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第二章【告別式】

 コウタの家に行った翌日、北上(きたがみ)が亡くなったという知らせが連絡網で回って来た。電話の声の主は告別式の日程を淡々と告げた後、じゃあ次の人によろしく、と電話を切った。


 北上大地(きたがみだいち)とは高校二年生から卒業までの二年間、同じクラスだった。彼についてはそれくらいしか覚えていない。顔もはっきりとは思い出せず、おぼろげなイメージしか浮かんで来なかった。それは、如何に僕がそういった事に対して消極的だったかを物語っていた。


 しかし、僕は告別式に行く事にした。親しくもなかったクラスメイトの告別式に行く気になったのは、単に何かをしていたかったからだった。何でも良いから何かをして、自分を誤魔化していたかった。告別式には、二度と会う事のないはずだったクラスメイト達が来るだろうけれど、その時ばかりはどうでも良かった。




 ――あとになって思う。あの告別式は、僕の告別式でもあったかもしれないと。あの日、きっと僕は今までの日常と、その中に生きる僕とに別れを告げた。

 あの日が僕の分岐点だったのだ。




 思った通り、告別式には以前のクラスメイトが数十人と担任だった教師、他にも多くの人の姿があった。コウタの姿もあった。


 空は暗く厚い雲が張り出し、昨日とは打って変わった天候だった。春なのでさすがに寒くはないものの、どんよりとした空と日の差さない事を考慮すると、まさに告別式といった雰囲気だ。などと不謹慎な事を、僕は思った。


 特に変わった事はなく告別式は終わった。式の最中は静かなものだったが、終わりと分かるや否や、部屋の空気はがらりと言って良いほど変わった。騒いだりする人はいなかったが、まるで同窓会のような空気になったのだ。と言っても、つい一週間程前に卒業式があったばかりだ。それにも関わらず、元気? などという声が、あちらこちらで小さくだが聞こえ始めた。


 僕はこういうものが苦手だ。早々に帰ろうと立ち上がり、静かに障子を開けて廊下に出た。しんとした廊下の空気に触れた瞬間、自然、僕はほっと息をついた。そのまま玄関へと向かう。遠ざかる彼らの小さなざわめきを感じながら、僕は長い廊下を一人歩いた。靴下の裏に廊下の冷たさが心地好い。


「――しかし、どうして北上が」


 廊下の曲がり角の向こう、誰かの話し声が聞こえた。ちょうど玄関先の辺りだ。早く帰りたいのはやまやまだが、出て行って良いものかどうか、少し躊躇われた。


「せっかく希望の大学に受かったというのに、どうして自殺など……合格の報告に来てくれた北上の顔は本当に嬉しそうでしたよ。それがどうして……」


 高校三年の時の担任の声だった。少し()もった声で、ひどく苦しそうな様子だった。僕は、このまま聞いていてはいけないような気がして、気まずさはあるものの出て行こうと一歩踏み出そうとした、まさにその時だった。


「実は、あの子は少し情緒が不安定だったところがありまして……」


「北上がですか?」


 告げる女性の声は静かだったが僅かに震えていて、答える担任の声は驚愕に溢れていた。


「しかし北上は、少なくとも私の前ではそんな様子少しも……」


「元々、少し気の弱い部分がある子で。落ち込みやすく、なかなか自分の思った通りの事を言えない。ですが、友達もいて、勉強もしっかりやってくれる、良い子でした」


「ええ、放課後は授業内容について質問に来たりしていましたし、大学受験の為の勉強もおろそかにせず、特に高三になってからは、より熱心でしたよ。それが、どうして」


「あの、こんな事を先生に申し上げて良いのか分からないのですが、あの子の日記帳みたいなものに妙な事が書いてあって、それが気になってしまって」


 僕は、少しずつ、しかし確実に心臓の音が早くなるのを感じていた。


「妙な事とは?」


「これなんですが、日記というよりは、ただ思い付くまま文章を書いたような感じで」


 少しの沈黙。その間、紙を()る音が静かな廊下に不気味なほど良く響いた。


「おかしいと思ったのは、この、最後のページです」


 先程よりも早く響く、繰る音。


「……こういう形で書かれているのは、このページだけですか?」


 また沈黙が続いた。僕の動悸はいよいよ早く激しくなり、全力で走った後のように、もしくはそれ以上に、強く大きく体内に響いた。


 やがて沈黙を破ったのは緊張した担任の声で、その言葉は僕にとって決定的で衝撃的な一言だった。


「『ああ、やっと蜂の巣を捨てられる』」


 僕は爆発しそうな心臓を抱え、出来るだけ平静を装いながら静かに玄関へ向かった。彼らは少し驚いたようにこちらを見たが、一礼をしてから僕は素早く靴を履き、引き戸を開けて表に出た。そっと戸を閉め、一歩、二歩と歩き出す。やがて早足になり、門を出てからは走って家路を辿った。出来るなら何も無かった事にしたかった。そこから遠ざかる事でそうなるような気がした。重く垂れ込める灰色の空の下、僕は逃げるように思い切り走った。




 逃げた? そうだ、僕はあの時、逃げたのだ。その場から? 勿論それもあったけれど、僕はあの時、見えない不安と大きな衝撃から逃げたかったのだ。あれは始まりに過ぎなかったけれど、あんなにも驚きながら、逃げながらも、「やっぱり」と思った僕がいた。


 きっと予感していた。もしくは確信かもしれない。たとえ無意識の内にだとしても、そうでなければ説明が付かない。あの、まるで罪悪から逃れようとするかのような自分の心情の理由が分からなくなる。あの時から続いて行く事になった細い道筋の存在を、きっと何処かで僕は知っていた。


 けれど、いつしか予感が確信へと確実に変わり、深すぎる枯れる事の無い罪悪感が根を張ったその時も、僕は何も捨てたくはなかった。


 この心を、コウタ、君なら分かってくれるだろうか……………………。




 北上の告別式があった夜、僕は帰宅してすぐに、一冊の本を開いた。タイトルは「蜜と蜂と巣」。三ヵ月くらい前に読み終わった小説だった。目当てのページに出くわすまでの少しの間、僕の脳は「まさか」を繰り返し繰り返し生み出していた。心臓の音も、うるさかった。


 微かに震える指がそのページに辿り着いたと同時に、僕はゆっくりと本文を読み進めた。その後、僕は黙読したところをもう一度声に出して読んでいた。確認するかのように。


「『やっぱりボクが正解者だったんだ。でも、もう一度だけ考えた方が良いのではないだろうか。いや、良い。もうこれで。ああ、やっと蜂の巣を捨てられる…………』」 


 ――そこには、その本には、担任が言ったあの一言が書かれていた。つまり、北上が日記に書き残したという一文が。


 北上は少し情緒不安定だったという。この本の主人公であり、この日記を書いた男もそうだった。そしてこの主人公も北上も、同じ事を日記帳に書き、自殺を選び、死んでしまった。これは単なる偶然なのか? もしくは、もしかしたら北上もこの本を知っていて、何か理由があって、この本になぞらえて自殺をしたのだろうか。何故? 自分と似た主人公に共感して?  それとも……。


 気にしすぎだろうかと、ふと思った。ただ、似ていた。それだけの事で、深く考える事はないのかもしれない。けれど、あの時の動悸は、この緊張感は何だろう。何かが重く()し掛かるような、この感覚は何だろう。


 その夜、僕はなかなか眠れなかった。巡る思考を断ち切れず、ようやく眠りを掴む頃には朝方になっていた。考えすぎだと自分に言い聞かせながらも、僕は決してそれを素直には受け止められなかった。


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