指環 Opus 6
俺は、思いを隠さず話した。娘のマリアをカイザースブルクの誰にも話さず、内緒にしたいハンスは、何かストラスブールに秘密を隠している気がしてならない。
「つまり渉は、ストラスブールに行って『汚いものは俺だ』と言ったハンスを知るのが嫌なのね?」
サラエボで残酷な殺人を見てきただけに、ストラスブールに行くのは、何か不吉な予感がしていた。
「ああ、嫌なんだ。たとえ、それが……、五十年以上前であっても、戦争で人が何をしたのかは、もう知りたくないんだ」
「うん、その気持はわかるわ」
陽子の「わかる」が、意外だった。戦場にいた者しかわからないと思っていたが、俺が勝手に思い込んでいただけで、誰でも想像できる感情なのかも知れない。
「陽子、ハンスが渡した新聞は、アルザスが併合された時に、ストラスブールで発行されたナチスの新聞だ。さっきの改名リストは、日本が朝鮮半島でやったのと同じだよ」
「そうみたいね。私も凄く気になっていた。苗字を変えるなんて野蛮なことをするのは、世界中で日本人だけだと思っていたから。ヨーロッパでも行われていたと知って、驚いたわ」
陽子は、節目がちに俺を見た。
「ああ。でも、それはドイツ人だけではないよ。俺が、スロベニアで見た墓の中に、第二次大戦中にイタリア人のファシストが、墓石の名前をイタリア風に変えたものを見た。戦争は、いつもそんなものさ。ストラスブールでも、きっと戦争が人にやらせた醜い行いがあったはずだ」
「だから、渉はハンスとの約束を果たすのが嫌になったの?」
陽子は、最後を強調するように言った。
「ああ、うんざりさ。サラエボにいた五年間に人間の卑劣さを見た。昨日まで、同じ机を並べていた友人同士が、宗教や民族が違うからと殺しあう。覆面をして女性をレイプし、妊娠するまでレイプを繰り返し、子供が堕ろせなくなってから、自由の身にしたりするなんて考えられるか。誰が親かわからない子供を身ごもって、頭がおかしくなった女性や、捨てられた赤ん坊を見た」
一つを話すと、堰を切ったように口に出た。
「それだけではない。誰もいなくなった家に入って、巧妙なトラップを仕掛ける。トラップというのは、家の中に入ると爆発するように、地雷や手榴弾を置くというやつさ。一つの家で爆発が起こると、近くに住む人は、もう誰もその辺りの家には入れないんだ。目の前に自分の家がありながら入れない。これならいっそ、家がないほうがいいと思う。殺すだけでは足りなく、相手に絶望感を与えるために、戦争は、何でもやるのさ。考えられないほどの絶望を与えるのが戦争であり、そんなところから出て来た俺は、もう金輪際あの世界に触れたくないんだ」
「そう。本当に……」
陽子は、俺を励ますわけではなく、静かに言った。
「渉が嫌なら、止めない。このままカイザースブルクに戻っていいわ。指輪は、私が責任を持って届けるから」
陽子は、冗談ではなく、本気で一人で行くつもりだ。
「引き返すわけないだろ。ハンスがマリアに渡すのを頼んだのは、陽子と俺なんだから」
引き留められるものだと思っていた俺は、慌ててしまった。
「じゃあ、行こうよ。二人でストラスブールに、マリアさんに会いに」
陽子は爽やかに言い、ドイツに背を向けて、再び歩き始めた。俺は先を行く陽子を、追い掛けた。
「渉、私はストラスブールで何があっても、へっちゃら。ハンスの隠したのが、マリアさんの他にあっても、気にならない。だって、渉は、戦争が人にやらせた醜い行いって言ったでしょう。だから!」
素っ気なく話しているが、それとなく俺を励ましてくれているのが、良くわかった。




