35話 『圧倒』
その瞬間は見えなかった。動体視力を向上させているにも関わらずだ。黒田が落下の勢いのみならず更に何かの技を使用していたところまでは見えていた。
何が起きたのかは見えていなかったが、何が起きたのかは見えている光景から予想ができる。僕が答えを口にする前に、その光景の中心にいる存在が先に動いた。
『きゅ、きゅいい?』
空中に留まっていた触手はそのままに、まるっこい胴体だけが、こちらの方に向き直る。そこには目や口といった顔があるわけではないが、こちらを振り向いたのはなんとなく判った。
「ごめん、慧くん。茂を助けたら逃げるから準備して」
鈴原さんの声からいつものほんわかとした雰囲気が消えている。杖をスライムに向けており、その口許は固く引き結ばれている。
どうやら僕には見えていなかったが、鈴原さんには見えていたらしい。今の状況からして黒田の攻撃が迎撃されたのは予想が付く。その黒田は多分スライムの隣の木箱の中にいることだろう。
鈴原さんはスライムの行動に警戒しているのかまだ動かない。鈴原さんの注意通り、僕も即座に『修正パッチ』を切り換えられるように腰のベルトに手を置いておく。
長いようで短い僅かな硬直時間、その静寂を破ったのは木箱から鳴ったバキッという音だ。黒田が起き上がってきた音――と、思ったがただ壊れかけていた部分が崩れただけだ。そこから何か赤くて丸いもの――多分リンゴだ――が、転がってきてスライムの目の前で止まった。
なんで工事現場の倉庫にこんなものが、とも思ったが、この倉庫は工事の前からあったものだ。大方父さんの商売品の保管倉庫だったのだろう。そういえば、倉庫にしては空調も効いているので居心地も良い。スライムが入り浸るのも当然というものだ。
『きゅい!』
そのリンゴ、それに向けてスライムにとっての左側の触手が伸びリンゴを掴みとると、右側の触手も含めて本体に収納された。その後は胴体が若干大きくなったり、小さくなるのを繰り返し始める。これまでも何度か見ているが、咀嚼のようなものだと考えている。
「『シャドー・バインド』、『ネクロ・シールド』」
スライムが発した隙、それを目撃したと同時に鈴原さんが動いていた。立て続けに魔法を使用した後、鈴原さん自身も全力で駆け出している。僕も呆けているわけにもいかないので行動に移す。
「『解除』、『脚力向上』」
目から入る情報は減ったが、今向かう場所は1つだけだ。鈴原さんにワンテンポ遅れたが、十分追従することができている。
鈴原さんが使用した魔法は、以前にも使用していた一時的に拘束する魔法と、『ネクロ』を魔法の媒介として召喚し盾を配置する魔法だ。どちらも時間稼ぎ用と言っても良い。
その甲斐あって、特に邪魔されることなく木箱へたどり着いた。
「茂! 生きてる!?」
「…………ぐっ! 厳しいな、これは」
木箱の中にあったリンゴに埋もれるように黒田の姿が確認できた。どうやら、一撃で未帰還者になるという最悪な事態は回避できたようだ。しかし、ダメージが大きいのか苦しそうな顔をしている。
「大丈夫か、黒田。動けるか?」
「……あぁ、いや、無理そうだ。右腕と右脚が全く動かん。慧のバフが無ければ未帰還者行きだったな」
そういえば、2重に見えていた黒田の様子が普通に戻っている。『増殖』は『動体視力向上』や『脚力向上』といったパッシブ系の『修正パッチ』と違って、任意に使用できるようになるアクティブ系の『修正パッチ』だ。『解除』で切れるわけではないはずだが、その効果が無くなっている。
恐らく『増殖』による存在の重複が命のストックにもなっていたということだろう。レアな『修正パッチ』とはいえ、あまりに破格の効果があったようで正直驚愕している。
「とりあえず逃げま……え? 嘘でしょ?」
「鈴原さん? どうし……た……」
鈴原さんの視線に導かれる様に背後を振り返ると、そこには木箱の中を覗き込むようにスライムの姿があった。
『きゅい!』
どこから発声しているか判らない可愛らしい鳴き声が聞こえるが、とても癒されるような状況ではない。今この場に居るということは、鈴原さんの2つの魔法を既に突破してきたということだ。
「『ネクロ』に実体は無いはずなのに……」
鈴原さんの発言から注意深くスライムを見てみると、その胴体の右側から触手が延びており、黒いヒトデのような物体に絡み付いている。確かに生物のように見えるが、触感はなく闇の塊であるのはつい昨日認識したばかりだ。
その触手が『ネクロ』を捕らえたままシュルリと胴体に収められた。そして、大きくなったり小さくなったりする見覚えがある動きをし始める。その動きはつい先程見たばかりだ。
「……喰いやがった! これは無理だ。逃げるぞ!――――『無限虚空陣!』」
黒田がつい先程と同じ技を使用した。先程は大剣で円を描いていたが、今回は木箱の枠に沿って黒い範囲が広がってくる。
それが一面に広がったと思った瞬間、落ちた。
意図せぬ落下に動転する間もなく脚に衝撃が入り、バランスを崩して前のめりに倒れる。咄嗟に両手で地面に手を付くが、木製の地面であったためそれ程大きな痛みも生じなかった。
「すまん、慧、だがレディーファーストってやつだ」
周りを見ると、数多のリンゴとともに黒田も地面に転がっているが、鈴原さんはベッドの上だ。そのベッドは見覚えがある――つまるところ、ここは僕の部屋だった。
「ちょっと、茂! そんな気遣いより自分の心配してよ! ……はぁ、でもあれは無理ねー、無事逃げれて良かったよー」
鈴原さんの緊張感が抜けたのか、口調がいつも通りに戻っている。
「あいつ、もしかするとα時代のボスじゃないか?」
「α時代のボス? とすると確か……『暴食スライム』だっけか」
『暴食スライム』はα時代の終焉に関係し、討伐されたとされているが、確かに魔物はリスボーンするものだし、同じ存在であっても不思議はない。
「ああ、あんなヤバいの何匹もいて堪るか……ぐ! つー、しかし、久しぶりにこんな重いの貰ったわ。一美、治癒できるか?」
「んー、できるけど、『ネクロ』がいないから少し荒い方法しかないよ」
「まさか、あいつか? 気が重いが、頼む」
鈴原さんが杖を構えて魔法を唱えると、何かメスの様なものを持った西洋人形を召喚した。ホラー染みた様相を示しているが、それよりもスライムの様子が気になって、部屋にあるモニタに目を向けた。
そこには、木箱の中に残ったリンゴを夢中になって頬張っているスライムの姿が映っていた。




