1話 『英雄』 (2010年6月6日 666回目)
目の前で戦いが繰り広げられている。
既に関与できるような状況ではない。
何をやっているのか全く頭が追いついていかず、ただ目で追うだけが精々だ。
「ケイ。離れてろよ。こいつはお前の手には負えない」
それは僕の名前だ。
呼ばれて初めて呆然と立ち尽くしていたのに気づいた。
「はい、先生。後はお願いします」
周りを見渡し、奥の鉄製の棚に隠れる。
この棚にもトラップを仕掛けてあるが、既に使用することはないだろう。
僕にできたのはこの倉庫にあいつを誘導するまでだ。その後は何をしても駄目だった。
物理的な打撃はもちろん、刃物による斬撃、その他にも重量物の圧壊に巻き込んだり、化学薬品を振りかけたりと言った大規模な攻撃も試してみたがどれも大して効果があったようには見えなかった。
それだけやって辛うじて判明したのは好むもの、嫌うものといった、行動の癖に限られる。
『きゅおおお!』
あいつ――巨大な青いスライムが雄叫びをあげている。
大きさにして3メートル四方の半捄状の魔物だ。無理やり例えるならクラゲが近いだろうか。攻撃にも触手を使用している。
だが、その触手の攻撃は全て先生に捌かれている。雄叫びをあげたのも攻撃が全く通用しないことに対する焦燥感によるものだろう。
スライムの攻撃の唯一の救いは一般的な魔物と違って現実的なことだ。
なにせバグっていない。そのため、僕でも逃げ回り続けることだけは可能だった。
とはいえ、他の魔物より弱いとする考えは真っ向から否定する。何故なら、触手の一本一本の攻撃がバグも霞む程度に圧倒的な威力が込められている。多分あの触手の一撃を僕が喰らったとしたら、一発で意識を刈り取られるか、未帰還者になるかのどちらかだろう。
『きゅおおおおおお!』
そんな攻撃であるが、スライムが再び上げた雄叫びと供に、更に力強さと鋭さが数段階増加した。
「おいおい、それ当たったら痛そうじゃないか。こっちはやっと動けるようになったらしいというのに」
そんな軽口を叩く先生だが、僕の目にはそんな先生の方が脅威的なスライムより異常に映っている。
目に止まらないような触手による払いを紙一重でしゃがんでかわし、上段からの一撃を身体を捻ってさらっとかわしている。
これ自体も異常だが、まだ辛うじて理解できる。しかし、それ以外におかしな挙動が混じっている。
今も2本の触手による同時攻撃を2メートルを超えるジャンプでやり過ごし、果てにはかわし切れない3本目の触手を殴り飛ばしてしまった。とても人間業ではない。
あり得ないという気持ちの反面、人間を超越するシステムは過去に存在したのを思い出した。
レベルシステム――世界がバグった日、魔物と一緒に発生したシステムだ。
ゲームのようにレベルがあがると身体能力が本来の物理法則を超えていったらしい。
だが、それも最初の数日間のみで既に失われているはずだ。人類のレベルアップは確かに魔物に有効ではあったが、魔物にもレベルがあったため、人類に救いをもたらすシステムではなく逆に破滅に導くシステムだった。
そのレベルシステムを使用できているのか、はたまた強力な『修正パッチ』を使用しているのかは不明だが、どちらにせよ少なくとも先生の正体に一つ確信が持てた。
「αデバッガー……」
αデバッガーは、バグって致命的に壊滅しようとした世界を数日でなんとか世界の形に留めた数人の英雄達だ。レベルシステムを破壊したことがその一番の功績でもある。
そしてその中にいて聞いていた先生の苗字と一致する人物、それは……。
「っ! 先生! 危ない!」
考え込んでいたところ、目の端に映ったスライムの様子に咄嗟に声を上げた。
目に映ったのは、ある種単調な触手の攻撃を繰り返す中で自らの巨体に隠すようにひっそりと構えた1本の触手。鋭く尖り、何か良くない効果がありそうなほどどす黒く変色している。
先生が無数の触手をまとめて叩き潰したそのわずかなタイミングで急に動き始めたのが見えていた。
その黒い触手の刺突は、如何に身体能力が人間離れしていようが、人間である以上発生する僅かな隙――重心移動が行われるその一瞬に見事に重なっていた。
僕の声に反応できていたとしてもその状況は覆せない。絶望的な光景を想像したが、ガキンという音と共にそれは実現することはなかった。
「……止まっ……た?」
そう、止まっている。それも先生の眉間に当たるその直前、何かにぶつかったように触手が空中に停止している。
いや、遠くて見づらいが実際に何かにぶつかっていた。紫色に輝いているキューブ状の何かだ。それが先生の眉間の前で驚異的な一撃を封殺していた。
この光景、見覚えは無いし、物体の形状は違うが何度も聞いたことがある光景だ。それこそ何度も何度も爺さんに語られた現象に酷似している。
その現象の名称も明らかであり、つい口から出てしまった。
「ステータスボードバグ……ってことはやっぱり」
破壊不能なステータスボードを利用した鉄壁の守備。それは、αデバッガーの中でも中心中の中心人物、その人物の代名詞とも言える技だ。先ほど中断された思考と合わせると確信が持てる。
「良くないものを食いすぎだ! 落ち着いて話もできない程度なら一回産まれ直してこい」
そう言って防御から一転、攻撃に出た先生の拳の一撃は、巨大なスライムの耐性諸々を突破して肉片残さず消し飛ばした。
残ったのはスライムを構成していた魔核とそれを握り込んでいる先生自身――αデバッガーでありその中心、そして最も有名な人物『小瀬川 颯人』その人だ。
前作、世界はバグで救われた! ~ダンジョンはカードでできている~と同じ世界軸ですが、11年前の話になります。
本作は2作目であり、この世界の物語としては2章に相当します。
前作は読まなくても問題無いですが、気が向いたらそちらの方も覗いてみて頂けると幸いです。