次は勝つ
「……」
僕はテーブルから離れ、バーカウンターに付いている席でぼんやりとしていた。
時刻は二十三時になろうとしていた。狭いバー内では、ジャズ風にアレンジされたアニソンが流れていた。
しゃちょーはゴキブリポーカーを終えた後、明日の仕事の準備のために帰っていった。
ライダーは少し離れたところでカクテルを楽しむように眺めており、みんなゲームを終えた後の勝利の余韻に浸っているかのようだった。
ただ、その状況で嫌な気分になっているのは僕だけであろう。
「はい、先輩。お約束通りマティーニですよ」
「……どうも」
目の前に置かれた小さなグラスに、マオはマティーニを注ぎオリーブを飾りつける。
それを受け取った僕は、マティーニを一口で呷った。
ゴキブリポーカーの結果は惨敗だった。
マオから渡されたパンドラの匣は『ゴキブリ』ではなく、『カエル』だった。
この時点で僕はゴギブリと、カエルを三枚ずつ保有している状態になり、さらに言うと自分の手札にはカエルは一枚も存在していない状況へとなった。
このゴキブリポーカーで勝つ方法はいくつかあるが、何よりも重要な事……それはカードの把握だった。
あの時、ゴキブリよりも注目をしていなければならないカード……カエルに注目しなければならなかった。
あの時、場に出ているカエルは全部で四枚。残りの四枚は僕以外の全員が持っている可能性があった。
「いやぁ、先輩ほんとうちょろいから楽しかったです。お陰で簡単に語ることができましたよ」
「ほんと、お前最低だよな。ゴギブリを一枚も持っていない状況でよく、あんなこと言えたもんだ」
目の前で生首みたいになっている彼女はニコニコと笑っている。
何を隠そう、この目の前にいるマオが場に出ていないカエルを全て所有していた。
「まとまったクモを出さないあたりいい線だったかもしれませんね。ただクモが一枚も出てこないのが残念でした」
戦況を思い出し、評価をするマオに僕は同意をした。
「それな。なんでクモが一枚も出てこないのか不思議だったわ……まぁ、それも全てお前のせいなんだけどな」
「酷いですね。私のせいにするのは良くありませんよ」
「何をいうんだか……」
ゲーム終了時、場に出ていたクモは二枚……マオに一枚と、ライダーに一枚。
そして、マオの手札にあったのはネズミ一枚、カエル一枚、クモ三枚、カメムシ二枚、ハエ一枚、サソリ二枚……。
つまるところ、僕は常にマオに弱点を掴まれていたという事になる。
「先輩の必死な姿から大体所有しているカードが何かわかりましたよ。多分、ゴギブリを持っている事とか、クモがまとまっているとか。それを理解した上で私はじっと観察してました」
「ほんっっっと、性格クソだよな!」
つい声を荒らげる。
「なんとでも言ってください。ゲームとはそういうものなんですから」
はっはっは、と何処吹く風の彼女。
高笑いをするのはいいが、生首状態では様になっていない。
「さて、ボードゲーム終わりましたし、次なにしますかね?」
「いや、僕はもう帰るよ」
マオが次のボードゲームを考えている時に僕は店を出ることを告げる。
「あれま、もう帰っちゃうんですか? まだまだこれからですのに」
「生憎、僕は大学生でな。お前のように中退した身じゃないんだよ」
「学生ってそんな身分が上なんですか? 変な話ですね」
皮肉でいった僕は皮肉で返される。多分、僕は拗ねていた。
確かに大学生が偉いなんて可笑しい話なのだろう。
奨学金制度で大学を卒業し、社会人になった暁に大学生は借金生活から始まることを約束されているのだから。
そして僕はその約束された将来の上にいる。それを身分が上と言える僕がおかしいことはわかっていた。
だがしかし、男というのは出世をするために必要なのは経歴と資格なのだ。
僕は彼女の指摘に見栄で突っぱねる。
「なんとでも言え」
「いっそのこと大学辞めればいいのに」
まっすぐな黒い瞳が僕を見つめる。
「やめてどうするんだ。無資格なのに」
もし大学を辞めてしまえば僕は就職ができず、路頭に迷うだけだ。ニートまっしぐらかもしれない。
いや、フリーターだったか。まぁいいや。
バーカウンターの向こう側から出てきたマオは、僕の元へやってくると手を差し出してきた。
「私のところで働けばいいのですよ。永久就職です」
にっこりと聖母のような笑顔で僕に言う。
「お酒も勉強すればいいのです。簡単ですよ?」
甘い誘惑で彼女は誘ってくる。マティーニを飲んでいる僕は思わずその手を握り返そうとした。
だが、僕は思い留まり手を引く。
「……そう言って、常に僕をゲームでボロボロにしたいだけなんだろ?」
「ありゃりゃ、バレちゃいましたか」
悪戯に舌を出したマオは、手を引いた。さっきまで浮かべていた聖母のような笑顔が無邪気な笑顔に変貌する。
「バレバレだ。絶対お前の元で働くもんか」
「その調子ですよ。頑張るのですよ、タケル先輩」
「言われなくても……」
僕は背を向けバーの出口を押した。
「次は勝つ」
「何度でも挑んでくるがよいのである! はっはっは!」
ほんと、ムカつく後輩だよ。
ゲームバーから聞こえる笑い声を背に、僕は終電に間に合うように走った。
◆
次は勝つ……なんて言葉を、僕は彼女に何度言っただろう。
思えば僕の大学生活が始まってからずっと言っている気がする。
僕が大学に入学した日、入学式の時に右隣にいた奴が『あいつ』だった。
煤けた表情でぼんやりとした眼差し。
みんなリクルートスーツをピシッと決めているのに対して、『あいつ』だけだらしなく大人者のパーカーという浮世離れだったのを覚えている。
そして何より小さかった。小学生か何かかと思ったくらいだ。
そんな彼女が気になった僕は声をかけた。
ほんの出来心だった。興味とか、好奇心とか、いろんな気持ちが多分その時の僕はあった。
「……おい。お前」
「……なんですか? 三下」
彼女に声をかけると、抑揚の無い言葉で僕を見下してきた。
座高の位置からして低いはずなのに、その態度は僕より上だ。
というか初対面に対してのその言葉はどうなんだ。
威圧的な彼女の瞳が僕を見つめている。
日本人は茶色の瞳が多い。しかし彼女の瞳は茶色には見えず、まるで闇の様でハイライトがなく、さらに見えなかった右耳には太いピアスが二個ついていた。
「三下ってなんだ。同級生だろ」
「自分より頭が悪い生物を下に見て何が悪いんですか? 貴方は下等な生き物を対等に見るんですか」
「極端すぎるだろう」
ムカつく言い方だ。
頭が悪い生物、下等な生き物。それらを全て当てはめた存在を僕だと言わんばかりの口の聞き方に腹が立った。
「気に入らないな、お前」
「お前っていう貴方の方が気に入りませんよ」
そう、全てはここから始まったんだ。
僕は電車に揺られながらしばらくの睡眠を取ることにした。