30話 『羽虫』
『グブブ、ブブブゥゥ……』
バグトレントがその身を崩していく。その呻き声は、どこか救われたような安らかな響きに聞こえるのは気のせいではないかもしれない。
バグトレントの姿が崩れ去ると、今度は僕の目の前に白い板が現れ、そしてその白い板も直ぐに崩れ去った。
「おめでとー。これで慧くんもβデバッガーだね」
この現象は2度目になる。白い板――α時代の名残のステータスボードが現れることは、『修正パッチ』の入手と魔物の討伐が認められ、何かにβデバッガーとして登録されたことを意味する。
「無事に登録できて良かったよ」
僕の懸念は『反射』と同じようにβデバッガーの登録も1回しかできない可能性についてだ。その場合であらばバグスライムへの対処方法が、完全に他人任せにする以外になくなっていたので正直ほっとしている。
「あぁ、ダメージが全く入ってなかったからな。丁度良い『修正パッチ』があって良かったな」
僕が安堵した様子を見て、黒田が意図と違う理解を示してきたが、確かにそれも問題だった。僕が持っていた『修正パッチ』は、力や器用さといったステータスの微増タイプや、特定の魔物への微妙なダメージ補正、その他は微量の耐性や僅かな回復といったサポート系が大半で攻撃に使用できるものが少なかった。
攻撃方法としては『ワイルド・ピッグ』の討伐時のように鈴原さんの杖で殴ったり、色々な種族特効を組み合わせてみたり、『腕力向上』を使用して黒田の大剣で斬りかかったりしたがどれも失敗した。
その後、鈴原さんや黒田が瀕死にしてとどめを刺す方法を取ったが、高度な自動回復能力があるようでとどめを刺せるタイミングを掴むことができなかった。そもそも、黒田が言うように全くダメージが入っていなかったため絶妙なタイミングだったとしても恐らく効果はなかっただろう。
「そうだね。でも、まさか正体が『虫』系統だったとは思わなかったよ」
心の中でバグトレントと呼んでいたが、バグインセクトやバグフライとでも呼ぶ方が正しかったのかもしれない。その理由は、効果があった『修正パッチ』が『殺虫(羽虫)』だったためだ。
これを手に入れたのは、3年程前――体感的には6年程前になるが……に発生したベルゼブブ事変、その調査をしていた時になる。『蝿の王ベルゼブブ』は最上位に位置する悪魔系の魔物だ。元々の由来やゲーム等での扱いは別として、その名が付いた10メートル台の巨大な蝿の魔物が突如発生し、多大な被害を発生させた。
協会は多くの犠牲のもとになんとか討伐に成功したとベルゼブブ事件の終結を発表していたが、事実は違うらしい。実際は協会の討伐隊は壊滅し、最終的に逃げられてしまったようだ。更に、逃走後の追跡で対象を見失うような失態まで犯してしまったとのことだが、その後の調査では何故か目撃情報すら集まらなかったため、大人の事情で討伐扱いとしてしまったらしい。
そんな本来トップシークレットのはずの情報は、デババトの為に爺さんから魔物の情報を聞き集めていた際にぽろっともたらされた。確かにやたらと協会に顔が利く爺さんであれば、その情報を仕入れるのは容易いし、αデバッガーながら協会に所属しているわけでもないので守秘義務もないのだろう。とは言え、それを「笑えるだろ」と笑顔で孫に聞かせるのは正直倫理的にどうなのだろうか。
とりあえず協会の事情や爺さんのことは置いておくとして、デババト用のデータ収集を目的として何か判らないか協会がベルゼブブを見失った場所を駄目元で調査しに行った。
その場所は森と林の中間程度の広さの森林地帯であったが、樹木以外で特別目立った特徴は無く、あるのはせいぜい50メートル四方の沼くらいだった。
協会もベルゼブブより巨大な魔物でも潜伏しているのではと沼の中を調査したらしいので、当然僕がそんな大物を発見できるわけがなかった。しかし、デババト用のデータ収集という意味では収穫がゼロだったわけではなく、沼の外周に生える小さな素材モンスターを発見することができていた。
『サラセニア・マンドラゴラ』――こいつは食虫植物がベースの魔物であるが、他の植物と見分けが付けづらく、且つ無害な魔物なので基本的にスルーされる魔物だ。
デババト用の調査で葉の特徴を知っていたので偶然見つけることができたものだが、意外とレアな魔物であるため、発見当時はベルゼブブの存在を忘れてこの魔物の観察をしていた。その生態の分析として沼で繁殖した羽虫でも捕食しているのだろうかと考えたところで、ふと突拍子もない思い付きをしたものだった。
『まさか、ベルゼブブはこいつに捕食されていたりして』
そう考えた直後、体格のあまりの違いからすぐに馬鹿馬鹿しい考えと笑い飛ばそうとときに生じたのがこの『修正パッチ』だった。
そんなこんなで入手した『修正パッチ』であったが、即死効果は強力ながら流石に対象がマイナーな種族の羽虫限定なのもあって、それほど強力な『修正パッチ』とは思っていなかった。そもそも、名前から殺虫剤と同程度の価値くらいにしか思っていなかった。
「とりあえず、これは回収しておくな」
なんのことかと黒田の方を向くと、屈むようにして地面に落ちていた紫色の丸い宝玉に手を延ばしていた。
「あぁ、魔核だね。それって使い道あるの?」
魔核は、外見上は10センチ程のただの玉であるが、中を覗き込むと何かが蠢くように絶えず変化している様子が見てとれる。その様子は『修正パッチ』と似たような様相であるが、使い方のようなものは全く知られていない。
「んー、ないかなー。でも、なんとか破壊できないか研究はしているみたいね」
魔核はその字のまま、魔物の核だといわれている。そんな魔核は暫くすると消失し、どこかに魔物としてリスボーンするらしい。その根拠としては魔核の消失と同時にたまたま目の前にリスボーンしたケースが何件か報告されていることによるものだ。
魔核は現状の技術では破壊不可能といわれているが、専らこれが問題となっている。つまり、基本的に魔物が減少することはないが、新種の魔物が発見されることもあることを考えると増加することはあるとされている。
一応、魔物同士が捕食し合うと一時的に数自体は減少しているように思えるが、捕食してバグった場合は加算ではなく乗算するように脅威度が増加していくので、とても魔物が減少したとは言えたものではない。
今はβデバッガーの方が押しているが、このままではどこかで破綻するのが目に見えているので、魔核含めてバグの研究は最優先課題となっている。協会もβデバッガーの総本山ではあるものの、実態は研究者の方が圧倒的に多く、研究機関としての側面の方が大きくなっている。
「で、慧の情報網によると、もう1体ヤバイのが出るんだろ?」
「そうだね。明日の方が本命だね。朝に部屋まで来てくれると助かるよ。10時くらいかな?」
出るのではなく既に居るのだが、その辺の事情の説明は省略してあった。今日は討伐に時間が掛かったため、既に暗くなりかけているので、スライムとの決戦は明日の10時頃となる。
それまでに僕の準備も完成させておかなければならない。




