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ラ・カンパネラ  作者: Opus
37/96

カーテンリング Opus 5

 ガタッと椅子を動かすハンスの音で、私の頭の中を満たした気まずい空気が、どこかへ流れていった。

 人の演奏を評価するよりも、日々の努力を欠かさない。昨日よりも少しでも上手くなれば、きっといつかは頂に登れると信じてピアノを弾いてきた。何度も自分の演奏に悩み、ピアノを止めようと考えたのは、一度や二度ではない。

 だが、いつも明日を信じて練習を欠かさずに、乗り越えてきた。ピアニストとして最も必要なのは才能ではなく、体力と気力だと考えている。頭を切り換える訓練なら、人並み以上にしていたのだから、「大丈夫よ、陽子♪」と自分に言い聞かせた。

 回りを見る余裕が出て、ハンスの姿を探した。カウンターに一番近いテーブルの椅子に座り、下腹に手をやりながら、何か考え事をしているようだ。

 渉は、私に目が合うと、手を伸ばし髪に触れてきた。私は、その手を持った。

「とっても、いい音が出るピアノだった。もう一度、弾いてもいいかしら?」

「ハンスに頼めば、きっとOKしてくれるよ」

 上野の杜が、ドイツに変わっただけで、私たちは学生時代に戻った気がする。それもそのはずで、昨日より前の渉との記憶は、全て七年前になってしまうのだ。

 ハンスに「もう一度、弾きたい」と頼んだら「お気に召すままに!」と快く承諾してくれた。

 私は、ゆっくりとピアノに向かった。さっき演奏した時の、身体を縛った緊張感は、もうなかった。自分のピアノの音を響かせるため、あの曲を演奏してみたくなった。

 そう、『月光』を! 『月光』は、コンサートの回数と同じと言ってもいいほど、多くの人の前で弾いてきた。世界中の同世代のピアニストの誰よりもこの曲を研究し、レッスンを重ねているはずだ。

『月光』の久木田陽子と呼ばれるのが嫌で、最近は人前では弾きたくなかったのに、今は目の前のベヒスタインで私の『月光』が弾きたかった。

 鍵盤に手を置き、ピアノを叩く。静かに音が広がり始めた。

 月の光が、湖に反射するように、音が煌めく。一音一音、明確にメッセージを込めて叩くと、磨いた音が、輝いて返って来た。低音が、想像した以上の音で響き始める。コンサートホールの、どよめきが聞こえるようだ。

 第一楽章を終えた。聴衆はたった二人だけど、いつになく心地よい。

 第二楽章、やわらかく、そして強く。相反する思いが、音になって響いている。迷いのない音が、舞っていた。

 第三楽章は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタの中でも、指を酷使する楽章の一つだ。それまできらきらと眩く輝いていた湖面が、嵐のようなうねりで始まる。

 重いはずの鍵盤が、普段に叩くピアノよりも、軽く感じる。

 手が夢中で動き、気が付いたら、ハミングを繰り返し、心地よい自己陶酔を感じながら、演奏を終えていた。

「ダンケ・シェーン!」

 ハンスが、拍手をしてくれ、英語ではなく、ドイツ語で叫んでいる。

「良かった。陽子は、あんな『月光』を弾くんだ。特に第一楽章は、弱いタッチの音の中に、幾つも音にグラディエーションがあり、墨だけで描いた山水画のようだった」

 渉は、立ち上がり、そんな風に私を褒めてくれる。

「そう! 嬉しい」

 今度は、納得できる演奏が出来、素直に言葉を返せた。

「あのベヒスタインが、私をもう一度、ピアノに向きなおしてくれた気がする。完璧なピアノね。ただ、一つだけ、上手く音が出ないけど」

「ああ、あの黒鍵(B)のことは、ハンスはわかっているはずさ」

 興奮し過ぎた私は、『ラ・カンパネラ』同様に、『月光』を演奏するにも必要がない、音がうまく出ない弦を口に出していた。

 静寂の戻ったハンスの店で、古いベヒスタインは、ツンとすました貴婦人のように、静かにたたずんでいる。

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