ガニエール氏 Opus 5
「……お二人に、家宝を渡すように頼んだ人は、どうしているのでしょうか?」
ハンスが今何をしているか、尋ねているのだ。ハンスは、もういない………。
「亡くなりました。三日前に……」
渉が手短に答えた。日本語だと、もっと装飾がつくのに、he died three days ago.とあっけなく聞こえた。
ハンスが逝ってから、もう三日も経ってしまったのだ。ストラスブールに発つ前に、ピアノの話をしたのが、昨日のように感じる。
「三日前に亡くなったのですか。彼は私よりも若い、はずですね?」
ハンスの詳細な年齢は知らないが、ド・シャルメと同じ(八十六歳)ではないのは、確かだ。
「ええ、たぶん」
渉がド・シャルメの受け答えをしてくれているので、私は、二人の会話を、ただ聞いていれば良かった。
さっきは、これ以上は話さないと示したはずのド・シャルメだが、今は、全てを語り始めているようにも思えた。
「そうですか。できますものなら、私はもう一度、彼が弾くピアノを聴いてみたい……」
何か思い出しているのか、また黙った。重苦しい空気の中、ただ時間だけが流れていく。
どれだけの時間が過ぎたのだろう。ファクシミリの音が部屋の中を流れ、長い静寂を破った。ド・シャルメが再び語り始めた。
「……異国の人には信じられないかもしれませんが、あの戦争が始まる前においても、このアルザスで、国境を接したドイツ人と、この地の者との幸せな結婚はありました。フランスのみならず、ヨーロッパの人々の中には、アルザスが血生臭い戦いの場だと考えている人もいるでしょうが、二つの国にまたがる祝福された結婚は、いつの時代もあったのです。あるドイツ人の若いピアニストと、裕福な家庭に育った、音楽が好きなこの地の女性が恋に落ちました。ドイツ人の若者は十代でデビューし、ストラスブールのオーケストラと年に何回かは演奏会を開く程の腕の持ち主でした。一度、ガニエール氏の家で、その若きピアニストの演奏を聴きました。素晴らしい演奏でした。ですが、不思議と私は、彼の演奏よりも、彼が優れた音楽家や芸術家にありがちな、わがままで身勝手な人間ではなく、礼儀正しい若者だったのを覚えています」
ド・シャルメは立ち上がると、サイドテーブルから、金糸に包まれた瓶とブランデーグラスを出した。《Delamain》という名の瓶を開けグラスに注ぐと、部屋中にブランデーの香りが漂った。
「医者からは、制限をされているのですが、私自身に一日一杯、軽くこの指二つだけは許したんです。ただ、いつもはディナーの後に飲むのですが、こんな昔話をしますと、自分で決めた決まりを破ってしまいます」
ド・シャルメはウィンクをすると、グラスに入れたブランデーに軽く口を付けた。一つ一つの動作や言葉が洗練されていて、時も何もかもが優雅に見えた。
「さて、お話を続けましょう。彼らが結婚する頃には、政治の分野でのナチスの台頭により、仏独の関係が怪しくなっていました。当時のフランスは、鉄壁と信じられたマジノ線を敷いていました。が、それだけでは足らず、ドイツに備えるためにアルザスとロレーヌでは、一九三九年九月に住民に立ち退き命令が出て、多くの人々は南西フランスに避難させられたのです」
昨日、支配人が、ド・シャルメが史学を学び、歴史の話が好きだと教えてくれたが、一度話し始めると止まらない。
本当に大学の講義の数倍も面白く、知らない事実ばかりだ。
「あのときは、商店は店を閉め、ペットの犬や、飼われていた鶏が餌を求めて道を彷徨ってもいました。人といえば、監視の憲兵と税関吏が歩いているような状態だった所もあったぐらいです。そのとき私は、このホテル・アルゲントラムがフランス陸軍幹部の宿舎となったため、僅かな従業員と共に、ストラスブールに残ることを許されたのです」
「それで、そのガニエールさんの娘婿は、どのようになったのですか?」
渉は、ハンスが気になるようだ。
「彼らが結婚したのは、確かこの前年でした。ドイツやオーストリアでは、戦争色が深まり、ユダヤ人が公職から追放され、音楽の世界でも同様に排除され、演奏家の絶対数が減っていました。また、ナチスのプロパガンダもあり、純粋なドイツ人の、優れたピアニストの需要は増すばかりで、この頃はガニエール氏の娘婿はウィーンに行き、演奏をしていました」
ハンスはウィーンでピアノを演奏していたんだ。フルトヴェングラーがいて、ケンプやバックハウスが活躍した時代に、新進気鋭のピアニストとして活躍し始めたのか。
「ナチスがポーランドを侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。鉄壁であるはずのマジノ線がいとも簡単に破られ、私の目から見れば、戦争らしい戦争もせぬまま、仏独間に休戦協定が結ばれました。そして、私たちのアルザスとロレーヌは、三度ナチスによりドイツに併合されました。アルザスの総人口の三分の一ともいわれる、フランスの南西部に立ち退いた人々は、ナチスのフランス政府への圧力もあり、続々と帰ってきました。誰もがドイツの、いや、ナチスの土地となった故郷には帰りたくはありませんが、新しい土地で上手くやっていける保証もありません。また、普仏戦争から第一次世界大戦まではドイツ領であった経験もあり、今までとおりにやっていけると信じたからでもありました」
ド・シャルメは、喉を潤すようにブランデーを口に含んだ。
「このときに、ピアニストとその妻は、ナチスから離れ、スイスやアメリカに亡命するのは十分に可能でした。ところが、ウィーンにいるはずのピアニストは、ストラスブールに妻を連れて戻って来たのです。それも、何が理由なのかわかりませんが、ピアノを捨て、ナチスのSSの少尉の服を纏って」
「どうして?」
渉が驚きの声を上げるが、ド・シャルメは続けた。
「多くの人が仕事を失う中、法律家であり、またアルザスのフランスからの分離独立を求める強硬な自治主義者であったガニエール氏は、娘婿の尽力の成果もあり、ドイツ当局とストラスブールの人々との間の法律問題を調停する仕事を得ました。そのおかげでガニエール家の人々は、戦前と変わらぬ生活を続けるができました。だが、これが不幸の始まりでした……」




