魔導師アイリン
二章、魔導師アイリン
カフカ家の「フランク坊ちゃんじゃないほう」の子息であるエンリケ―――領地の中ではだいたいこういう認識をされていた―――に、魔法が目覚めた。これは一つの事件だった。何かの間違いではないか、と使用人たちも、エンリケ本人でさえそう考えたが、この辺り屈指の魔法使いであるツルカが言うのだから、これ以上の根拠があろうか。
「けれど……一つ問題があるのです」
ツルカはこっそり夫にささやいた。
「エンリケの魔力――私が感じたところ、どこか異質な気がして。勿論、魔力には人それぞれ個性がありますから、当然なのかもしれないのですけど」
ツルカは楽になった身体を見下ろして言った。
「私の身体を治したのは、エンリケの魔力で間違いはありませんわ。カリストの力をあの子に流し込んだみたいに、今度は私に魔力が流れて来たの。すうっと身体のだるさが無くなって……当分は寝込まないで良さそう」
「エンリケに、魔法か……」
カールには魔法のことは分からない。しかし、これは喜ばしいことなのではないか?こうして妻の体調も良くなったことだし。
「魔術教師が欲しいと言っていたな。お前が教えるのではだめなのか?」
彼がそのように考えるのも当然だった。しかしツルカはなんとも言えない表情で首を振る。
「あなたもご存知でしょう。私の特殊な体質を……。教師には向かないと思います」
カールはうなった。
「ふむ、ならば、領内で魔法に長けた者を探してみよう」
「あぶないっ」
ガストンとフランクは飛びのいた。彼らが一瞬前まで立っていた場所には、粉々になった木片が突き刺さっている。
「あわああっ」
エンリケは突然爆発した木剣の残骸が深々と地面をえぐっているのを見ておののいた。ガストンが困ったように頬をかく。
「エンリケ坊ちゃん、今日の修練はここまでにしましょうか」
「お前の魔力の暴走には、付き合ってられないよ」
フランクは呆れている。とはいえ、エンリケに魔法が目覚めたことが少し羨ましいらしく、耳の端が赤い。
エンリケはうなだれたが、たしかにいつ爆発するかも分からない爆弾のような自分は、迷惑にならないように静かにしておくべきだと思った。
「じゃあ、外に出てます……」
エンリケはしおしおと引き下がった。
(魔法の力がこんなものだったなんて)
その日から、エンリケの退屈な日々が始まった。母のように、病気の人を治したり、領地に迷い込んだ魔物を退治したりと、すぐに人の役に立てるのかと思っていたが、そうでもないらしい。発現したての魔力は危険で、ちょっとしたきっかけですぐに何か事故を起こしかける。さっきも、剣稽古をしていたら急に木剣が膨らんで、ばーん、だ。
エンリケは、ここなら大丈夫だろう、と屋敷から離れた草原をぶらつくことにした。周りの草が爆発したって誰も怪我をしない。エンリケを指導してくれる魔法使いが見つかるまで、こういう毎日が続く―――今日で既に三日。
使い慣れた木剣がだめになってしまったので、しばらくは何をして過ごせば良いのか分からない。カリストの森に行ってみたけれど、森の中で事故を起こすのは嫌だったので、すぐに引き返してしまった。カリストにちゃんと助けてくれたお礼を言いたいのだけれど。
仕方ないので、本を何冊か持ち出して読むことにした。もともと読書は好きだったし、たまには一日中本と向き合うのも悪くない。
「はあ、魔法を教えてくれる先生って、どんな人なのかなあ?」
ガストンのように少し厳しいのか、それとも母のように穏やかなのか……。世間を知らないエンリケには、そもそも一般的な「先生」の想像がつかない。つたない想像をめぐらすうちに、エンリケはふと不安になった。
本当に、自分は魔法が使えるのだろうか?なにせ、何事においても平凡にやってきたという自覚はあるのだ。けれど、同じくらい期待してしまう気持ちもあった。だって魔法使いだ。普通の人とは、ちょっと違うのだ。皆に頼ってもらえる。人から期待と羨望のまなざしを向けられるって、どういう気持ちなのだろう。―――フランクなら知っているだろうか。『将来が楽しみなフランク坊ちゃん』なら。
無意識に、ページをめくる手に力がこもった。
ぼっ!
「熱いっ!」
エンリケは叫んで本を取り落とした。何が起ったのか、目の前をよく見てみると―――
「ああっ」
読んでいた本が、突如として炎に包まれているではないか。エンリケはそれが自身の魔力が暴走して起ったのだと、すぐに悟った。しかしだからと言ってどうすれば良いのか分からない。
地面に落ちた本から、炎の触手が伸びていく。火が周りの草に移って燃え広がっているのだ。エンリケはあたふたと火を踏みつけてみたが、靴の裏が焦げただけだった。
(どうしよう―――)
屋敷まで走って、助けを求めようか?けれど、火は彼が思うよりもずっと早く、草地を渡っていこうとしていた。間に合わない。
灰色の煙がもうもうと立ち上った。その切れ目からちらりとカリストの森が目に入る。
(このままじゃカリストが死んじゃう!)
エンリケは森に向かう炎だけでも食い止めようと、躍起になって炎を踏んだ。空しい抗い。煙が口や鼻に入り、エンリケは激しく咳き込んだ。
この煙を見て、屋敷の誰かが気がついてくれないだろうか。エンリケは祈る気持ちで灰色の煙を見上げた。するとその視線の先に、不吉なとぐろを巻く雲が、所々を光らせているのが見えた。重く響くごろごろ……という雷鳴も。
(あ)
エンリケの思考は停止した。もはや炎のことなど彼方へ忘れ去り、ただ一つ、今にも稲妻を落としそうな空模様に、その目は釘付けになっている。
(雷、雷、雷だ)
エンリケの目には、こちらに向かって落ちてくる稲妻の電撃が、やけにゆっくり見えた。蛇のようにうねりながら、こっちに向かってくる―――。
(あれ?なんだか本当にゆっくりだぞ?)
エンリケは産毛が逆立つのを感じながら、その稲妻を見ていた。とても近くまで近づいてきて、最後にばちっと激しい電撃の音をさせて消えた。そして。
エンリケの目の前で、とん、と軽やかに降り立ったのは、すらりとした一人の女だった。
使用人が草原の火事に気づき、知らせを受けたカールとツルカが急いで外に出た時。
「エンリケ!」
彼らが目にしたのは、茫然自失としたエンリケが、見慣れぬ魔法使いに担ぎ上げられて運ばれてくるところだった。
「放心しているだけだ。怪我は無い。火も私が消した」
魔法使いはまるで男のような口調で淡々と話した。
「この子はカフカ家の子息と見受けたが、アズブルク地方の領主殿のお屋敷は此方だろうか?」
尋ねる彼女にカールが進み出た。
「それは義兄のことでしょう。うちもカフカに違いは無いが、分家でね」
「あれ……間違えましたか……そうですか、これは失礼」
「何か御用だったのでしょうか。どうやら息子が世話をかけたらしい。お礼ついでに休まれて行ってはいかがかな。本家には私から連絡しましょう」
魔法使いが「それはありがたい」と了承したので、彼らは客人を屋敷に迎え入れた。
「実は、友人に会いに来たのです。魔法学院時代の同級生が、カフカ家のご令嬢でして」
魔法使いは口調をやや丁寧に語った。カールとツルカは顔を見合わせた。
(……え?)
(カフカ家の……魔法使い?)
ツルカはじっと魔法使いの顔を見つめた。短い黒髪に、少し日焼けした肌。試しに、頭の中でその魔法使いの髪を伸ばし、肌を白くして眼鏡を掛けてみた。
「……もしかして、あなた、アイリンなの?」
「む?」
魔法使いは驚いたように目を見開き、ツルカの顔を凝視した。そして何かに気がついたようにあんぐりと口をあけた。
「ま、まさか、ツルカなのか?……随分と様子が変わったな。寝込んでいなかったから分からなかったぞ」
「あら、私だっていつもベッドにいるわけではないわ。それにしても、やっぱり軍に入ると随分印象が変わるのね。全くアイリンだと気づかなかった」
「ツルカこそ、結婚すると人は変わるのだな。それにしても、じゃあ本家は兄君が継いだのか。てっきり本家の当主はツルカだとばかり思い込んでいた」
カールが気まずげに咳払いしたので、アイリンは慌てて「差し出がましい真似を」と頭を下げた。
「あらいいのよ。私が縁談を蹴った結果だもの」
うふふ、と笑うツルカに、アイリンも微笑んだ。
「幸せそうで何よりだ。私には浮いた話が一つも無い。職業上、やはり難しくてね。もっとも、五年前に退役して、今はフリーなのだが」
それより、とアイリンは懐から何か包みを出すと、
「約束がもう……二十年越しになってしまった―――けど、許してくれるか?」
「もしかして……」
包みから漏れ出た金色の光に、ツルカは息を飲んだ。中から出てきたのは、小さいが一目でその価値が分かるような彫刻だった。雲の形をした台座から塔のような建物が伸びている。ツルカより先にカールが驚いたように声をあげた。
「『テュール・トーナメント』のトロフィー!」
カールが思わず口にしたその『テュール・トーナメント』とは、世界各地で行われる魔法使いの大会の中で、最も権威あるものの一つに数えられる。魔法のありとあらゆる分野を極めなければ、優勝はおろか出場自体も難しい。魔法に明るくないカールでもその名前を知っているほどだ。
「軍を退役してから、好きなことに打ち込めるようになった。この歳だし、諦めようと思っていたがやや未練があってね。でもこれですっきりした」
アイリンは「学院時代の約束を、やっと果たせたよ」と笑った。
「ところで、あの子……エンリケ君、といったかな。見たところ、だいぶ魔力が暴走しているようだ。発現して間もないのか」
三日前だと聞いて、アイリンは苦笑した。
「それでは仕方ないな。魔法はツルカが教えるのか?」
「いいえ、今アズブルクにいる魔法使いに依頼して、その到着を待っているところよ」
「なるほど。―――さて、長居するのも申し訳ないし、私はそろそろお暇するよ。もし私に用があるときは、街のギルドに問い合わせてくれ。数日この辺りを観光していくのでな。近くにはいるだろう」
アイリンが表の外に出ると、門のところにエンリケが立っていた。
「あの……その、ありがとうございました」
エンリケはもじもじと言って頭を下げた。アイリンは「うむ」と軽くうなずいて、親友の息子の顔を見つめた。少し気が弱そうな面構えだが、根は素直なのだろう。最も、魔力の暴走で少々混乱しているようではあるが。
「……エンリケ君」
「はっはい」
「―――然るべき師のもとで、然るべき修行を受ければ、魔力の暴走も止まるだろう。君とはいつか魔法使い同士の話をしてみたいものだ。ではね」
アイリンは颯爽と踵を返し、風にローブをはためかせながら門をくぐった。次の瞬間には、小さな電気の弾ける音とともにその姿は上空にあり、エンリケといえばまたもや雷(ともいえないほど小さかったが)を目にして、すっかり青ざめて見送ったのだった。