ラ・カンパネラ Opus 4
お
ハンスが渡してくれた楽譜に目を通した。暗譜していたものと違いない。
目で追うと、うまく弾けるかどうか自信はないが『ラ・カンパネラ』を弾きたくなった。鍵盤を、思い切りたたきたくなる。
何年ぶりだろうか。俺が、最後に『ラ・カンパネラ』を弾いたのは、きっと七年前だ。俺が学生で、何も考えずに、ただ毎日ピアノに向かっていればよかった時だ。
あの頃も、この曲は弾けるが、それ以上の満足な理解や音楽性などは求められても、答を示せるわけではなかった。練習によって鍵盤の上を押さえるだけで、いつも新たな課題が見えてきて、自分のものにできない曲の一つだった。
ピアノを本格的に学び、ピアノで生きていこうとした頃の俺でさえ、弾けると人前で断言できる曲ではなかった。それなのに『ラ・カンパネラ』の深く染み渡る鐘の音を鳴らしたくなった。
手を想像の鍵盤の上になぞってみた。弾いてみたいと思う『ラ・カンパネラ』の高音の鐘が、小さく少しずつ強く鳴りはじめた。頭の中を曲が進むにつれ、後頭部からジーンと悪寒に似た感覚が襲ってくる。
俺は手を休め、想像の淵をさ迷った。右手が嬰ニ音の鐘を鳴らしながら、一オクターブ以上も離れた下の節を歌い始める。音が進むにつれ、心地よい陶酔に浸った自分の姿が想像できた。
「弾いてくれるのか?」とハンスが声を掛けてきて、妄想が覚めた。弾けないと思ったのか、俺が持っている楽譜に手を伸ばしてくる。
俺は「できる!」と答えて、ハンスの手から楽譜を遠ざけた。「弾く」といえば充分なのに、「I can do!」と叫んでいた。
「ショウ。プロのピアニストでも、完璧なピアニストなんて、どこにもいない。ピアニストは、可能性があれば、試せばいい。完璧な音楽など存在しないのだから」
ハンスがちょっと笑って言った。リラックスさせようとしたハンスの最後の言葉が、俺を再び学生時代に戻した。
「完璧な音楽なんて、存在しない!」
課題曲を忘れ、弾きやすい曲を弾いている俺に、練習室で陽子が励ました言葉だ。
ピアノの世界は絶えず限界との挑戦であり、新たな克服は新しい命題を生む。あの時の陽子が今俺のそばにいて『ラ・カンパネラ』を弾けとせがむ、いや励ましているようだ。
(陽子! 陽子!)
一度も、好きだとも愛しているとも、伝えたことはない。学生時代、同じピアノ科で机を並べた女性だ。
誰から見ても、俺たち二人の関係は友人だけど、俺にとっては、二人とはいない特別な存在だった。陽子の声が、もう顔もはっきりとは思い出せなくなった七年前の陽子が、俺に『ラ・カンパネラ』を弾かせようとした。
高まる気持を抑えて、ベヒスタインの前に座り椅子を整えた。軽く憧れの貴婦人に触れてみた。
打鍵した時の鍵盤の感覚は思った以上に重く、少し間延びした音がハンスの店に響いた。この感覚は、このピアノが、どう見ても五十年か六十年、いやそれ以上も前からある古いピアノだからだろう。
響き出る音は、やはり古いベヒスタインのコンサートグランドの持つ特徴を、このピアノは持っている。
つまり一本のものを折り返した弦ではなく、それぞれ独立しているため、互いに共鳴しにくい。高音域は透明な音を持ち、ピアノのストラディヴァリウスと呼ばれる豊かな厚みを感じさせた。
少し指を慣らそうと弾いてみた。手は思ったほどの不安もなく、左手も右手もどれも滑らかに動く。ピアノから離れていたが、いつも頭の中の鍵盤で唄っていたからだろうか。
軽く叩いた音は、誰が整えたのか、一つとして外れているものはなく、綺麗な音を響かせた。時を経た白鍵は黄ばみ、わずかだが黒く染みている部分があるだけで、この曲を弾くには何も問題もないピアノだ。
俺は呼吸を整え、両手を軽く鍵盤の上に置いた。心を決め、音楽だけを考え、鍵盤を叩き始めた。
「『ラ・カンパネラ(鐘)』だ……!」と心の奥で叫んだ。右手は多くの黒鍵とわずかな白鍵を押さえ、左手は一オクターブ以上離れた下のほうで、哀しくせつない節を歌う。
リストが造った精巧な仕掛けは、上手く弾ければ弾けるほど心地よくなってくる。形式は極めてシンプルで、八小節と二十一小節以下の二つの主題が数回の長いパッセージやトリルを挟んで進んでいく。最後のストレッタに入り、Animatoのコーダへ……。
俺の右手も左手も、長いブランクがあったのを忘れたように舞い続ける。手が宙を飛ぶ感覚は、長い間、忘れていた充実感をもたらした。譜面は完全に暗譜できていた。不満を見つければ、鐘を表す嬰ニ音がキンキンと鳴るのが気になった。弾き切れたとはいえないが、問題なく弾き終えた。