ガニエール家の終戦 Opus 1
ド・シャルメはさっき開けた窓から外を眺め、何かドイツ語のような、いやアルザス語で誰かに声を掛けた。建てつけの悪くなった窓を何度か動かして閉めると、荒い息をしながら、ソファに座った。少しイライラしたように感じたのは、話さずに済ませたかったことを、俺と陽子が話すように仕向けたのかもしれない。
「戦争は……、全てのものを変えてしまった。日常を旅人にし、それまで合うこともなかった絶望を友とした。人種的な偏見を含め、それまで正しくなかったことが、おおぴらに善となしました。悪人に善人の服を着せ、善人が着るべき着物を失わせたといえば、もっとも適しているのかもしれない」
ド・シャルメの言葉が再び響いた
「だが、そんな日々が永遠に続くことなどなかった。ソビエトがスターリングラードを死守し、東部戦線の破綻が始まりでした。ひとたび万全と思われたナチスの牙城が北の大地で崩れ始めると、あっという間だった。いや、今こうやって考えれば早いが、あの頃は一日一日が、長かった。四年余りを耐えれば、ナチスが去っていくとわかっていたら、このアルザスにおいて、どれほどの人が彼らに協力したでしょうか。Dデイの後、一九四四年八月にパリが解放され、ドイツはフランスから後退していきました。ドイツの敗北は、アルザスの人々を新たなる不安に陥れました。解放されたパリやいくつかの街で、いままで民衆を支配していた対独協力者が酷い仕打ちを受けた噂は、何処からともなく流れてきました。パリでドイツ人の愛人となった女性たちが集められて髪を切られた話や、対独協力者が即席の人民法廷の後に、リンチにあって殺された話などです。そんな話の中にはドイツ軍に徴兵されたアルザスの若者が、フランス語が十分に話せなく、アルザス語を話したためにドイツ兵と間違われて撲殺された悲劇までありました。フランスには、対独協力者もいれば、レジスタンスもいます。また、多くのどちらとも鮮明ではない人々がいました。だが、当時のアルザスは、ドイツに併合されたため、アルザスに残った者はみんなドイツ人であり、フランスの敵国人でした。それどころか、プロテスタントが多く住む街だけに、ナチスによるドイツ併合時にドイツ国民になることを積極的に歓迎した者が少なからずいたのです。そんなわけで、レジスタンスの活動家でもない限りは、この地に住む者は多かれ少なかれ何らかの協力をしていたため、ドイツの敗北が、不安の種でもあったわけです」
音楽の世界は、どうだっただろう。ユダヤ人で、亡命の道を選んだ音楽家はいる。だが、純粋なドイツ人でナチスを嫌って、亡命した音楽家は実際には少なかった。いや、ほとんどいなかった。ファシズムを嫌っても、家族や財産を全て捨て、アメリカや他の国に行くなど、当時は難しかったのだろう。ただ、それは第二次大戦中のドイツだけではない。俺が、サラエボで見て来たものも、同じなのだ。国を捨てるというのは、ものすごい勇気か、絶望のどちらかが必要なのだ。
母国であるドイツに残ったからと言って、音楽家は幸せではなかった。ナチスは、ワーグナーを積極的に用いるなど、芸術を、いや音楽を支配の道具として利用した。そのため、名のある演奏家は、ヒットラーの前での御前演奏は避けられず、戦後に多くの音楽家は戦争協力者として処分された。
ハンスが亡命の道を選ばなかったのは、当時のドイツの音楽家にとっては、ある意味では当然の選択だった。だが、どうしてハンスがSSの将校に成り、ピアノを捨てたのかが、俺には理解できない。
「連合軍は、厳しいフランスの東部戦線を闘い、一九四四年の十一月、アルザスに進撃してきました。砲弾の音が響き、ストラスブールが戦場になると噂が立ち、何処にも行けない人々は逃げ惑った」
何処にもいけない? きっと、アルザスの人々は、本当の意味でのドイツ人ではないから、ドイツの本国に逃げるわけにもいかなかったのだ。
「一九四四年十一月二十六日、フィリップ・ルクレール配下の第十二装甲連隊がクレベール広場に着きました。その時には、ドイツ兵は、Grand-Ileから消えていました。が、かといって歓喜の元に連合軍をアルザス人が迎えたわけではなかった。フランス兵を迎える人はまばらで、しっかりと鎧戸が閉められた窓が少しずつ開き、服従と悦びを現す小声の『ラ・マルセイエーズ』が聞こえ始めたのが、何よりもアルザス人の戸惑いを物語っていた」
興奮を覚ますように、ド・シャルメは言葉を止めた。俺は思わず、
「そのとき、ド・シャルメはストラスブールにいたのですか?」と尋ねた。
「私は、ブッフェンバルトに政治犯として押し込められていました。わかりますか?」
俺は、ブッフェンバルト収容所は知っていた。
「ナチスの強制収容所の一つですね。確か『L'Espece humaine(人類)』を書いたマルグリット・デュラスの……」
とまで言って、デュラスの夫の名前を思い出していた。
「あなたは、よくご存知ですね。終戦時にデュラスの夫であったロベール・アンテルムも同じようにブッフェンバルトにいたことがあり、運良く帰れた一人です」
ド・シャルメは、収容所でアンテルムと会っているのかもしれない。
「確か、亡くなった前フランス大統領のフランソワ・ミッテランが、病人ばかりの収容所を尋ねた時に『フランソワ! フランソワ!』と叫ぶ男を見つけ、歯の形だけを確認してアンテルムを連れ戻したと聞いています」
「そうでしたね。但し、それは、アンテルムがザッハウに移されてからの話です。収容所に入る前と出る時では、皆、何もかも元のままではなく、体も心も壊されてしまいます。たぶん、栄養失調と発疹チフスによって体を冒されたアンテルムは、きっとガリガリにやつれ、古くからの友人であるミッテランも、最初は顔の一部を見て確認したのでしょう」
そういって笑ったようにも見えたが、無理した笑顔であるのは直ぐにわかった。俺は、嫌な過去をド・シャルメから引き出しているのだ。
「でも、ド・シャルメなら、どんな所でも強く生きてこられたのではないでしょうか?」
陽子が、しっかりとした口調で訊いた。確かに、目の前の老人は、何処に行っても、どんな状況でも威厳を保って生きて来たようにしか考えられない。
「アウシュビッツに入れられ、生き残ったユダヤ人の医師であるフランクルの著書の中には『最も良き人々は、帰ってこなかった』と記されています。アンテルムをご存知なら、フランクルも知っているでしょう」
フランクルは『夜と霧』の作者で、アウシュビッツ強制収容所の囚人だったユダヤ人の精神科医だ。
「私だけではなく、誰にとっても不幸な時代でした。死が永遠の別れであっても、それ以外の別れがあるのを知った時でした。生きている人間が、名を変えて別人になりすましたり、行方不明や海外に消えたりと、いろんな別れが起こりました。この頃、ガニエール家で起こった別れは……」
ゴホン、ゴホンと、ド・シャルメは咳をした。陽子は、棚に置かれた水差しを見つけて、コップに注いでド・シャルメにだした。
ド・シャルメはそれをゆっくり飲むと、陽子に優しく礼を言った。
「ここから戦争が終わるまでは、私がガニエール氏本人から聞いた話です。今まで黙っていましたが、ガニエール家と我が家は何代にも渡って付き合いがあり、ガニエール家のパーティに伺ったように、お互いに親しい間柄だったのです」
ド・シャルメは、そうことわった。
十月の第二週には私の誕生日があり、この小説が載るときには、一つ年齢を重ねています。
子どものころ、人一倍体が弱く、小学生のころは、一年のうち学校に3分の1しか通学できなかったときもあったのが、今年はインフルにかかっただけで、それ以外は丈夫な日々を過ごしています。好き嫌いはない生活のおかげだとしたら、嫌いといえば、好きになるまで毎日同じものを食卓に出してくれた母のおかげだと、感謝します。
職場の同僚が、ウィーンに行ってきました。普段は、ほとんど無駄口もなく、少し仕事が遅くも思える先輩なのですが、フランス語も英語もペラペラだとか。ウィーンでは、楽友教会大ホール(ムジークフェライン)で、ウィーンフィルのオープニングシーズンの音楽を、ズビン・メータで聴いてきたそうです。
日本でも、新しいシーズンのはじまりです。NHK交響楽団のオーチャード定期の席を私も持っています。2015-16シーズンの開始は、この10月10日です(過去形ではないのは、この文章をその前に書いているからなのでお許しください)。席は固定で、4年ほど前に変更したのですが、音も、ステージもよく見えて気に入っています。そのせいなのか、周りの方もほとんど変わることがなく、私よりも年上の方々ばかりなのですが、いつもみなさん落ち着いた装いで音楽を楽しんでいらっしゃいます。10日には、そんな方々がまた元気な姿を見せてくれるのだろうか。言葉を交わしたことはないけど、再会できればうれしいですね。




