姉弟 Opus 2
「もう直ぐ俺がピアノを弾く時に、姉が親族の控え室に俺を呼んだ。新婦が、披露宴席を離れるなど、そうあるわけではないし、姉の様子がただならぬように見えただけに、俺も何かと驚いた。」
どうしてなのか、この日のことははっきりと覚えていた。二人だけになると、姉は精一杯落ち着きを取り戻しつつ、唇を震わせながら話し始めた。
「『渉。あなたが、今日ピアノを弾くって、聴いたの。ごめん。私は、渉がピアノを弾くのも見るのも、聴くのも嫌なの。あなたは、私から故郷も両親も奪った。お願いだから、今日だけは姉さんの日にさせて』と姉は頼んできたんだ」
何が何かわからなかった、驚きの瞬間だった。七年前のことを思い出しながら話しているうちに、自分が高揚してきている。
「姉は、岩永さんとの結婚についても『あなたよりピアニストとして有望だと思ってつき合い始め、将来の約束をしたけど、まさか地元に戻って高校の教師をするとは思いもよらなかった』と愚痴るんだ。それどころか『渉が奨学生としてウィーンへの留学が決まったのを知って、ひどくショックを受けた』とも告げられたんだ」
初めて俺は、姉の結婚式で起こった出来事を人に話していた。陽子は聞くのに徹して、何も口を挟まない。
「披露宴で、俺は、酒に酔ったふりをして、ピアノを弾くのを断った。すると、俺の代わりに岩永さんがピアノの前に立ち、ショパンの『黒鍵』を弾いた。あの難曲を、花婿として結構な量の酒を飲んでいるのに、いつも通り寸分の狂いもなく演奏した。演奏はすばらしく、ピアノをやる者なら誰にも、岩永さんが姉と一緒になるために教師になることを選んだとわかるものだった」
しばらく、俺たちの間に沈黙が訪れた。料理が目の前にあるのは忘れ、回りの物音も耳に入らない。
「だから大学を辞めたのね?」
陽子が俺をいたわるように問い掛けてきた。
「俺はずっと、姉さんは幸せな人だと思っていた。まさか、俺にあんな憎しみを抱いていたなんて思いもしなかった。仲の良い姉弟のつもりだったけど、違っていたんだ。披露宴が終わりに近づき、来てくれた人に笑顔を振りまき、両親に涙を浮かべて花束を贈る姉さんを見ていると、会場にいるのが辛かった」
日本を発つ頃の自分を思い出した。姉から聞いた話を、誰にも口に出すまいとするあまり、心中はかなり荒れていた。
「直ぐに東京に帰り、冷静になると、今までどんなに自分が鈍感だったか、わかった。『あなたは、私から故郷も両親も奪った』と叫んだ姉を、直ぐに思い出すんだ。一家で札幌に引っ越した時も、俺はピアノの本格的なレッスンが始まり喜んだが、姉さんはしばらく元気がなかった」
俺はグッと水を飲み込んだ。炭酸の泡が口の中で跳ね、妙に辛く苦かった。
「だから大学を辞め、留学も諦めた。ピアノから離れるのが、姉に対してできる唯一の償いだと考えた。今となったら、もっと違う方法があったようにも思えるけど、あの頃は他には思い浮かばなかった」
嫌な話をしているせいか、さっきの炭酸の苦みがまだ口に残り、いつまでも消えない。だが一方で、初めて人に話して、姉の結婚式の時に背負った重荷が、軽くなったような気がした。
「もっと早く話してくれれば良かったのに。何も知らなくって、ごめんなさい」
陽子の目が真赤だ。俺も陽子も再び黙った。店の中は、さっきまでとは正反対で、俺たちのテーブルだけが沈んでいた。
「渉は、ピアノを辞めるの?」
七年もピアノを弾かなかった俺に、今日までずっと続けていたように、陽子が訊いてきた。
「辞めない。辞められない。昨日ハンスの前でピアノを弾いてわかった。ピアノを弾いている時が一番楽しいんだ。生きている限り、俺からピアノを取ったら、何もないのだから」
ピアノを弾く以上の楽しみなど、見当たらない。だからといって、長いブランクのある俺は、以前のように演奏ができる自信は全然なく、不安だった。
「リストは三年間、ピアノを弾かなかった」
「ああ、俺は七年間。大切な時間を無駄にした」
「きっと、無駄ではないわ。だって、昨日、私が聴いた『ラ・カンパネラ』は、渉の演奏の中で一番のものだった。今まで聴いた、どのピアニストの『ラ・カンパネラ』よりも、素晴らしかったわ」
信じられないような陽子の言葉が、日本に帰ってもう一度ピアニストとしてやりたい俺に、希望を抱かせた。
昨日(7月4日)N響オーチャード定期、シーズン最後の演奏、シベリウスのヴァイオリン協奏曲、演奏者のハーデリッヒ(Augustin Hadelich)の演奏は良かったですね。あんなに軽々と指が回るのと、曖昧な音がないといえばよいのか。




