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ラ・カンパネラ  作者: Opus
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月光 Opus 3

『月光』を弾き終えると、カーテンコールに応えるため、二度ステージに立った。

 さすがに、誰もが満足したようで、場内が明るくなると拍手は止み、家路を急ぎ始めた。控え室に戻った私は、ステージ衣裳では冷えるため、コートを羽織る。

 コンサートでの演奏の終了が、今日の終わりではない。多くの他のピアニストと同じように、この後も仕事が続くのだ。

 レコード会社の担当者に案内され、ホワイエでの特設のサイン会場に移った。コンサート当日に会場で販売したCD購入者への即席サイン会を行うのは、名前が知れるようになった今も、少しも変わらない。

「今日は、先着五〇人に、整理券を渡しましたから、よろしくお願いします」

 一年前は、CDの購入者全員にサインをしていた。サイン会をしても、並ぶ人は僅かで、整理券の用意など必要なかった。

 レコード会社の担当者は、控え室から移動する途中に、今日配った整理券の人数を報告してきた。今日が五〇人だと、あらかじめ相談を受けていたわけではない。いつもそうだが、自分の知らないところで、全てが回っているようで、気分は良くない。

 時計は、九時に近い。一人に長く時間を掛けていると、五〇人なら、直ぐに一時間は経ってしまう。会場の都合もあって、早く切り上げるように、これまでも何度も注意を受けていたため、できるだけ時間を掛けないようにサインをした。

 サインを求める人の中には、いつもCDを購入してくれる男性がいる。グラビア・アイドルの場合には、写真集を何冊か買えば、ペア写真が撮れるなどのプレゼントがあるそうだ。

 私はピアニストだから、そんなサービスは、もちろん一切ない。同じCDを、何度も買ってくれるファンが多くなるほど、自分がピアニストでなくなっていく気がする。

 形だけ所属していた音楽事務所には、テレビやCMへの出演話も来ている。最初の頃は音楽番組だったが、最近は、お笑い番組の審査員まであるという。

 もちろんピアニストとして生きていきたいために、音楽雑誌のインタビュー以外は、全て断ってもらった。

 テレビ番組に出演した途端に、久木田陽子=ピアニストではなく、久木田陽子=“ピアノが弾けるタレント”になってしまいそうだ。

 ピアノを弾くたびに、いや、コンサートで『月光』を弾くたびに、最近は音が痩せていく気がしてならない。ときどき、このまま弾き続けると、私は、自動ピアノのような、空っぽな音を響かせるのかと、不安を感じた。

 ある世界的コンクールに優勝した女性ヴァイオリニストは、受賞後、一年ほどしてジュリアードに留学した。凱旋公演を続けているうちに、きっと、今の私のような気分になったのではないか。

 だが、私にはチャイコフスキーやショパン・コンクールに優勝した実績どころか、高位の入賞経験すらない。今のままではいけないと思いながら、これとした実績がない私は、今の地位から落ちたくないと恐れながら、人々の記憶から忘れ去られないように、虚しい音を響かせコンサートを続けるしかなかった。

 ピアノを弾くホールが大きくなり、弾く機会が増えているのに、純粋にピアノを弾くのが困難になっているのが、わかっていた。ピアニストとしての自分の能力、いや、限界を切実に知るからこそ、あれこれ藻掻くのだろう。

 神が与えた溢れるほどの才能があれば、こんな悩みは感じないはずだ。渉ほどの才能があれば、悩みもないだろうに……。

 私は、七年前に突然ふらりと何処かに旅立ってしまった、神崎渉をまた思い出した。

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