ド・シャルメ Opus 2
Grand-Ileを散策を終え、私たちはホテルのロビーに着いた。時計は、十時まで残り五分を指していた。十時になると、支配人が出て来て奥の部屋に案内してくれた。
部屋に入ると、小さな暖炉に火が灯されている。赤茶色したレザーのアンティークなソファに、濃いモスグリーンのセーターに、仕立ての良いツイードのジャケットを羽織った老人が腰掛けていた。
細く通った鼻を持つ、気品ある顔を見た瞬間、私は三十年後の未来にタイムスリップした気がした。八十六歳の老人は、ホテルの支配人の体を一回り小さくし、髪を白く薄くした人物だ。
「父のエリック・ド・シャルメです。ド・シャルメと呼ばれています」
私があまりにも驚いた顔を見てか、支配人は笑った。
「失礼ですが、お二人があまりに似ていらっしゃるのに驚きました」
握手をし、一通りの挨拶をした後、私は少し緊張しながら、言葉を探し、フランス語で話した。
「いえいえ、私は八十六歳になる老人です。もし、息子ほど若ければ、きっとマドモアゼルをカフェに誘うどころか……、独身であったら求愛していたでしょう」
ド・シャルメの言葉が、昨晩の支配人の予想に求愛まで加えられているため、ド・シャルメ以外の三人は笑った。
「お二人は、ストラスブールには観光でしょうか?」
ド・シャルメは程好い抑揚の効いた、綺麗なフランス語を話す。
「三日前にストラスブールに来ました。ドイツに住んでいる、いえ、住んでいた友人に、人を尋ねて欲しいと頼まれて来たのですが、その用事を済ませたら、ゆっくり観光をと考えていたのですが、今はその人を捜すのにかかりきりです」
渉が、フランス語で答えた。
「それでは、街を観られてはいないのでしょう。カテドラルには登りましたか?」
と二人に訊いてきた。
「ええ、カテドラルには登りました」
そう私が答えると、ド・シャルメは、二度ほど満足そうに頷いた。
「そうですか。未だでしたら、カテドラルを訪れ、必ず登りなさいと勧めるつもりでした。古くからの多くの建造物を含め、カテドラルに登れば、いろんなものが見えます。ええ、カテドラルに登れば全てのものが見えます。全ての……」
ド・シャルメは、話し方の特徴なのか、話している途中で、言葉を止める癖があるのは、私たちは後で気がついたのだが、このときは何も知らなかったから、渉が口を挟んだ。
「……全てのものとは、全ての綺麗なものも、汚いものも、ですか?」と――。
どうも口が滑ったようで、ド・シャルメは、じっと話し終えた渉を見ている。
渉はハッとし、ド・シャルメの目が、ぎらりと厳しくなった。
「今日は、珍しいお客様が来たのかもしれませんね」
そう言って、ド・シャルメは笑った。微笑みに近い笑いに、なんとなく険悪だったのだが、それも一瞬に、吹っ飛んだ。昨晩、支配人から気難しい人だと聞かされただけに、ほっとした。
「ところで、お二人は、どちらから来られたのでしょうか?」
ハンスのいるカイザースブルクから来たとは言い難いため、「日本人です」とちょっと頓珍漢な返事を私がしてしまった。
「じゃあ、日本からですね。ご存知だと思いますが、このストラスブールは幾度も戦いの場所になった街です。ラインの川が流れる交通の要衝であり、東西、南北の道が交わる街道の街でもあります。フランス、ドイツといった大国の緩衝地帯に位置し、街を歩けばわかるように、フランスにあってフランスではなく、ドイツのようで、もちろんドイツではない街です。中世にはカトリックの国フランスにおいて、唯一の新教徒の街だったため、フランス新教徒の駆け込み寺といわれました。また、ストラスブール大学には、第三共和制下において《プロテスタント神学部》と《カトリック神学部》があったのです。ストラスブールで繰り広げられた戦争は、中世の戦争、農民戦争、司教戦争、三十年戦争、フランス革命と帝政期の戦争、普仏戦争、第一次世界大戦、そして先の戦争となり、国境が変わるのもしばしばで、戦争が終わるたびにフランス領となったりドイツ領となった街です。驚かれるかもしれませんが、第二次世界大戦が終わってから五十二年が経ちました。つまり五十年以上に渡って、ストラスブールは平和な時を過ごしたのです。ストラスブールが、アルザスがフランス革命以降、これほど長く何の緊張もなく、平和な時を過ごしたことはないのです。ストラスブールの歴史は、戦争の歴史と言って良く、戦争と共に生きてきた街なのですから……」
ド・シャルメの話が佳境に入ろうとすると、息子である支配人が口を挟んだ。
「父は、若い時に史学を学んだため、歴史を話すのが好きなのです。きっともうすぐボナパルトの話が出てくるでしょう。我が家の祖先が、ボナパルト、つまりナポレオン一世の時にアウステルリッツで武勲を立て、レジオン・ド・ヌール勲章をいただいた話が……」
ド・シャルメが支配人に何かぶつぶつ言うと、「私は、仕事があるので……」と支配人は部屋を出ていった。




