰れない。……お姉ちゃんにどんな顔して会ったらいいのか分からない」


「まだ俺と藤花先輩のこと気にしてるのか? だったら何度でも言うよ。俺と藤花先輩はもうお互いに恋愛感情はない。憧れなんだ。俺が好きなのは君だけだ。君の傍が一番安心できるんだ。俺にとって君以上大切な人はいない」


 貴輝の熱い告白に、紫音の心が揺れる。


「君は将斗が好きだと言った。なのになぜここにいる!? 君の本当の気持ちをはっきり聞かせてくれ。でなければ俺は自惚れてしまう。俺のことなんか嫌いだと、迷惑だと言ってくれ!」


 貴輝の悲しそうな思いに、紫音は彼から目を逸らすように俯き、ただ無言で涙を流すことしかできなかった


 嘘でも貴輝が嫌いだとは、迷惑だとは言えなかった。


 しかし紫音の心に将斗との日々が思い出される。


(……将斗先輩だけは裏切りたくない)


 貴輝が紫音の両頬を包み込んで自分の方を向くように上を向かせた。


 紫音は嫌がおうでも貴輝を見つめてしまい、切ない想いが溢れる。


「紫音、……君が俺のことを何とも想っていないのなら、俺のことを突き飛ばすなり引っ叩くなりしろ。しないなら俺はこのまま君にキスする」


 貴輝の強引な言葉に紫音は目を見開き絶句した。


 貴輝の想いを受け入れるわけにはいかない。


 近づく貴輝の顔を見つめ、紫音は拒まなければと思いつつも、震える手は彼の胸に置かれるだけで突き飛ばすことはできなかった。


 言葉通り、貴輝は紫音に口付けした。


 貴輝の想いを直に感じ、紫音の閉じた瞳から涙が溢れ出す。


(……貴輝先輩が好き)


 彼の胸に迫る熱いキスに、紫音は無意識のうちに彼の背を握っていた。


 唇が離れもう一度貴輝を見た瞬間、紫音は我に返った。


「わ、……わた…し」


 紫音は貴輝にウットリしてしまった自分にうろたえた。


「私、……貴輝先輩の気持ちには応えられない!」


 動揺する紫音。


 貴輝は紫音の胸の内に抱える複雑な想いを悟った。


「……分かった。紫音の思うようにしたらいい。ただこれだけは覚えていてくれ。俺の気持ちは変わらない、と」


 貴輝は紫音の手を取った。


「もう何もしないから、……帰ろう」



         *    *    *



 貴輝がインターホンを押すと、中から藤花が出てきた。


「紫音どこ行ってたの? 遅くなるなら連絡しなさい!」


 藤花が言っている傍から、紫音は姉の顔を見ようともせず家の中に駆け込んだ。


「ちょ、ちょっと紫音!!」


「藤花先輩、紫音を怒らないで欲しい」


「あ……貴輝くん、ありがとう。将斗くんにもお礼言っといてね」


「お礼だなんて……。今日のことは俺に責任があるんだ。……俺が紫音に告白したばかりに、彼女の気持ちを追い詰めてしまった」


 貴輝は自責の念にかられ、唇を噛み締めた。


(紫音はきっと俺の想いを知りたくなかった。自分の心も俺に知られたくなかったんだ)


 自分の告白が彼女の心の歯車を完全に狂わせてしまった。しかしこれ以上自分の想いを隠しておくことができなかったのだ。


「紫音は他人思いの子だから……」


 藤花は淋しそうに呟いた。


「じゃあ俺、帰るよ」


「そうね。もう遅いし、気をつけてね」


「ああ」


 藤花は貴輝を見送ると家の中に戻り、そのまま紫音の部屋をノックする。


 紫音は部屋の中で制服のままベッドに倒れるようにしてうつ伏せになっていた。


「紫音、夕飯は?」


「…………いらない」


「そう。……ちょっと話があるの。入るわよ」


 ドアの開く音がした瞬間、紫音は反射的にドアに背を向けるように向きを変えた。


 藤花を前に、紫音は一瞬でも貴輝の想いを受け入れてしまったことで自己嫌悪に陥っていた。


 藤花は互いに背中を向き合わせる形で、ベッドの端に腰掛けた。


「ねぇ紫音。私が貴輝くんと別れたのは、留学するためでも、まして紫音に気兼ねしたからでもないの。付き合い始めて少しした頃から、私達お互いにもう前のような気持ちではないって気づいてたの。……憧れに変わっていたのよ。だから紫音、私のことは気にせず貴輝くんに想いを伝えていいんだよ」


 藤花は紫音の頭を慰める様に優しく撫でた。


 紫音は藤花の本音を聞いてやっと二人の別れた訳を理解した。と同時に藤花だからと貴輝への想いを抑えこもうとしていた理由がなくなり、自分の気持ちをどう処理したらいいのか持て余す。


 藤花も貴輝もどんどん前を見て進んでいって、自分だけが取り残されている気がした。


「……どうして私、お姉ちゃんに生まれなかったんだろう。お姉ちゃんみたいになれたら、私だってもっと自分に自信持てたのに。貴輝先輩の想いだってちゃんと受け止められたかもしれないのに……」


「紫音は私が自信あるように見える? ……私だって臆病になる時だってあるのよ。特に新しいことを始める時はいつもそう。私、得意不得意がはっきりしてるでしょ? 始める前はどっちに転がるか不安なの。だから逆に私は紫音が羨ましかった。何でも器用にこなしちゃうんだもの。昔やってた習い事も得意のピアノ以外は全部紫音の方が進んじゃって、私紫音を妬んだことすらあるのよ」


 紫音は起き上がり、意外な顔をして姉を見つめた。


 藤花は優しい笑みを返す。


「人間ってないものねだりよね。何でも人の方がよく見えてしまう。……紫音、まずもっと自信を持ちなさい。自分が強くなれば、相手の痛みもちゃんと受け止められるから。将斗くんにきちんと自分の本当の気持ち伝えるのよ。このまま自分の心に嘘ついて付き合っていたら、自分だけじゃなくて将斗くんの心ももっと深く傷つけてしまうのよ。……もちろん貴輝くんの想いにも正面から向き合うの。いいわね?」


「お姉ちゃん……」


 十六年姉妹として過ごしてきて、紫音は姉とこんな親密な会話をしたことはなかった。


 姉に長所があるように、自分にも長所があったことを初めて実感した。


 しかしすぐには自信など持てなかった。


 今の自分に誰かを傷つけてまで何かを得る、その責任を背負う心の強さがまだないことを紫音は分かっていた。



         *    *    *



『紫音ちゃん、今から屋上に来てくれるかな? 話があるんだ。』


 放課後、紫音の携帯に将斗から連絡が入った。


 いつもと変わらない将斗の声。だが昨日のことはすでに将斗も知っているはず。


 話とはそのことなのだろうと紫音は思う。


「………はい」


 今将斗と二人で会うのは正直怖かった。行きたくなかった。


 藤花の言ったように、将斗に嘘をついたまま付き合っていていいはずがない。


 しかしこれまでの将斗のしてくれたことを思えば、彼の気持ちにできる限り応えていきたかった。


 紫音は将斗に言うべき言葉が見つからないまま屋上へ向かった。


 屋上の扉を開けると、将斗は手摺りにもたれ屋上からの景色を眺めていた。


 紫音はゆっくり、だが真っ直ぐ将斗の元へ歩いていく。


「……将斗先輩」


 声を掛けると将斗が振り返った。


 いつもと少し違う心持ち緊張したような表情の将斗。でも優しい微笑みは今も変わらない。


「紫音ちゃん、部活前に呼び出してごめんね」


「……い…え」


 将斗は紫音の様子を窺いながら再び外の景色へ目を向ける。


 紫音も将斗に並んで手摺りに手を置き将斗の顔を見上げた。


「……昨日貴輝が君に告白したって聞いたよ。どうして貴輝を拒んだの?」


 紫音は将斗の言葉に目を見開いた。


(将斗先輩は私の本当の想いに気づいてる……?)


 驚く紫音を将斗は見つめた。


「どうして貴輝との思い出の場所の遊園地にいたの?」


 その言葉に紫音ははっきり確信してしまった。自分の想いが知られていると。


 将斗の淋しげに揺れる瞳を見ていられなくて、紫音は俯いた。


「君の本当の気持ちを教えて欲しい。今、心を占めてる存在は誰?」


 知られていると分かってはいても、紫音は何も言えなかった。


 すべてを捨てる覚悟で将斗の胸に飛び込んだのに、結局自分はかつて貴輝が自分にしたことと同じようなことを将斗にしてしまっているのだ。心に想う人と違う人と付き合って傷つけている。


 紫音はその気持ちを痛いほど知っている。


 それでも言えなかった。


 今日までの日々、将斗にどれほど救われてきたか。恋ではなくても大切な存在に変わりはしないのだから。彼の気持ちに応えたい思いは嘘ではないのだから。


 将斗の手が優しく紫音の肩に置かれた。


「紫音ちゃん、はっきり言ってくれ。偽りでない君の本当の心を教えてくれ。それが今、君が俺にできるただ一つのことなんだよ。君は俺のことを思って言えないのかもしれないけど、今本当のことを言ってくれるのが俺の気持ちに報いることになるんだ。だからちゃんと言ってくれ!」


 将斗の覚悟はできていた。


 紫音はそれを感じ、胸が痛かった。


(あんなに優しかった将斗先輩を傷つけてしまったんだ。……でも言わなきゃもっと先輩を苦しめてしまう)


 紫音は将斗のことを思うと、溢れる涙が止まらなかった。


「………ごめんなさい。私、貴輝先輩を忘れられなかった。将斗先輩の優しさに甘えるだけ甘えてこんなことになってしまってごめんなさい。でもあの時は本当に貴輝先輩を忘れられると思ったの。将斗先輩となら忘れられると思ったの。……でも心は理屈じゃなかった。忘れたくて苦しくて、それなのに貴輝先輩の姿を見るだけで声が聞こえてくるだけで、胸が熱くなるの、切なくなるの。でも将斗先輩のことが大切だったのも本当なの。恋にはなれなかったけど、とても大切なかけがえのない先輩だったの。それなのにこんな風に傷つけてしまって、どんなに謝っても謝り足りない!」


 将斗は心静かに紫音の思いを聞いていた。


 恋ではなくても彼女が自分をどんなに大事に思っていてくれたのか分かって、心穏やかに別れを受け入れられた。


「紫音ちゃん謝らないで。君の気持ちをこっちに向けられなかったのは俺にも責任があることなんだから。紫音ちゃんとの約束守れなかったのは俺なんだから。……俺は君と付き合えて嬉しかったよ。こういう時はありがとう、だろ?」


 将斗は紫音に握手を求めた。


 紫音は将斗の温かさに、その手を握って応える。


 最後の最後まで変わらず優しく接してくれた将斗を、紫音は涙いっぱい湛えた瞳で見上げた。


「将斗先輩、ありがとう……」


 その時将斗が向けた微笑みを、紫音は一生忘れないと思った。


 将斗は思いを絶ち切るようにして扉部分の壁の陰に声を掛ける。


「貴輝、出て来いよ!」


 将斗の放った名前に、紫音は反射的にそちらに目を向けた。


 壁の陰から神妙な顔をした貴輝が姿を見せた。


 貴輝と将斗はすでに昼休み、昨日のことで話をしていた。


 貴輝から昨日の一部始終を聞いた将斗は、紫音の想いも、なぜ貴輝の想いに応えなかったのかもすぐに見当がついた。


 そして紫音が自分からは本当のことを告げることはないと、他人の思いを考え自分の心を押し殺して

しまうだろうことも分かっていた。


 だから紫音を呼び出し、それを貴輝に聞かせたのだ。


 将斗にとって紫音も貴輝も大切な人だからこそ、将斗は二人のためにこの場をセッティングしたのだった。


 近づいてくる貴輝の方へ、将斗は紫音をそっと押し出した。


「もう泣かせるなよ」


 貴輝も親友の思いに応えるようにしっかり頷く。


「ああ。もう二度と悲しませるようなことはしない」


 将斗はその言葉を受け止めると、紫音をもう一度見つめた。


「紫音ちゃん、もうこいつの手を離すんじゃないよ」


 将斗はそれだけ言うと、その場を去って行った。


 最後に紫音は将斗の背に向かって叫んだ。


「ありがとう、将斗先輩!」


 将斗は振り返ることなく、軽く手を振って屋上を後にしたのだった。


(ありがとう。先輩の優しさ絶対忘れないよ)


 紫音は扉の方を見つめ続けていた。


「……紫音」


 貴輝の声に紫音は彼を見る。


 貴輝はそっと紫音を抱き寄せた。


「俺ともう一度やり直してくれるか? もう二度と君に誰かを傷つけさせるようなことはさせない。君を傷つけたりもしない。将斗の分まで君のこと大切にしていくよ」


 彼の胸の中で紫音は小さく、でもしっかりと頷いた。


 紫音は今度こそ貴輝の想いに応えたのだ。


(もう逃げない。もう背を向けない。ちゃんと自分の気持ちも周りの気持ちも受け止められるよう強くなるよ。自信を持てるよう頑張るよ)


 この恋が教えてくれたことを、紫音は胸に刻み付ける。


 貴輝に手が優しく紫音の頬に触れた。

 ――紫音は皆の温かい思いに感謝し、そっと瞳を閉じた。


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