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ラ・カンパネラ  作者: Opus
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菩提樹の家 Opus 6

「二十年前、私は、ハンス・ベルンハルトに逢った。彼の居場所を調べて、ドイツのカイザースブルクに行った。彼は小さな、居酒屋のようなものをやっていた。今もあるのなら、あなた方も行ったかも知れないけれど……。驚いたことに、店の中には、セミコンサートのグランド・ピアノがあった。そのピアノは、亡くなった母の肖像画に描かれているベヒスタインだったわ」

 渉が、クルッと首を回した。きっと、マリーの母の肖像画を探したのだろう。目当てのものは、見つからないようだ。

「もし祖母が生きていたら、あの戦争の混乱の中で、どうやってストラスブールからグランド・ピアノを持ち運んだのかと驚いたはず。でも、きっとハンスなら、どんな不可能なことでもやりかねないと付け加えたでしょう」

 マリーの口から出る言葉は、死んだ実の父への配慮をなくし、憎しみ以外のものは感じられない。

「私は、ハンスの店にあるピアノが弾きたくなり『ピアノを弾かせていただけない?』と頼んだの」

「ハンスはどうしました?」

 渉と私は、偶然にも声を合わせて、同じ言葉で訊いていた。私たちは、どこの誰かわからない初めての客には、ハンスがピアノを弾かせないのを知っていたからだ。

 マリーは、二人で同じ言葉を叫んだ私たちを見て、微かに嘲り笑った。

「ハンスが何て言ったか? 私は、ハンスの店での出来事は、今もはっきり覚えているわ。だって、幼い時から両親がいなかった私には、物心ついてからの親の記憶は、あの日と母が死んだ時しかないのだから」

 マリーは、両親の記憶もほとんどなく育ったのだ。

「ハンスは『ちょうど調律を終えたばかりだから』と、ピアノを開けてくれた」

 マリーは驚いた様子の私たちを見て、また話し続けた。

「私は、彼のベヒスタインを弾いた。幼い時からハンスに対して持ち続けた思いを込めて、ピアノを弾いた。曲は、ハンスが得意とし、彼がアンコールでよく弾いたというリストの『ラ・カンパネラ』だった。私が、ピアノに込めたのは、もちろんハンスへの憎しみよ。私も、ハンスと同じピアニストなの。ハンスは十歳でデビューしたそうだけど、私もパリ音楽院で学び、十六歳でデビューした。祖母の世話や介護もあって、コンサート・ピアニストの道は諦め、ストラスブールでレッスン・プロとしてピアノを教えているけど、ハンスの前で弾いた『ラ・カンパネラ』は、納得がいくものだったわ」

 マリーが、ハンスと会ったと知ってから、私の意識は次第に鮮明ではなくなっていた。二十年前に、ハンスと実の娘が逢っていたなんて事実に驚くしかなかった。

「演奏が終わった私に、ハンスが何て言ったか、わかる? 『あなたのピアノは哀しい音がする』だったの。私は目一杯、ハンスへの憎しみを伝えたつもりだけど、通じなかった。それでね、ハンスに私が娘だとわかるか試してみたの。ハンスが、私を娘だと気が付いたら、私のピアノに哀しい音がするのは、誰のせい? とその場で責めてやるつもりだった」

 渉が、マリーの言葉に《違う》と表すためか、首を横に振っている。

「私は、ピアノから立ち上がり、髪に触れ偶然を装い、左耳のピアスを落とした。ちょうど、こんな風に……」

 マリーは着けていた左耳の大きな貝のピアスを落とした。音を立ててピアスは、マリーの足元を転がった。

 大きな遮蔽物が無くなったマリーの耳を見た時、渉も私もハッとした。マリーの左耳は、まるで銀杏の葉のように、左右に先が裂けていた。

「この疵は、幼い頃にピアノに触れた私が、誤ってピアノの弦を切り、怒ったハンスがつけた疵なの……。祖母によれば、戦時中で弦がなかなか手に入らなかった。だから、怒って手にした弦が、思わず私の耳に当たり怪我をさせ、化膿して、疵痕が残ってしまったの。あなた方は、信じられる? こんな疵を、我が子につけた父親を……。優しいハンス・ベルンハルトは、ナチスのファシストで、自分の子供よりもピアノの弦が大事な人なの。私は、ハンス・ベルンハルトが憎かった。子供の頃から、朝起きると鏡に映る醜い疵を見て、母を殺し私に傷をつけたハンスを憎んだ。でも、無駄だったわ。耳の疵を見せても、ハンスは私が娘だとは気付かなかった」

 ハンスは、マリーの疵に気付かないわけはない。マリーの疵を、もの凄く気にしていたのだから。

「ガニエールさん、本当にハンスは何も言わなかったのですか?」

 ハンスが妻を殺したと聞いた後は、もう、これ以上は何も知りたくはなくなった。それでも、精一杯敢えて訊いてみた。

「ハンスは、表情一つ変えなかったわ。もし、何か疵について訊いてきたら『あなたがつけた疵よ!』と、今までどんなに恨んで暮らしたかを話した。もちろん、どうして母を殺さなければいけなかったのか? と子供の頃からずっと考えていた疑問も明らかにしてもらったはずよ。でも、あのハンスを見ていると、何を話しても無駄だと思った。二〇年前のことだから、今の私と変わらない歳のはずだけど、彼はもっと年老いているように見えた。うつろな目をして、私が誰かわからず、人が良さそうにただ微笑んでいるハンスを、責めるなんてできなくなった。帰ろうとする私に、寒いからとグリューワインを出してくれた。驚いたわ! だってハンスの右手の人差し指が欠けていたのだから」

 マリーは、私たち二人を見ると、また話し続けた。ハンスの指について、私たちが知っているかを確かめたのかも知れない。

「『その指はどうしたの?』と訊くと、『戦争が終わった後、慣れない商売を始めたら、つい、うっかり落とした。利き腕だから、大変でね!』と笑った。十歳で、ピアノの神童と言われてプロデビューしたハンス・ベルンハルトが、母を殺したハンス・ベルンハルトがピアノを満足に弾けない体になっていた。調律したばかりのピアノも、弦が切れて満足に音が出ないものがあった。目の前にいる、あれほど憎んだハンスが哀れに見えたの。だから、もういいと、娘だとも名乗らずに帰った」

 マリーに聞いた話は、ド・シャルメが話してくれたマリーの母の死とは、あまりにも違い過ぎていた。

 人の死の理由が、これほど異なっているなんて、あり得るのだろうか。戦争の混乱の中であっても、自分の母を殺されたマリーの怒りは十分に理解できた。

 カテドラルに登って見える汚いものは俺だと、ハンスが渉に話したのが気になった。

「今、話したようなわけだから、この宝石は受け取れないわ。持って、帰ってくれないかしら」

「それは、もう、ガニエールさんのものだから、処分は任せます」

 受け取ろうと手を出しかけた私を抑えて、渉がきっぱりと話した。

「じゃあ、あなた方の目の前で壊すか、その玄関から通りに向かって放り投げてもいいかしら?」

 マリーは、本当にやりかねない様子だ。ハンスから預かった先祖代々の宝物を持ち、通りに歩いて行こうとする。

「止めて!」

 マリーの前に体を出し、私は制した。

 ハンスが自分の母親を殺したとマリーは思い込んでいるだけで、間違っているかもしれない。今、壊したり紛失してしまっては、宝石が哀れだし、後で真実が違っていた時に、マリーも悔やむはずだ。

「じゃあ、これは持って帰って」

 マリーに会う前は、少々強引でも渡して帰ろうと決めていたが、私は宝石が入った小箱を、マリーから受け取った。

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