ストラスブール Opus 3
ホテルを出て、少し歩いた。来る時も気がついたが、ストラスブールの街は、あちこちでクリスマス・イルミネーションが飾られている。
「渉、この地図と、ハンスが渡してくれた新聞の地図は、変わらないみたいね」
国境のそばの観光案内所で貰った英語のストラスブールの旧市街図を、私たちは広げていた。
「Grand-Ileは街全体が世界遺産にも指定されていて、戦争の被害もほとんど受けていないんだ」
本当に渉は呆れるほどよく、ガイドブックの情報を覚えていた。学生時代に、ピアノを叩いていたときの渉は、山手線と地下鉄の乗換駅も良く間違えたのに、別の一面を、この二日間は示している。
「今いるのは、ちょうどここで、ハンスが印を付けたマリアさんの家は、この辺りだわ」
渉に地図を見せた。
ハンスが教えてくれた場所は、カテドラルから直線で百メートルか、二百メートルしか離れていない。これなら、苦労なく見つけられそうだ。
「ガンダーさんの家は、今もあるのかしら?」
「さあ、どうかな」
「マリアさんを見つけて、宝石を渡したら、探偵ごっこはお終いね」
「ああ、そのほうがいいよ」
言葉少なに淡々と返す渉が気になった。やっぱりユーロップ橋を渡った所で話していたように、マリアを捜すのは、気が乗らないのだろう。
クレベール広場に来た。ナポレオン麾下の将軍で、エジプトで戦死した郷土の英雄を讃える広場だ。
クレベール広場は旧市街の中心の一つで、右手にカテドラルの尖塔が見える。
パリやランスのノートルダム寺院のように、二本の尖塔が多いフランスの中で、一本しかないストラスブールのカテドラルは、鋭角的に見える。本来は、南北二塔の設計だったが、地盤が弱いため現在の北塔のみの形になったと、ストラスブールに来る途中に、渉が説明してくれた。
「大きな島(Grand-Ile)なんだ」と私は、独り言を言っていた。
「陽子、クレベール広場のそばの建物は、普仏戦争以降にドイツ人が建てた物が多いんだ。だから、何も知らないで来たら、ここがドイツでフランスなんて思う人は、ほとんどいないだろう」
街を歩きながらも、その都度、渉が説明をしてくれる。専属の旅行ガイドが、付いているようだ。
ケールからホテルに来るまでは、一度だけ道を間違えたが、今は、カテドラルの尖塔の位置から、歩いている場所がわかるといって、すいすいと歩いている。
カテドラルに登るのは明日の予定にしていた私たちは、クリスマスの市が開かれているカテドラルの脇を通り抜け、ハンスが〇印を付けたガンダー家のあたりを歩いているはずだ。両端には、ブティックや様々な店が並び、観光客で溢れ、普通の民家は見当たらない。
「何か、このあたりって、ブティックやお店ばかり」
「確かに、人が住む場所なんか、どこにある? って感じだね」
ハンスは郵便物が戻ってこないから、届いているはずだと言ったが、マリアは引っ越していて、郵便物はどこかに転送されているのではないか、とつい考えてしまう。
「ねえ、美味しそうな生ハムが並んでいるわ」
イタリア、ドイツ、スペインの生ハムが並んだショウケースが道路に面していて、目に付いた。
時計は、午後一時を回っている。朝食も、ハンスの店で軽く食べただけだから、お腹が空くのも仕方がない。
「渉、チーズの匂いがするわ」
私は渉を引っ張って、小さな店に入った。店の中は、ハードからフレッシュまで百種類以上、二百種類近くのチーズが並んでいる。
「日本で百グラムが千円を越すミモレットの二十四ヶ月ものも、日本の半分以下だわ」
ミモレットは、一キロ百九十フランだから、百グラムなら、今のレートで四一〇円だ。
「陽子って、食べ物に目がないんだね」
こんな私を渉が見逃さない。
「渉もそう思うの? 恥ずかしい。うちのお母さんにもよくいわれる。ねえ、後で食べたいから、このミモレット買ってもいい?」
渉に何て言われても、ミモレットが食べたい私は、百グラムをカットしてくれるように頼んだ。
「百グラム」と指を一本出して、店主らしき男性が確認した。白衣のような服を着た女性が出て来て、両端を木で結んだピアノ線を出した。
ミモレットをカットし始めたが、あまりにも固いのか、ピアノ線が折れた。
「固いピアノ線が折れるんだね」
その時、新しく出した二本目のピアノ線も折れた。どうやら、折れたピアノ線がチーズを切っていた女性の手に触れたのか、手を押さえた瞬間、パッと鮮血が出た。
手を切った女性は、直ぐに店の奥に入り、他の女性が代わりに出てきた。ピアノ線は諦め、大きなナイフを取り出してチーズをカットした。
チーズのお金を払い、私たちは店を出た。手を切った女性には申し訳なく思いながら。
「ピアノ線で、あんな風になるんだね。ついマリアの疵を思い出してしまった」
私も、同じことを考えていた。
「渉、食べ物ばかり見ていたら、本当にお腹が空いちゃった。もうお昼はとっくに過ぎているし、食事にしない?」
目の前で怪我をする生々しい情景を見たので、気を取り直すように明るく誘った。
「今、買ったチーズで?」
「チーズは、ホテルで。ねえ、どこかに入ろう」




