レクイエム Opus 1
シャワーの音が聞こえる。渉が、シャワーを使っている。どうやら私は、頭が痛いからとベッドに横になり、そのまま眠ってしまったようだ。
外は、真っ暗。時計を見ると、午後六時を回っている。初めて訪れた街を、一日中歩き回るのは、ピアノを弾き続けるよりも辛かった。ピアノ以外の仕事に就くのなど考えたくはないが、歩く仕事は、きっと私にはできないだろう。
首を、振ってみたら、間接がポキポキと鳴るだけで、もう頭の痛みはない。
頭痛薬は持ってきたが、使わないで済んだ。薬はできるだけ飲まないほうが良いと考えているから、ちょっと得をした気がして、思わず笑ってしまった。
カイザースブルクを発つ時は、ガンダーさんの家が簡単にわかると思っていたが、丸一日歩いた結果は全然駄目だった。
そうだ、渉がシャワーが終わったら、明日も今日と同じように探すよりも、一度カイザースブルクのハンスに電話をするように話そう。ぼんやりとしているのに、頭が回転してくれているのに、また笑ってしまった。
ハンスは「住所は《Strasborg Grand-Ile》で届くから、参考にはならん」と話してくれたけど、もう少し詳しくマリアの家の場所を聞き出せるはずだ。古くからの街並みが残っているから、どんな建物だったかわかれば、直ぐにわかるんじゃあないかしら。
しばらくすると、シャワーを浴び、髭を剃った渉が出てきた。
「陽子、起きたんだ……。頭は、大丈夫?」
どっちが寝起きかわからないような、暢気な声をしている渉に思わず笑ってしまった。この三日間、ずっと渉は同じ調子で、慌てたりしない。長い旅に出て、人間が一回り大きくなったような気がする。
「ありがとう。もう全然、痛くないわ」
大袈裟に頭を振って、大丈夫なのをアピールした。
「渉、ハンスに電話をして、もう少し詳しく場所を訊かない?」
私はベッドから、出た。
「俺も、陽子が起きたら、同じ話をしようと思ったんだ。出かける時にハンスの電話番号をメモしたよね」
「うん、ここにあるはずだわ」
手帳を出し、ハンスの電話番号をホテルの便箋に書いた。
渉が、部屋の電話を使ってかけてみた。呼び出し音は鳴るが、ハンスは不在なのか、電話に出ない。
食事に出掛ける用意をして、ホテルの一階に降りた。部屋の電話が悪いのかも知れないと、レセプシオンの脇の公衆電話から渉がかけたが、やはり電話には誰も出ない。
国際電話のかけ方を間違っているのかな? と渉が気にするため、渉に代わって私がかけたが、やはり長い呼出音が鳴るだけだ。
後ろからの視線が気になり、振り返った。支配人が、公衆電話の前で私たちが話しているのを、何をしているのかと、心配そうに見ていた。
ハンスは体の調子が悪いから電話に出られないのだろうか? それとも、ミッターマイヤーさんに連れられて、病院に出掛けたのかもしれない。
時間をおいて、もう一度、電話をしようと、食事を食べに外に出た。通りには、クリスマス・イルミネーションが輝いている。
ヨーロッパは、日本よりも高い緯度にあるため、冬になると日が短い。秋分の日が過ぎると、日が落ちるのが早く、凄く寂しく感じる。それだけに、クリスマスの飾りが、寂しさを紛らわせてくれる。
私たちは、ホテルから少し歩いた所にある、ビストロに入った。
食欲がない私は、前菜とスープとチーズだけの軽い夕食にしたが、渉は赤ワインをカラフェで頼み、鶉のソティを食べていた。旺盛な食欲というか、この三日間の衰えない渉の食欲には驚いた。
ホテル・アルゲントラムに戻り、もう一度ホテルの公衆電話から渉が電話をした。だが、やはり誰も出ない。
電話ボックスの前には、電話帳が置いてある。国語辞典くらいの厚さの、青い表紙のA4版のストラスブールの電話帳だ。
ガンダー姓を探してみたら、八軒だけ載っていた。ドイツ人のような名前だが、ガンダー姓は決して少ないわけではなく、結構あるようだ。
「渉、この人たちに電話を掛けてみない?」
「いや、ハンスに電話をして、確認してからにしよう」
確かに、突然、五十年前に住んでいた人を捜していますと電話がかかってきたら、どう思うだろうか。
電話を貰ったほうは、きっと驚いて、もしマリアさんや、関係ある人であっても違うと答えるかも知れない。渉が言うように、ぎりぎりまで待って、電話をするべきかも知れない。
しかし、ハンスのためにもマリアさんを必ず捜してあげたいが、歩いてみた印象は難しい。マリアさんが結婚していたら、姓だって変わっているはずだ。
以前からの場所に、全く違う名前で住んでいるかもしれないし、引っ越してしまい、ストラスブールに住んでいるかどうかもわからない。
それよりハンスは、住所は参考にならないと言ったけど、郵便物がハンスの所には返っていないのだから、ストラスブールで誰かが受け取っているはずだ。いや、郵便物も、転送されている可能性だってある。
何か手がかりはないのだろうか。とにかく、マリアさんを見つけなければいけない。
10月16日にブックマークに加えてくださった方、ありがとうございます。




