アイリン、出立
十三章(その3)、アイリン、出立
翌朝、アイリンは出立した。長旅用のローブを羽織り、腰に杖をさした彼女の顔は、百戦錬磨の魔導師のそれだった。風がアイリンの前髪を持ち上げると、特徴的な弓の刺青がのぞく。
「では、行ってくる」
アイリンは短い挨拶と共に上空に舞い上がった。エンリケはその姿が見えなくなるまで見送った。
(僕は、もっと強くならないといけない。師匠の仕事の補佐ぐらい、出来るようになりたいな)
エンリケは言われた通り、アイリンの部屋にある戸棚を整理することにした。アイリンの部屋は、散らかっているわけではないが物が多い。ほとんどが魔法道具やら書物だが、エンリケには理解できないような代物もあった。
「で、この戸棚を整理するんだよな」
棚の戸を開けると、ごとん、と何かが落ちてきた。エンリケは「うわ」と叫んで後ずさる。
「なんだこれ――って、これ、師匠が言ってた本じゃないか」
探すまでも無く見つかってしまった。アイリンはどこにやったか分からないと言っていた。こんなに分かりやすい場所にあったのに。
「師匠も案外抜けてるなあ。でも、とにかく、この本は僕が貰っていいんだよね」
エンリケは『精霊魔法・召喚から従属まで』を拾い上げ、何気なしにページをめくった。すると、中からぽとりと何かが滑り落ちてくる。
「封筒だ……?」
薄茶色の封筒には、達筆な文字で『エンリケ』と書いてある。エンリケは驚いて思わず二度見してしまった。
「僕宛?師匠が書いたのかな」
エンリケはびりりと封を破き、中から紙を取り出した。
エンリケ
この魔道書をはじめ、私の蔵書は君に譲ることにする。修行に役立てたまえ。
「……師匠?」
アイリンは最初から、こうするつもりだったのだろうか。戸棚を掃除しろと言ったのも、この為に。でも、何故。エンリケは妙な胸騒ぎを覚えた。戸棚の中身を全て出し、種類ごとに分ける。そして一番奥から、厳重に封印された紙束が見つかった。封印はエンリケが触れることで解け、彼は中身を読むことが出来た。それは誰かの手記のようだったが、読んでいくうちにエンリケの顔は青ざめていった。
(もしかしたら、師匠は―――)
もう、戻って来ないかもしれない。
アイリンは風を切って飛びながら、どこからか向けられる、自分に対する敵意を感じていた。アイリンが街を出るのを見計らっていたのか、それとも偶然居合わせただけなのか、いつの間にかアイリンと並走するように飛ぶ、幾つもの黒い影があった。しかし、姿をかくしているので、アイリンに見ることは出来ない。
(何かがいる。私の近くに確実に)
アイリンは杖を腰から抜いた。
(魔力を感じない。となれば、先日マドーラ・チサを襲った魔物と同系統の奴らか)
アイリンは一度止まると、手近な雨雲を自分のもとに引き寄せた。杖先で小さく凝縮させ、ぷるんとした水球を作り出す。
停止したアイリンは襲いやすい。潜んでいた魔物はこっそり喚起の声をあげた。この女を殺せば、主が喜んでくれる。
アイリンは浅く吐息を漏らしながら、不敵に微笑んだ。
「私を甘く見てもらっては困る。貴様達など、この水玉一つで十分だ」
アイリンは軽く杖を振る。すると杖先で震えていた水球が、突如として爆発した。飛散した水は一人でに氷となり、魔物の手足や胴体、翅を貫く。
ギャ、ギャアアアアアッ―――
魔物は叫びながら、身を捩じらせた。このまま、何の攻撃も出来ずに果てるのは、主を悲しませる。だから、せめてこの鋭い鉤爪を、女の肌に突き立ててやりたい。
「貴様、まるで人間のような悲鳴をあげるのだな」
アイリンの言葉に、魔物はかっと目を見開いた。
ギッ、ギギギ……アタリマエダ。ワレハ主ニ、コトバヲサズカッタノダ。
「ほう」
アイリンは目を細めた。
人語を解する魔物も、いるにはいる。けれど、目の前でのたうっている魔物はどれも小物。知性は家畜並みのはずだ。
「そうか、そうなのだな」
アイリンは魔物の血しぶきを避けながら、独り言のように言った。
「貴様も、主の身体に取り憑く、召喚された従僕というわけか。主から知性を受け継いだな」
その喋る魔物以外は、皆絶命して落ちていった。この魔物はしぶといようだ。
アイリンは表情を動かすことも無く、ひゅんと杖を振った。すると、魔物の身体に食い込んでいた氷が溶け、蒸気になった。熱い蒸気に。
クッ、サッキカラフクザツナジュツバカリ、ツカイヤガッテ。
「何を言っている」
アイリンは片眉を上げながら言った。
「私が先ほどから使っているのは圧縮の魔法だけだ。こんなもの、魔法を習いたての子供にもできる。貴様は、そんな低級の技で死ぬのだよ」
魔物が鉤爪を振るうよりも早く、その醜い肢体が膨れ上がる。アイリンはその黒い風船のようなものを蹴り上げた。これから飛び散るであろう残骸を浴びたくないからだ。ややあって、魔物は周囲の低気圧に耐え切れず、パンッと破裂した。後には、魔物の命であった魔石が落ちてくる。
アイリンの使った魔法。その言葉通り、彼女は一種類の魔法しか使っていない。具体的に言えば、雨雲を凝縮させた時と、蒸気を圧縮させた時だけだ。爆発した水は急激に圧力が下がったことで冷えて氷となり、氷は魔物の高い体温でひとりでに溶ける。そしてできた蒸気を圧縮して破壊力をあげ、あとは魔物を打ち上げた時に圧縮を解いてやる。それだけのこと。アイリンは最小限の魔法で最大の効果を得る。
余裕の笑みで魔物を見ていたアイリンは、その魔石を見ると表情を変えた。
「……この魔石は」
手に受け止めて、その琥珀色の光を見る。
「ツルカか?この魔石の作り主は…・・・」
カフカ家が多くを保管していたとしても、一部は市場に出回る。その一つが、彼らの手に偶然渡り、使われたのだろう。
アイリンはくっと表情をゆがめた。
「私の親友を、よくもこのような形で貶めてくれた」
アイリンは魔石を懐にしまうと、速度を上げた。




