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ラ・カンパネラ  作者: Opus
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姉弟 Opus 1

「渉は、どうして大学を辞めたの?」

 さりげなく装ったような陽子の言葉に、大きな渦に飲み込まれたような、引き返すことができない強い衝撃を感じた。

「ごめん、つい尋ねてしまった!」

 じっと目を逸らさず、陽子は俺を凝視している。たぶん学生時代から、訊きたいのを、今まで堪えていたのだろう。

「陽子がその話をするのは、初めてだね。他の人には、ピアノを弾く自信がないとか、いい加減な話をしてしまっていた。もし、七年前に陽子に訊かれたなら、どう答えるか困ったと思う」

 誰かを傷つけるわけではないが、陽子に嘘はつきたくなかった。

「そう……、だったの。私は今も、悪かったかなと思っているわ」

 陽子は、突然、理由も分からずに去った俺を追い掛けて、ヨーロッパまで捜しに来たのだ。今朝は、俺から一緒に暮らしたいとプロポーズしたのだから、尋ねる資格は十分ある。

「今で良かった。今なら、何も隠さずに話せるから」

 俺は、全てを話す決心をした。

「陽子はピアノを始めたのは幾つだった?」

 尋ねてきた陽子に、逆に訊いた。陽子も俺も、子供の頃に、ピアノを弾くたびに、繰り返して訊かれた質問のはずだ。

「ピアノに初めて触れたのは、いつかわからない。四歳でレッスンを始めた。その頃は、ほとんど聴音ばかりだったけど。うちは、父も母も高校で音楽を教えていたから、子供が何か楽器をやるのは当たり前だった。だから、当然といった感じで、私も妹もピアノを始めたの。よくある話よ」

 学祭にやってきた陽子と一つ違いの妹に、一度だけ会った覚えがある。目の辺りなどは、陽子にそっくりで、確か目白にある女子大に通っていたはずだ。

 陽子の妹は音大には進まなかったが「才能なら、妹のほうがあった」と陽子はよく話していた。

「よくある話だけど、俺にとっては羨ましい」

 俺は話を続けられず、ワイングラスに手を伸ばし、ゆっくり口に含んだ。次に話す出来事が、俺自身を窮屈に縛った。

「俺がピアノを始めたのも、四歳だった。でも陽子とは違って、偶然だった。三歳上の姉がピアノを習っていて、姉のレッスンに、いつもお袋と一緒について行ったんだ。レッスン室の隣に控え室があって、そこで待つんだ。ある日、控え室に、それまでなかったおもちゃのピアノが置かれたんだ。俺は、姉が弾いている真似をして、そのおもちゃのピアノを弾き始めた。誰に習ったわけでもないのに、姉のレッスンが終わって帰るころには、隣で練習している姉の曲を、ある程度弾けるようになっていたんだ」

 ベールに掛かったような幼児体験だが、あの日のことは、比較的鮮明に覚えていた。

「早熟かもしれないけど、でも珍しくはないわ」

 確かに、芸大の学生の中には、二歳でピアノを弾いた(つわもの)もいるのだから、珍しいわけではない。

「それは、俺たちが芸大で音楽を学んだ人間だからさ。北海道の片田舎では違った。両親といっても夢中なのはお袋だけど、直ぐに先生に話して、俺もピアノを習い始めた。その日から、家でも、姉のアップライトのピアノを弾かせてもらえるようになったんだ。幼い俺は、ピアノに夢中になった。先生は、姉よりも俺に手を掛けるようになり、ピアノ教室に行く姉と俺の立場が逆転したんだ。気が付いた時には、姉はピアノから離れていた」

 四歳の俺は、目の前にあるピアノを叩くのが、ただひたすら楽しくて、たまらなかった。

「じゃあ、渉のお姉さんは、弟のタレント教育のために潰れたの?」

「いや、姉はそんな馬鹿ではない。宿題があるとか、体の調子が冴えないと理由をつけて、レッスンは休みがちになり、お袋が何も言わなくなるのを待った。ピアノは止めたけど、成績は優秀で、大学も現役で北大に入ったんだから」

 私たちのテーブルに、シュークルートが運ばれてきた。塩漬キャベツを醗酵させワイン蒸にし、茹でたソーセージ、ハム、豚の足、ジャガイモが載った料理だ。

「俺が中学に入る時に、故郷の池田を離れることになった。父は、働いていた会社に札幌への転勤を願い出て、俺が新しいピアノの先生に習うために、一家で越したんだ。姉は高校に入る時で、札幌の高校を受験させられた。俺は、中学、高校と、札幌で二人の先生にピアノを教わり、芸大に進んだ」

 どこの大学に行くかより、誰についたかで決まる音楽の世界で、先生を得るために引っ越すのは、少しも珍しくはない。いい指導者を求めて、中学や高校で海外留学する者だって、今はざらにいる。

「姉は、俺が大学の三年生の夏に結婚した。相手は同じ道内出身で、芸大では二年先輩の岩永さんだった。岩永さんは、きっと陽子も知っているよね?」

「ええ、というか、渉からお姉さんと結婚するって聞いたように思うの?」

 姉の婚約者の岩永卓弥は、芸大の卒業生でピアノ科の成績優秀者として、大学オーケストラとの共演もしていた。だから、陽子も一度は岩永さんの演奏を聴いているはずだ思って俺は陽子に話そうとしたのだが、七年前に二人の結婚を話していたのだ。

「岩永さんと俺が初めて会ったのは、俺たちが中学の時だった。一緒に出た道内のコンクールでは、いつも岩永さんが一番で、俺は次か何らかの特別賞だった。姉は、学生時代に、友人の紹介で岩永さんと知り合い、二人は密かに交際していたんだ。岩永さんの芸大卒業後に、結婚相手として両親や俺に紹介してきた」

 俺はメートルを呼び、ペリエを頼んだ。ペリエはないが、替りのガス入りのミネラル・ウォーターを持ってきてくれた。

「岩永さんは、大学を卒業すると札幌に戻った。姉と一緒になるため、演奏家としてピアノを弾くのはきっぱり諦め、高校の音楽の教師になった。岩永さんが大学を卒業した年の夏――つまり俺が留学のために出発する直前の夏に、姉たちは結婚式を挙げた」

 俺が、姉の結婚式で帰省するのは、陽子には話していたから、知っているはずだ。

「結婚式の披露宴で、俺が新郎新婦のためにピアノを弾く予定だった。新婦の姉ではなく、結婚式当日に、ピアノの用意をしているから是非とも弾いて欲しいと岩永さんに頼まれたんだ」

 ピアノは披露宴会場の中に用意され、新郎の友人たちも音楽を学んでいる者が多く、即興でピアノを弾き盛り上がった。

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