ラ・カンパネラ Opus 2
朝のハンスの店を訪れる客は、俺の他には誰もいない。
朝、こうやって独りで食事をするのに慣れた俺は、余程の雨でも降らない限り、他の店や、ホテルで食べたりすることはなかった。毎日のように見るハンスは無口で、俺が席に着くと「今日はどうする?」と、同じ言葉を繰り返すだけだ。
俺は、ただこの店の静寂の中で、頭の中で今も鳴り響く嫌な音を忘れたく、ハンスの店を訪れていた。いや、それだけではない。他の所で、食事をせずに、ハンスの店を訪れたのは、この店には俺を惹きつける大きな魅力があったからだ。もちろん、その一つは、店主のハンスだ。
ハンスは、無口であるといっても、ブスッとしたり、しかめ面ではない。目が合うと、微笑む。その笑顔は魅力的で、サラエボでの生活で、笑うのを忘れてしまった俺も、つい惹き込まれた。
身長は一七七センチある俺よりもかなり大きく、それでいて、動作は、年齢を感じさせず、しっかりしていた。
体つきは、痩せているわけではない。かといって太っているわけでもない。多くの人生を語る顔は、若い頃はかなり美しかったのがわかる。
ハンスの店のもう一つの魅力は、店の奥にあるピアノだ。いつも静寂を装った、セミ・コンサートのベヒスタインのグランドピアノがあった。
この街に来た最初の夜に、俺は昼間に見つけたハンスの店を訪れた。ハンスの店は、外まで喧噪が洩れ、賑わっていた。
小さなビアジョッキの看板があるから、店には違いない。中からは声が漏れているとはいえ、初めて訪れた俺が入れるのかと不安に思い、戸惑いを満たしながら、ドアを引いたのだった。
東洋人が来るのは珍しいのか、客の会話が一瞬に止まった。
「グーテンダーク」
間髪を入れずに、言葉を掛けてきたのが、ハンスだった。
ハンスが席を勧め、注文を聞く頃には、何もなかったように、さっきと同じ声が響いていた。店の中を見渡した俺は、店の五分の一を占めるベヒスタインに釘付けになった。
あの日、ビールを何杯か飲んだ後、ベヒスタインに魅せられ「ピアノを弾かせて欲しい」とハンスに頼んだ。その時は「悪いが、初めての客には、弾かせないことにしているんだ」と、すげなく断られた。
あの夜以来、再びピアノを弾かせて欲しいと頼んだりはしなかったが、いつもベヒスタインが気になっていた。
俺は、食事を終え、街で買ったフランス語のストラスブールのガイドを見ていた。使い古したデイパックには、一泊するには十分な下着などを入れてある。
少し経つと、コーヒーで温められた体が、また冷えてくるのがわかった。小さな暖炉はあるが、今年になってまだ一度も使われていない。白く残った半年前の灰が、ただでさえ冷える店を余計に冷たくしていた。
店のなかの、小さな窓から、外を眺めた。空には、雲間にわずかな青い空が見えるだけだ。体が冷えた俺は、コーヒーをもう一杯頼んだ。
外は、ときおり窓を風が叩き、ヒュンと音を残し、ハンスの店を冷やして去って行った。
窓から見える空は、ますますどんよりとし、腰を上げようか悩んでいる俺を、懸命に止めているようで決心を鈍らせた。