カテドラル Opus 1
少し遅い昼食を終えると、渉と私はカテドラルに向かった。《メゾン・カメルゼル》は、カテドラルの直ぐ間近にあるレストランで、カテドラルの見学をすることにした。
物乞いをしている女性が、話し掛けてきた。ヨーロッパの街々でよく見る、ロマ(ジプシー)の民族衣装を着た人だ。私も渉も、直ぐに距離を開け、無視を決め込んだ。
ストラスブールの大聖堂に入った。カテドラルとは、司教が座る椅子(カテドラ=司教座)が置かれた教会をいう。
ストラスブールのカテドラルの尖塔の高さは百四十二メートル。ボージュ山地から切り出した岩で作られた、茶色に近い赤茶けた建物だ。
女性彫刻家のカミーユ・クローデルの弟であり、大正時代に駐日フランス大使でもあった、詩人ポール・クローデルは、このカテドラルを『アルザスの娘のごとき薔薇色の天使』と賛美した。高さ百四十二メートルの精密な彫刻を施された尖塔は、十五世紀から四百年にわたって、ヨーロッパのキリスト教世界で、一番の高さを誇った。
カテドラルの中は、観光客がたくさんいるのに、静かだった。ヨーロッパの古い教会に多い、黴臭い体の底から湧くような冷たさと、人々のくぐもった声が響いていた。
教会のなかには、残響音が優れ、ライブ録音に用いられるものがある。とりわけベルリンのダーレムにあるイエス・キリスト教会は残響音が名高く、録音施設まで持っている。古くはフルトヴェングラーやヘルベルト・フォン・カラヤンなどがタクトを振り、多くの名演が残されている教会でもあるが、このダーレムの教会の名を歴史に刻んだのはそれだけではない。ナチスがドイツを掌握した後、どこの大学でも講義の前にヒットラーへの敬礼を行うことになった。ボン大学のカール・バルト教授は、これを拒否した事を発端とした、反ナチズムのバルメン宣言の場となったのだ。ストラスブールのカテドラルを訪れると、音楽を学んでいた時に覚えた知識が蘇って来るのに、嬉しくなった。
高いファザードに、ステンドグラスから差してくる陽の光に目を奪われた。教会の中が天上に最も近い所である気になる。柱、天井、彫刻、ステンドグラスと、一つ一つが優れた美術品である古くからの建造物に目を奪われながら、三百二十八段ある暗い螺旋状の階段を、私たちは登り始めた。
途中で降りてくる人と出会うと、その度ごとに立ち止まって、すれ違うのを待った。
ときどき、僅かな広さの踊り場に出ると、小窓から外の景色を楽しむ。
「渉、また言ってしまう。ここから見ても、ストラスブールはフランスよりもドイツよね」
「ああ、同じことを考えたよ。これならドイツが再三に亘って自分たちの国にしたかったのがわかる。さっき道を聞いた新聞スタンドにも、ドイツ語の新聞がかなり並んでいた。本当にフランスなのかと思ったよ」
渉がいたサラエボのような所もあれば、国境線が何度も代わっても、幸せに暮らしているストラスブールのような街もあるのだ。
「ストラスブールの人は、自分たちはフランス人のつもりなんでしょう?」
歩きながら話すと、息が切れてくる。後ろに歩いている渉に向かい、声を大きくして話し掛けた。
「さあ、どうなんだろう。バルセロナの人たちは、自分たちはカタルーニャ人であり、その次にスペイン人だと考えていた。ストラスブールの人も、入国の時に提出する書類の《nashionality》の欄は、国籍を書かないで、Alsacien(アルザス人)って書くと聞いた記憶があるよ」
国籍や民族、人種などの問題は、いつもぼんやりとしか、私は考えていなかった。
「着いたー!」と先に登った私が大きな声を上げ、渉は後からやって来た。私たちは、プラット・フォームと呼ばれるカテドラルの上にある平屋根の部分に立ち、羽化したばかりの蝶のように、二人とも大きく手を伸ばしていた。




