ガニエール氏 Opus 1
朝、十時に、渉と私が、昨日と同じ部屋に入ると、ド・シャルメが「ハロー!」と笑顔で挨拶をしてきた。
「今日、出発だそうですね」
ド・シャルメは、昨日とは違うアーガイルのセーターとグレイのツイード・ジャケットを着ている。
「貴重な時間をとっていただき、ありがとうございます」
今朝、私たちは、支配人に頼み、ド・シャルメと話す機会を設けてもらったのだ。
「お二人は、この後、日本へ帰るのですか?」
ゆったりとした調子で、ド・シャルメはこれからの予定を訊いてくる。英語であっても、ドイツ語であっても、わかりやすい完璧な発音なのは、ホテルマンとして長く働いていたからだろう。
「一度、ドイツに行き、その後、日本に帰る予定です」
「ストラスブールでの旅の日々が、お二人にとって、良き想い出となるのを祈っております」
ド・シャルメからは、私たちが、もう一度ぜひ相談したいと依頼したわけを、訊いてくる様子はない。渉は、昨日、話し過ぎたからか、どうも抑えている気がするため、私が話し始めた。
「ド・シャルメ。今日お願いしたのは、昨日も伺った、私たちが捜している人についてです。実は、ガンダーさんではなく、ガニエールさんならば、ご存じではないかと思い伺うことにしました」
ガニエールに対し、一瞬、ド・シャルメの目が緩んだ。
「また、どうして、ガンダー氏ではなく、ガニエール氏を捜すことになったのですか?」
と興味を持った様子で尋ねてきた。
テレビを見ていて、渉が突然気が付いたのだ。私から説明していいものかと、躊躇した。
「昨夜、アーセン・ベンゲルというフットボールのプレミアリーグの監督がテレビに出ていて、フランスのテレビ・レポーターが、アルセーヌ・ベンゲルと呼んだのです」
私が答え辛そうにしたので、渉がすかさず説明し始めた。
「アルセーヌと呼んだのですか。それは、けしからんレポーターだ! 名前はアイデンティティの一つであり、もしそのレポーターが言葉を大切にするフランス国民であったなら、正確に語るべきですね。アーセンは、けっしてアルセーヌではないのですから」
ド・シャルメの頬が、ちょっと紅潮した。
「ご存じなのですか? そのサッカー監督を?」
アーセン・ベンゲルを全く知らなかった渉は、ド・シャルメが知っているのに、少し驚いたようだ。ヨーロッパにおけるフットボールに対する想いは特別だから、有名なサッカークラブの監督は、テレビでもよく放映され、かなり知られているのだろう。
しかし、ド・シャルメは、アルセーヌではないと自分の名前を間違われたように話すが、ベンゲル監督はフランス人だから、アルセーヌが正しいのではないか?
「ご存じも何も。たぶんお二人以上に、私は彼を知っています。アーセン・ベンゲルは、ストラスブールで生まれ、この街の大学のマスター課程のディプロマを得た後に、プロのサッカー選手になったのですよ」
昨夜テレビで見た元Jリーグ監督のベンゲル氏は、ストラスブール出身だったのだ。
「じゃあ、アーセンは、アルザス語なんですね?」
「ええ、母なる言葉です」
渉はド・シャルメの返事に、きっと我が意を得たりと思ったのだろう。自信を持って、次の話をした。
「ベンゲル監督の名前が、アルセーヌと、アーセンと二つ呼び方があるのに気が付き、ガンダーも、実は他の名前があるのではと考えたわけです。私たちが手にしていたナチスの新聞には、フランス語名のガニエールは、ドイツ語のガンダーに改名すべきだと書いています。ガンダーさんは、フランス語名のガニエールを用いていたため、マリー・ガニエールが正しく――カテドラルの近所に住んでいた法律家も、ガニエールさんと呼ぶのではないでしょうか?」
ド・シャルメは、ちょっと微笑み、ゆっくり深く肯いた。
渉がドイツの新聞ではなく、ナチスの新聞と呼んだのは、ド・シャルメがドイツとナチスを明白に使い分けているのを真似たのだろう。




