潜在天使
私の背中には羽が生えていた。
白くて柔らかいものが肩甲骨から二つ、何事もないようにくっついていた。
初めて気づいたのは四歳の頃、時折背中が勝手にカパカパと動くので合わせ鏡を駆使して見てみたら、当時の手の平くらいの大きさのやつが健気にカパついていたのだ。まさに「なに、これ……」である。
人生初の悪寒と立ち眩みは、ここぞとばかりに私をぶるぶるさせた。
……これが、ヒューマンというやつなの?
みんなの背中にも同じものがついているのかもしれない。そう思った私は急いで母の背中を確かめに行った。
「ハクちゃん。なになに!? どうしたの?」
なかった。衣服の中に手を突っ込んでわさわさしてみても、あるのものはつるつるすべすべの柔肌だけだった。
肩甲骨にも開閉は見られない。父と風呂に入った時も特に異物は付着していなかった。
言いようのない恐怖に耐えかねた私は、後日両親に相談した。ボタンのついていない上着をスポッ、と脱いで疑惑の一点を指差し「このへんこのへん」と必死に訴えてみた。でも、返ってきた言葉は私をさらに苦しめるものだった。
「どうしたハクイ、なにもついていないじゃないか」
「ハクちゃん、頭がくらくらしない? お熱測ってみよっか?」
見えていなかった。どうして見えないのかは今でも分からない。その後、誰にも見えていないことが判明したので原因の追究は諦めたけれど、両親とは分かり合いたかったというのが本音。全部を理解してくれなくてもいい。せめてこちらの訴えを真剣に聞いてほしかった。
誰がなんと言おうともここに羽はある。揺るぎない事実だった。
でも、それを証明できる人間は誰もいなかった。
だから私は、自分を否定しないために心を閉ざす道を選んだ。
大人になってからは自立して一人暮らしをはじめたので両親に対する思いは多少和らいだのだけれど、なにもかもが親密という運びには至らなかった。彼らは根気強く理解を求めるこちらの訴えを精神異常だと認めて、あからさまに距離を取りはじめたのである。
大学へ入る際に実家を離れることを勧めたのも両親だった。大事な家族に息の詰まる生活を続けさせるのは体に良くないと逆に気を遣った私は、喜んだ感じを装って彼らの申し出に二つ返事で「キャッホー!」と応じたのだった。
さて、この不思議な羽はそんな私の気持ちを知ってか知らずか、身体の成長とともに見事な外観をそなえ(やが)るようになった。
目一杯広げると約一メートル。長年の経験が生きたおかげか、今では自分の意思で自在に操ることもできる。飛べるかどうかは別として……というか一度も飛べたことはないのだが、パタパタもバッサバッサも思うがままだ。身長は百五十センチで体重は四十キロ「しか」ないのに、全力ダッシュからでも宙に浮きすらしない。どうやら羽の大きさが少し足りないみたいだ。今後の成長次第といったところか、いずれにせよこの羽は不遇の産物として堂々と佇んでいた。
地味にこなした大学生活をストレートで脱したその年に「なんとなくここでいいや」と軽い気持ちで応募した会社になんとなく採用された私は、今日も無感情の電車通勤を経て職場へと赴く。
勤め先は『六つ葉のクローバーコミュニケーションズ・ジャパン』。突っ込みどころ満載の社名なのは言うまでもなく、その仕事内容もかなりの異質でぶっとんだものだった。
出社するとまず、社員一人一人に分厚い封筒が手渡される。その中には約百五十枚の用紙が入っていて、書かれている文章を毎日指定されたインターネットサイトへ正確に打ち込めば上司がとても喜ぶ、というシンプルかつ怪しい業務だ。無論、クライアントに関してや文書の内容を外部に漏らしてはいけない規則になっているので、細かいことは安易に語れない。ただ、私の担当は主に一般庶民に向けた誘導文なので、中身はどうでもいいようなものばかりだった。
最近よく打ち込むのは『マイナスイメージから湧き起こる購買意欲の煽り文』だ。一見すると逆の効果を生みそうな感じだけれど、実際のところ企業は潤っているらしい。今年に入ってから某巨大掲示板への指定は去年までの倍以上に増えていることから、その経済効果は計り知れないと思われる。商品の本質が露になるほどその対象に興味を持つ消費者の心理を狙っているのだろう。全く以っておかしな世の中だ。
「あれ? 『にゃーん』ってさ、昨日からその髪型だった?」
「はい。そうですけど……」
「結構バッサリいっちゃったのね。若いんだからもっと伸ばせばいいのに」
「は、はあ……」
まるで自分はまだ若いんです、と言いたげな物腰。
「それに、ね・こ・ぜ。チョー目立っちゃってるじゃん。顔も姿勢も猫風とかマジうけるし。……あ、ヨコちゃんおはよー。ねえねえあのさ、にゃーんが髪切ったの知ってた? え? 月曜日にはもうあれになってた? マジで!? アタシ知らなかったとか存在感薄すぎてある意味尊敬するー(笑)」
同僚の津貝マサエと幸家ヨウコの陰湿な挨拶。『にゃーん』は奴等が勝手につけたあだ名で、理由は猫みたいな顔だからというなんの捻りのないものだった。あのおしゃべり女達が伝播したおかげで、今では社長以下の全社員からその名で呼ばれている。
ちなみに猫背だという指摘については弁解のしようがない。取り外し不可能な大きな羽を背負って二十三年も生きているのだ。そりゃ当然のように重いし尋常じゃなく肩も凝る。胸がもっと大きければ若干バランスも取れただろうが、母譲りのコンパクトサイズでは重りの足しにもならない。
「ま、にゃーんもそろそろいい歳なんだから、男の一人くらいは抱えておかないと一気にオバ~ン、だよ。ちょっとは焦ったほうがいいんじゃない? がははは! んじゃ、また昼休みにね! ……あ、ちょっとー、ヨコちゃん待ってよー」
「あはは。……はい」
好きでもない人間に向かって作り笑う独身女。それが私で、それが現実。
黒嶋白衣。明らかに両親の受け狙いが込められた名前のネームプレートが、呼吸をする度に眼下の薄い胸板から照明を反射してキラリと輝く。羽はついていても飛ぶことができず、人生も羽ばたく気配がない。ゲームとか漫画とかにありがちのファンタジーな世界で生まれてくれば少しは箔がつくかもしれないけれど、きっとあちらの世界でも面白おかしく弄られて『ここ』と変わりなくうなだれているだろうから結局どこに行っても一緒じゃん……と思うと余計に落ち込む。
がっくし。
誰に似たのか知らないがこの酷く臆病な性格が嫌いだった。恋愛に対しても同様で、未だにアレを知らないし、年々蓄積される恐怖心から踏み出す勇気も減少する一方だった。
このままでは腐る。枯れる。そんなことは分かっているんだ。
(背中に生えているこの羽さえなければ、もう少し明るくなれるのに……ボソボソ)
そんなことを考えながら、今日も時間に追われるがままに寡黙な業務をこなす。結婚していればきっと、愛するダーリンがそこそこ稼いでくれるから自分は適当に仕事をしていればいいや~、なんて思ったりしながら笑顔で過ごしているかもしれないけれど、現実はいろいろと逼迫しているのでそうもいかない。しっかりきっちりやらなければお金は入ってこないし、三日に一度の羽のシャンプーも一週間に変更せざるを得なくなる。これ以上不幸にならないためにも一人暮らしは絶対条件。実家からの支援なんて以ての外だ。
要するに、自由に飛べないやつはなにも考えず事に当たれってこと。弱者は語るな、身体を動かせ!の精神がガッツリ根付いた現代社会にスッポリ馴染んじゃっている私って……などと愚痴も交えつつ、やっぱり今日もぶつぶつとキーボードを叩く。
日々与えられる文章は担当部署ごとに異なるのだが、欠員や異動等があった際は別部署の打ち込みもやらされることがある。業務内容に時間指定もあるうちの会社には残業というものが存在しないので、そうなるともう大変。トイレに行くにも機器を持ち込んでカタカタやらなければならないし、ラップトップパソコンを首に掛けながら化粧を直したりする社員も少なくない。部署のリーダーともなるともう理解不能の領域で、二台を首から垂らすも大してその恩恵を受けることはなく、緊急の連絡が入ると欽ちゃん走りで颯爽と現場を駆け抜けるという有様だ。
リーダーから格上の社員は基本的に文書の選定や作成を主な業務としているので、『あの』くだらない文章と卑猥なアスキーアートを毎日必死に選び取っていると思うと、その真剣な眼差しが滑稽に見えてきて、その都度仕事とはなんだろうかと考えさせられる。
……思えば私は、あの時から無意識に気づいていたのかもしれない……
終業後は基本、真っ直ぐ自宅アパートに帰るようにしているのだが、週末に限っては気分に合わせて近くの街を歩いてから帰宅するようにしていた。
いつか誰かがこの羽を見てなにかを言ってくるかもしれない。そんな、二千九百回は諦めたであろう淡い期待を胸に、人生の枷になっている異物を誰かに指摘してほしくて、私は諦めずに徘徊した。
なんでもいい。驚いた顔を見せてくれるだけでいいし、指を差して笑ってくれるだけでもいい。でも少しだけ欲を言えば「オゥ!プリティアンジェル!」と外人さんにも呼び止められたい。
……。
まあ、それはさておき、誰でもいいから本当の私を見つけて欲しかった。
「……それではお先します。おつかれさまでした」
今日は待ちに待った金曜日。
外に出ると少し雪が降る肌寒い天気だったので、風邪を引かないようにいつも通る開かれた道ではない人通りの穏やかな街を通って早めに帰ることにした。
見慣れない看板。見慣れない明かり。見慣れない顔。
通りに並ぶ店舗はどれもシックで大人の雰囲気が満載といった感じ。ブラックコーヒーしか出さないジャズ『風』喫茶とか、なぜかガチャガチャが店先に設置されている男性専門の和風小物&雑貨店とか、『今では』誰も携帯していないだろう音声用カセットテープと再生機しか販売していない怪しい店とか。そんな一見しなくても風変わりな店舗をちらちら見ながら歩く私。すれ違う人々の視線をガンガン捉える。実際は不審者なのかもしれないと薄々感づいていたとしても不審者ではないと自分では思っているので、不審者そうに見てくる一人一人に「そうじゃないんです!」と説明したい……のだけれど、ご存知のとおりこんな性格なのでそんなことは空を飛べてもできる気がしない。そもそもなんで不審者ではないことをいちいち説明しなければいけないのかも分からなくなった私は、結局現実を受け止めながら俯き加減で道の端をすたすたと歩く。はいはい、どうせ私はこの世界のエキストラですよーっと。
はっきり言ってしまうと、ああいう風変わりなお店とかは結構好きだ。なんか落ち着くし、無駄にギラギラしていないのでスゥーっと身体に良く馴染む。見ている時は羽も暴れないのできっと私と同じかそれ以上に好きなのだろう。でも大衆の反応はいささかお寒いようなので、週末であるにもかかわらず行き交う人はまばらだった。
「……うわぁ……」
目に留まったのは、とある店舗のショウウインドウに飾られたウェディングドレスだった。ふわりとした花の装飾が可愛らしくて、口が思わず半開きになる。
「……これ着る人、いるんだよなぁ」
悠然と腰に手を当ててポーズを決める首から上がスパッ!と切れたマネキン。
ガラス面に映るダッフルコートを着た寸胴の自分。
寒そうにカパつく羽。
通りを横切る無表情の人、人、人。
まるでテレビのワンシーンを演じているみたいだった。少し前に流行ったトレンディドラマ。身分と金に縁がない地味なヒロインがイケイケの彼氏と出会う前のシーンみたいな? うわ~、わくわくしてきちゃった~。さあ、なにが起こる? ていうか、なんでもいいから起きろ! お願い! ……なんて思いながら現実の薄ら寒い風を浴びてワタシ苦笑い。ちょっとだけ涙も出てきそうになっている。
幸せになる人とそうでない人の違いを知りたい。
運だろうか。努力だろうか。それとも、容姿?……
いやいやいや、それだけは勘弁願いたい。
私は猫顔というだけで決して綺麗なわけではないのだ。
冬場は乾燥して顔中ぼろぼろになるし、なにより化粧映えしないから『偽装』もできないし。
スタイルなんか『こいつ』の重量のせいで下半身が逞しくなちゃって、もう踏んだり蹴ったりなのさ。
……パタパタ、パタパタ……
可愛い子ぶったって許してやんないんだから。
言っとくけど、私がこうなったのは全部あんたのせいなんだからね。
分かってるの? ねえ、なんとかしてちょうだいよ!
……パタ、パタ、シュン……
まーたそうやっていじけてみせる。今日は同情なんかしてやらないんだから!
で? どうなの? 幸せにしてくれるの? くれないの?
……パタ、パタパタ。
え? 自分でどうにかしろって?
そういうところだよ。自分の都合が悪いといっつも他人のせいにする。
私達って運命共同体だったよね? 私の幸せはあんたの幸せでもあるんだよ?
……パタ。カパカパ。
もう、いいよ。
今日は寒いし、これ以上長居するとあんたの毛も傷んじゃうから、帰ろう。
……パタパタ。ワッサワッサ。
『……あれ? もしかして、クロシマ、さん?』
「え?」
声のする方向に目をやると、そこには紺色のコートを羽織ったスーツ姿の男性が立っていた。
「……俺、真田三朗。覚えてる? 同じ中学にいた、黒嶋白衣さん、だよね?」
「ええ!? あの、ダムシ先輩!?」
学生時代の一つ上の先輩。当時は寝ぐせ頭がトレードマークのぱっとしないメガネ君だった彼が、約十年の時を経て立派な社会人へと成長し、なんと私の前に立っていたのだ!?
「こんなところで再会するなんて驚いたよ。クロシマさんは、ここの近くに?」
「あ、はい。今は仕事をしながら、一人暮らしをしています」
「へえ、そうなんだ。偉いね……」
なにが偉いのかは分からない。けれど、その一言で少し肩の荷が軽くなったような気がした。
念のために相手の視線を観察してみる。まあ、分かってはいたが、当然のようにこの人も背中には無反応だった。
「あの、ダムシせん……じゃなくて真田さんも、今はここに?」
「う、うん」
頭を掻く仕草はあの頃と全然変わっていない。
……こういうの、なんだかすごくほっとする。
「そうなんですか。……で、今はお仕事の帰りですか?」
「……あ、あのさ」
「はい?」
「立ち話もなんだから、そこの喫茶店に、入らない?」
「あ、今日は寒いですもんね。……はい。いいですよ」
古い知人との平凡な再会。
ありきたりな会話。腹の足しにもならないコーヒー。
連絡先の交換。何事も起こらなかった三十分後の別れ……。
求めていた人とは大きくかけ離れていたけれど、その日はとても楽しかった。
それから週末に会っては互いのつまらない出来事を共有するようになり、自然とデートに誘われて、それを繰り返して、同棲することにして、買ってきた生卵のサイズが小さいというだけでちょっとした喧嘩をして、すぐに仲直りして、二年後には予想通りのプロポーズ。
呆気なかった。彼とは間違いなく恋愛をした。この人だと思ったから私も結婚を決意した。でも、あれだけ沈んでいた羽との人生がこんなにあっさりと打開できるとは思っていなかったので、少しだけ物足りないなにかを感じた。不安で仕方がなかったアレも羽の見事なアシストでなんなく越えられて、障害は全て取り除かれた! と思ったのに……
……どうして私にだけ、背中に羽が生えているのだろうか。
……それが分からない限りこの人生は終えられない。そう思ったのだった。
価値観。ものの見え方、捉え方。
全然違う人がいれば微妙に違う人もいて、そんな人達が一つの目的に向かって動くことで社会は回っている。みんなは『生きる』という共通のテーマの中で各自必要なものを揃えるために奮闘し、『なぜ生きているのか』という答えの出ない問いに頭を悩ませつつ、徐々に老い、そして、去っていく。
誰も私の羽を認めてはくれない。でも、一緒に生きている。
夫とはむしろ羽のことを隠していたからうまくいった。
自分が幸せになれたのは、もしかしたら羽の見えない世界で生まれてきたからかもしれないと思った。いわゆる結果オーライというやつだ。なんとも腑に落ちない幕切れになってしまったのは少々残念だけれど、そう考えるようになってからは自分の本心とは裏腹に全てが順調に進んだ。
職場の人との付き合い。ご近所さんとの付き合い。知らない人との付き合い。
そして出産。ありがたいことに二人の子供を授かることができた。長男の行緒は初産ということもあって少し苦労したが、続く長女の衣智子はストーン!と出てきた。産まれた直後から元気のよい妹のほうは成長してからもいろいろと活発な子になり、兄のほうはいつもぶつぶつと独り言を呟く変な子に育った。
そんな二人も今は高校生。あっという間の月日の中でいろいろな経験と成長を遂げた我が子を見つめるそんな私の背中には……あの頃と変わらずにカパつくものがついていた。そして、最近は妙に偉そうな態度でまだ『小さな羽達』に接しているようだった。
愛する我が子の背中にくっついているもの。
二人とも片側にしか生えていないが、正真正銘の羽が毎日忙しなく動いていた……。
私は今日もそんな子達にお弁当を作り、笑顔で見送る。
夫は少し遅れて起床し、新聞片手に出勤。
あらかたの家事をこなして自分もパート先へと向かう。
「ああ、幸せだぁ……」
家族の羽という難題を増やしつつも、私の人生は大きく羽ばたいていた。
「これで空を飛べたら言うことないんだけどなぁ……。ねえ、どうなのよ? そろそろ飛べてもいい頃だと思うんだけど?」
……パタ!? パタパタ。シュン。
羽は両翼合わせて三メートルくらいに広げながら、今日こそはとばかりに激しく動かす。
だがしかし、いくら頑張ってみても申し訳程度の風が吹くだけで、その日も私を宙に浮かすことはできなかった。
「まあまあ、そんなに気を落とさないで。きっといつか飛べるようになる日が来るから、ね?」
背中に繋がれた『もう一つの心』は、涙をぐっとこらえながら今日も私の肩をそっと包み込むのだった。
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