深夜の会話
―まだかの?まだかの?-
―今年こそは見られるじゃろかの?-
―もう何年見れておらぬかの?ー
―はて、何年じゃったかのー
うるさい……。
人の声が耳について、俺は目を覚ました。
障子からは月明かりがぼんやりと淡く差し込んで部屋を薄明るく照らしている。
時計を見ると針はまだ3時を示しているのが、薄明かりの中で分かった。
俺は気を取り直して布団を深くかぶると、再び眠りに付こうとした。
しかし、会話は一向に止まる気配がない。
しかも気にしないようにしようと思えば思うほど耳に入ってくる。
どうやら声の主は2人。
ひそひそと喋っているつもりなのだろうが、人が寝静まったこの時間では生憎部屋に響いてしまっている。
―あれを見ぬ春は何度目ぞ。-
―何度目かの?かれこれ20年余りかの?-
―そんなに経つのか。あっという間のようじゃのー
ーかの人が居なくなってからじゃてなー
―早いのー
―早いのー
叔父とその知り合いが話しているのだろうか?
それにしては叔父の声ではないような気がする。
叔父はまだ30代だ。対して声の主達はどう聞いても70歳は越えているだろう。
明日はまた早く起きて編入試験の勉強をしなくてはならないというのに、このままでは寝不足になってしまう。
俺は延々と続く会話に我慢できず、とうとう意を決して俺は布団からがばりと身を起こし、居間へ通じる襖を開けた。
が、居間のほうから何の物音もせず、明かりも付いていなかった。
「居間からだと思ったんだけど…気のせいか?」
ぽつり呟いた自分の声が闇に響く。
居間までの喧騒が嘘のように途端に話し声は途絶え、辺りは一気に静寂に満たされた。
「……おかしいなぁ?」
俺は首を捻ると再び襖を閉め、布団へともぐりこんだ。
静かに目を瞑る。
うとうととし始めたとき、確かに俺は声を聞いた。
ー今年こそは出してくれまいかのー
―出してくれまいかのー
何の話をしているのか。
俺には理解できないと思いつつ静かに俺は眠りに落ちていった。
※ ※ ※
いつもどおりの朝。
春まだ浅いが、確実に暖かくなっている。
窓からは日が差し込み、遠くから小鳥のさえずりが聞こえている。
朝、昨日のことは夢だったのかと思うほど、いつもどおりの朝だった。
俺は顔を洗うとすばやく着替えを済ませ台所に向かった。
「おはようございます。」
「葵君、おはよう」
叔父が台所でハムエッグを作りながら挨拶する。どうやら朝食の準備をしているようだ。
初めはなんとも違和感を感じたものの、居候として一ヶ月余りをこの家で過ごしているともうすっかりなじんだ光景となっていた。
叔父は俺の死んだ母親の弟に当たり、代々続く町医者を継いでこの家を守っている。
叔父と言ってもまだ30代そこそこの若さであるのだが、医者の仕事と骨董が趣味というちょっと変わり者のせいか、いまだ独身である。
俺はいつものように朝食の準備を手伝う。といっても、できることと言えば食器を並べたり、味噌汁をよそったりという程度なのだが。
一通り朝食の準備が終り、叔父と二人向かい合わせに座り朝食を食べる。
「いただきます」
焼き魚に納豆、ご飯と味噌汁にハムエッグ。
パンに牛乳だけを流し込み、慌しく学校に向かっていた一ヶ月前の生活が嘘のように、今では規則正しい生活を送っている。
「ん?どうしたんですか?」
叔父の視線に気づいて俺はハムをつまんだ箸を止めた。
「いやー。だいぶウチに慣れたのかなと思ってね。」
「え?」
「初めはほら、朝食食べなかっただろう?成長期の男の子なのに、パンだけでよくもつと思っていたんだよ。」
「そうですか?」
「うん。いい傾向だね。……でも、ちょっと顔色が良くないね。ちゃんと寝れているかい?」
流石医者だけあって、叔父には寝不足であることがばれてしまっているようだ。
俺はなんと返事をしていいかわからず、一瞬答えるのを躊躇した。
「えっと……」
だが、ただでさえ夜遅くまで勉強をしているとやんわりと注意されてしまうのだ。
変な声がしたから夜寝れなかったなどと言ったらいらぬ心配をかけてしまうかもしれない。
「勉強もほどほどにしないと、体を壊してしまうよ。」
「は……はぁ。気をつけます……。」
「そうだ。折角だから気分転換でもしたらどうだい?」
正直、試験のことが気がかりで一瞬一秒でも勉強したいと思うが、柔和な叔父の笑顔を見るとしぶしぶそれに従わざるをえない。
ふと昨日のことが気になって一応叔父に聞いてみることにした。
「そういえば叔父さん、夜にお客さんでも来ていました?」
「え?夜かい?」
「はい」
「昨日の夜は夜間救急も無かったし。通常診察の後は患者さんは来ていないよ。もちろん来客も無かったよ」
「そうですか……。じゃ、電話とかしていましたか?」
「ん?何時頃かい?」
「えっと……3時頃だったかと思います。」
俺は昨日目覚まし時計を確認した時刻を思い出して言った。
叔父はその時間は流石に寝ていたらしく苦笑交じりに答えた。
「その時間はとっくに夢の中に居たよ。」
「そうですか……。」
まぁ、案の定と言えば案の定の回答に、俺は内心ため息を付いていた。
(またか。)
今に始まったことではないが、やはり気持ちのいいものではない。
そして次の叔父の一言は、俺の気持ちをさらに憂鬱にさせるものであった。
「そうそう。電話で思い出したんだけど、昨日義兄さんと電話で話したんだよ。葵君の様子をずいぶん心配していたよ。」
「え!?父さんからですか?」
あの父に限って俺の心配などするわけは無いだろう。
たぶん父から電話があったのではなく、叔父が父に電話したのだろう。
「もうこっちに来て1ヶ月経つだろう?一度電話してみたらどうかな?」
「えっと……」
「ね?」
「……はい。」
この満面の笑みで言われてしまったら、俺の良心が断ることを許してくれない。
仕方なしに承諾すると、叔父は満足したようにさらににっこりと微笑むと、食器を片付け始めた。