不安
※ ※ ※
叔父は午前中の診察があるため離れの診療所に行ってしまい、家には自分ひとりとなった。
しんとした静寂に満たされたこの環境は、受験勉強にうってつけだろうと思う。
俺は朝食の食器を手早く洗い終えると、自室に向かった。
ちなみに俺の名前は浅砂葵。
色々事情を抱えた17歳ってヤツだ。
現在は学校にも行っていない。
事情その1。父との確執。
正直、俺と父とは仲が良くない。いや、むしろ悪い。
15歳の頃、家を飛び出したが、とある人物と出会ったことで父親との関係改善に努めるようにしている。
が、やはり一度出来た溝のようなものはなかなか修復できないものである。
今まで許せなかった父親の行動がその人物のお陰でずいぶん認められるようになった。
しかし、親子2人きりの生活はなんだか息苦しく、また一向に改善できていない父親との心のすれ違いに悶々とした生活を送っていた。
やがて、なんに関しても興味が湧かなくなり、次第に部屋から出ることも億劫になり、学校に行かない日も多くなっていた。
そんな生活を見かねたのが母の弟である叔父である。
心療内科医でもある叔父は俺と父にある提案をした。
すなわち、叔父の家で暮らすことであった。
その提案を聞いたとき、父は暫し無言でいたが一言俺に尋ねた。
『お前はどうしたい。』
今までは問答無用で物事を決めていた父親だっただけに、この反応は俺にとっては意外な出来事だった。
『…叔父さんの家に行く。』
俺の返事を聞いて、父はひとこと分かったというと、そのまま書斎にこもってしまった。
こうして叔父の家に厄介になって早一ヶ月、今では普通の生活を送っている。
事情その2。学校のこと。
叔父の家で暮らすことになり、一番驚いたのは蔵書の数だ。
医者である叔父の書斎には本が所狭しと並べられていた。
少しすさんだ匂いのする書斎に居ると、なんとなく落ち着くことができ、暫くの間は自分の部屋のように叔父の書斎に引きこもり、本を読み続けていた。
その中で次第に医学…特に心療内科の世界に興味を持つようになった。
その様子に気づいた叔父は再びある提案をした。
『葵君、医学に興味があるかい?』
『そうですね…。医学にも興味はありますけど、心って面白いですね。心理学とか興味あります。』
『そうかい。じゃ、勉強してみるかい?』
『え?』
『実は僕の母校はここから近い高校なんだけど、そこの先生が個性的なんだよ。とても面白いよ。』
聞けば叔父の母校には心理学のスペシャリストである先生も何故かいて、叔父はずいぶんとその先生に世話になったらしい。
自由な校風で、図書館も充実しているからいっそのことその高校に転学してはという提案だった。
正直、高校に行かなくては就職しようにも出来ないだろうし、元の高校に通うためには実家に戻らなくてはならない。
そんな打算的な考えで、俺は叔父の母校に転学することにした。
もちろん、転学など簡単にはできないことであり、俺は転学試験を受けることにし、猛勉強を始めたのだった。
…とはいうものの、試験勉強は一向に芳しい成果は上げていないのだが。
そして事情その3。俺は人ならざるものが見えてしまう。所謂霊感少年というやつだ。
どうしてこんな体質なのかは分からないが、俺は「物の怪」というヤツが見える体質だ。
それは死んだ人間―幽霊という場合もあるし、古い物の化身だったりするし、あるいは妖怪と呼ばれるものだったりする。
子供の頃は、そういったモノと人間との区別が付かず、周囲の大人や友達に気味悪がられたりしていたものだ。
特に科学者である父には、そういった世界を理解してもらえず、そんな事情もあって父との確執は広がっていったのかも知れない。
俺も大人になり、そういったモノとの関わり方というのを器用に身につけたお陰で、中学・高校の生活はいたって平凡な学生を演じられたと思う。
が、そこには見えるものを見えないように、聞こえるものを聞こえないようにする努力の上に成り立っていると言えるだろう。
そんなわけで、この家に来てもそれを演じようと思っている矢先に、昨晩のような出来事があったのだから、憂鬱になるのも仕方が無い。
「さーて、やるかぁ!!」
自室の机に座ると、俺は大きな声を上げ、気合を入れた。
※ ※ ※
俺は悶々としていた。
俺は不安だった。
心に鉛が入ったような、何か言い知れぬ不安が胸に閉め、どうしていいのかよく分からない。
だからその不安を拭い去りたくて、もがくように勉強をする。
が、成績は一向に上がらない。
あと1週間をきった転入試験。
これに落ちてしまえば俺は高校中退となってしまう。
それだけは避けたいという思いが強くあった。
一方で、もうどうでもよいのではという考えも頭の片隅にあった。
それは甘い甘い誘惑。
だけど、それではいけないと頭の片隅で警鐘がなるから、やはり勉強する。
寝ても覚めても勉強。
どうしてこんなことしているのか。
気づくと俺は螺旋階段をただひたすらに登っていた。
当てもなく、暗闇の階段をひたすら登っている。
光が見えても一向に近づくことが出来ない。
ふと見ると階段の先が崖となり、ガラガラと音を立てて崩れていく。
(やばい!!)
そう思って引き換えそうとするがそれもあとの祭り。
俺の体は中に浮き、そのまま奈落の底へと落ちていった。
「うわわああ!!」
堪らずに上げた自分の声に驚いて意識が覚醒した。
真っ暗な部屋の中、デスクライトだけが煌々と光っている。
俺はその光に一瞬めまいを感じて目を細めた。
まだ意識がはっきりしない。
「葵君、大丈夫かい?うなされていたようだよ」
「あ…叔父さん…。」
いつの間にやら部屋の襖を開けた叔父が、廊下に立ったまま声をかけていた。
そのとき自分が眠っていたことに気づき、先ほどのことは夢であることを悟って俺は安堵のため息を漏らした。
どうやら昨日の睡眠不足がたたってか、勉強中に眠ってしまったらしい。
「俺…寝ていました?」
「うん。夕食が出来たからと思って呼びに着たよ。」
「あ、すみません!!お手伝いもしないで!」
「いいんだよ。気にしなくて。それよりシャワーを浴びておいで。」
叔父に指摘されて気づいたが、体中に汗をかいていて確かに気持ちが悪い。
「分かりました。ありがとうございます。」
そういって俺はのろのろと椅子から立ち上がった。
「ねぇ、葵君。そんなに根を詰めていては体に悪いよ。君は焦りすぎだよ。そんなに焦らなくても、大丈夫だよ。」
高校進学を提案したことに責任を感じたのか、叔父が苦笑まじりに言った。
「でも…勉強しないと。俺、頭悪いし。」
「体を悪くしては元も子もないだろう。顔色が悪いから今日は早く寝たほうが…」
「いえ、大丈夫です。心配かけてすみません。」
叔父の言葉をさえぎってきっぱりと言った俺を見て、叔父はさらに何かを言おうとしたが止めたようだった。
ただ、早くシャワーを浴びてご飯にしようとだけ言って、そのまま台所のほうへ消えた。
その後姿を見送って俺は叔父にはこの不安が分からないだろうと思っていた。
どこにも属さない焦りや居場所のない不安など、叔父には無縁だろうから。
気を取り直し、俺はタオルを出そうと押入れを空けたとき、俺は思わず声が漏れてしまった。
「あ…」
ソレも俺の姿を認めると口をあんぐりとあけて俺を見上げた。
体長15cm程度の緑色したソレは、琥珀に光る三白眼にとがった口元を引きつらせていた。
山伏のような格好をし、人間ではないのに二本足で歩く姿はモノノケ意外の何でもないだろう。
暫くお互い直立不動の状態であったが、やがてソレは何事も無かったように押入れの奥に消えていった。
「……やばい。」
俺は顔を強張らせてポツリと呟いた。
ばっちりと目が合ってしまった。こういうときはろくでもないことが起こるのだ。
厄介ごとに巻き込まれない方法はないものかと考えながら、重い体を引きずりつつ俺は風呂へと向かった。
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