修行、始まる
五章、修行、始まる
「いきなり杖を使わせた?―――ふむ、その杖を持ってきなさい」
アイリンはエンリケからマイヤーの授業の様子を聞いていた。エンリケが持ってきた杖を受け取り、一目見るなり「ははーん」と彼女は納得した声をあげる。
「これは杖じゃないな。よく似せてあるが、魔力の暴走を防ぐだけの魔法道具だ。持っている者の魔力をわずかに吸い取る。そもそも、魔法使いは杖無しでも魔法は使えるものだし。……なんだ、驚いているな」
「いえ……その、魔法使いは全員杖を持っていると思ってました」
アイリンは首を振り、手のひらを出すとそこに炎を出して見せた。
「ほらな」
「あ、ああ……」
「落ち込むことは無い。多くの人間がそう思っていることだろう。まずは基本的な知識から教えようか。ああ、メモは取らなくていい。基礎だからな。――そう、杖は魔法使いの象徴に過ぎない。あったほうが魔法を使いやすいという利点があるが、無くてもいい。ただ、持っていれば魔法使いだと周りの人間にも分かりやすいな。基本的には魔力を持っている人間が魔法使いだ」
「そういえば先生、『魔導師』と『魔法使い』の違いは何ですか?」
「魔法使いは今説明したとおりだが、『魔導師』は特別な資格を持っている者が名乗れるステータスだ。魔法で生計を立てる者は『魔導師資格』を持っていなければならない。金を取らなければ必要は無いな」
エンリケは、「だから母様は『魔導師』ではなかったのか」と合点した。
「そして、今『魔力』という言葉を使った。本来目に見えている法則とは別の源流を持つ力。身の周りにある……例えば火。これは熱のエネルギーの塊だ。魔法使いは『魔力』に命令を与えて、火という別のエネルギーに変えることが出来る。持っている魔力の量が多いほど、必然的に出力も大きくなるわけだが」
アイリンはあごの下に手を添えてエンリケを見た。
「エンリケの場合、その出力に問題があるからね。けれど、魔力の暴走を止めることは出来るから安心しなさい」
そしてアイリンはエンリケに目を閉じるように言った。
「しばらくそのままだ。聞こえる音を言ってごらん」
エンリケは耳を澄ませて、答えた。
「……風の音と、人の話し声と、鳥の鳴き声です。外を歩く誰かの足音も」
普段気にしたことの無い些細な音は、こうして目を閉じると違って聞こえる。人は何も見えなくなると耳が鋭くなるんだな、とエンリケは思った。
「ふうむ……」
アイリンには何か別の音が聞こえているのだろうか?エンリケはそっと片目を開けて師匠を見た。彼女も目を閉じて集中している。と、
「目を閉じなさい」
ぎくっとエンリケは身動きして、慌てて目を閉じた。アイリンは目をつぶったままだというのに、なぜ分かったのだろう?
(ううん、他に音なんて聞こえないけどなあ……)
三十分ほど経つと、アイリンが目を開けていいと言った。
「何か聞こえたか?」
「いえ……」
エンリケは力なく答えた。それを見てアイリンが苦笑する。
「まあ、すぐに出来るわけではないからな。……私が君に聞いて欲しかったのは、魔力が流れる音、だよ」
「……えーと」
エンリケは眉尻を下げて頬を掻いた。
「よく、わかりません」
「ふむ」
アイリンは紙を取り出すと、簡単に図を描き始める。
「物が落ちたり、動いたりといった物理法則があるな。例えばグラスが床に落ちたらどうなる?」
「わ、割れます」
「音は?」
「ばりーん、でしょうか」
そうだな、とアイリンはうなずいて、図に割れたグラスの絵と音の表現を描き足した。
「では、暖炉の火の音は?」
「薪のはぜる、ぱちぱちとした音です」
「そうだな」アイリンはそれも描き足す。
アイリンが何を伝えたいのか、エンリケは意図を量りかねてじっと彼女の顔を見つめた。
「つまり、グラスを割った者にはガラスが砕ける音が聞こえる。暖炉を持っている者は薪が燃える音を聞くことが出来る。それと同じだよ。身体のうちに魔力を持っている者には、その音を聞くことが出来る。魔力は、その法則が適用されるのが魔法使いに限定されているだけで、身の回りに溢れている現象と大差ない。要は気づくことが重要だ。気づいてしまえば、後は楽になる」
アイリンは人体図を描き、その中に血管のように線を巡らせた。
「今日はイメージだけでも持てればいい。さて……」
図を描くペンが止まる。
「手を出してごらん」
エンリケは手のひらを上に向けて出した。すると驚いたことに、皮膚の上で白い線が踊っているではないか。
「君の魔力の流れだよ。皮膚の上から見えるように光らせてみた」
線はすぐに消えてしまったが、エンリケの目にはその残像がまだ揺らめいていた。それにしてもいつこんな魔法を使ったのだろう。アイリンはずっと図を描いていたはずだ。
「ふふ、魔力の音が聞こえるようになれば、私がいつ魔法を使ったのかも分かるようになるんだがね」
アイリンはエンリケが考えることなど見通しているようだ。
「ああそれと」
アイリンは紙から目を上げて、すっと視線を横に向けた。
「迎えが来たようだな。今日はここまでだ」
「えっ、もうですか?」
エンリケは驚いた。まだ始めて一時間も経っていない。
「初めから詰め込みすぎるのは良くない。なにより、もうすぐ剣術の稽古が始まるだろう」
「その通りだ」
フランクが立っていた。エンリケは目を丸くする。
「いつ来たの、フランク」
フランクは呆れたように腰に手を置いた。