薄日 Opus 3
「マドモアゼル。もし戦前のことについて知りたいのなら、当時を良く知る者がいますから、話を聞いてみますか?」
「戦前って、第二次大戦の前ですか?」
息を吹き返したように、元気になった陽子が訊く。
「ええ、その前の戦争までは無理ですが、この前の戦争なら、よく知っています」
藁でもすがりたい俺たちだけに、もちろん支配人の申し出を断れない。
「その人は、すごくご高齢でしょう?」と、不安に思ってか、陽子が訊く。
終戦時に二十歳と考えれば、一九九七年の今は七十歳は越えている。だが、八方塞がりの今は、相手の年齢に文句は言えないはずだ。
「八十六歳になります。年は取っていますが、耳が遠いわけではなく、しっかりしています。ただ、少し気難しいので、その点は覚悟していただかなければなりません」
そう言って、支配人は微笑んだ。
「でも、女性には優しく、マドモアゼルならきっと、午後のお茶に誘うでしょう」
「是非、お話を聞かせてください」
固い笑をした陽子の隣にいた俺からも、支配人に頼んだ。
「では、少しお時間をください。予定を確認し、セッティングしますから」
支配人は、俺たちの前で電話をかけた。支配人の言葉は、ドイツ語だろうか。フランス語や英語ではないのは確かだ。
「今日は駄目ですが、明日なら午後なら二時、朝なら十時でどうかと……」
「時間なら、どちらでも結構です」
明日の予定が決まっているわけではなかった。いや、このままなら、もう一泊、延泊しなければいけないと考えていた。
「じゃあ、十時にこのロビーで、いかがでしょうか?」
支配人は、話し始めた時のように、慇懃な態度を崩さない。
「こちらに来ていただくなんて、そんな……。私たちが伺ってもいいのですが?」
陽子は恐縮して言った。
「それなら、心配は要りません。この近くに住んでいるため、何も気にしなくていいでしょう」
支配人は電話の相手に何かを伝え、受話器を置いた。
「では、明日十時に、ここへ来てください。これで、マドモアゼルの悲しい顔を見なくて済むといいのですが」
「ええ、見ていらっしゃったの……。でも、涙のわけは、尋ね人が見つからないからではないのですよ。ただそれは、私たち二人の秘密だから教えられません。ごめんなさい」
陽子は俺を見た。
「二人の秘密ですか。いいでしょう。これから結婚する人にとって、二人だけの秘密が多いほど、幸せに成れるはずです。夫婦の秘密が詰まった壷は、どんなにいっぱいになっても、溢れるものではありません。でも、夫婦の一方だけが隠しておきたい秘密を持ち始めると、秘密を仕舞った壷は、たちまち溢れてしまいます」
陽子と俺を見て、支配人は笑った。
部屋に戻る前に、俺たちは、延泊を申し出た。支配人から、満室だが、こうしたときのために空けてあるエキストラ・ルームを他の人に充てるので、大丈夫でしょうと言われた。礼を言って、一泊、延ばして貰うようにした。




