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ラ・カンパネラ  作者: Opus
36/96

カーテンリング Opus 4

 「昨日は断ったが、陽子は、今日はピアノを弾いてくれるのかね」

 人の好いお爺さんといった感じで、ハンスが、私に優しく訊いてきた。

「ええ、お願いします」

 私は、ハンスの店に凛とした感じで座っている、ベヒスタインをちらっと見た。

「俺には一ヶ月もかかったのに、陽子には次の日だ」

 渉が日本語でこっそり話して、笑う。

 私は、ハンスにピアノを開けてもらい、ゆっくりと座った。

 東京でコンサートを終えてから、二日、時差を正確に数えれば三日になるのだろうか。毎日、練習は欠かさないから、一日でも鍵盤に触れないと、随分と弾いていない気がする。

 ハンスの店のベヒスタインは、表面の黒が、鏡のように輝いていた。象牙で作られた鍵盤は、少し黄ばんでいて、茶色い部分があるのが、年代を感じさせた。

 軽く鍵盤を叩き、簡単に調律を確かめる。しっかりと整えられていて、私好みの音だ。

 ただ、一つだけ、音が上手く出ない。一番高い黒鍵(B)だ。二度ほど叩いて、渉を見た。

 渉も知っているようで、気にしないように、目配せをしている。

 確かに、これから弾く『ラ・カンパネラ』は、一番高い黒鍵(B)は叩かないだけに、気にする必要などない。

 身体を真っ直ぐにし、椅子を整える。目を塞ぎ、ゆっくり息を吸いながら、顎を上げる。いつもはステージライトを感じる瞬間だ。

 心を落ち着かせるために息を吐き、肩の緊張を解く。再び、息を吸いながら、鍵盤の上に指を置き、演奏を始めた。

 綺麗な、すっきりとした音が響いてきた。飾らず、できるだけ素直に、正確な音を響かせようと、心掛けた。

 ベヒスタイン特有の透明な音が、ハンスの店を舞っている。私は夢中になって、演奏した。

 演奏を終えた時は、意に反して、満足とはほど遠かった。力強さだけは出せたが、薄っぺらい演奏であったような気がした。

 ハンスは、私に「パーフェクト!」と言って手を叩いた。渉も、眩しそうに見つめてくれている。

「ありがとう!」とハンスに礼は言ったが、苦い思いがした。

 テーブルに戻って「どうだった?」と恐る恐る渉に尋ねた。

「良かったよ。ハンスの言うように、パーフェクトだった。テクニックは、昔どおりでずば抜けているし、何より、あんなに力強いピアノを陽子は弾くようになったんだ」

 渉は興奮した表情で答えてくれた。

「私は、まるで駄目だと思った。やっぱり渉のようには弾けない」

 昨日、聴こえた渉の演奏が素晴らしかったのは、ピアノのせいではなかった。ピアノを弾いていないはずの渉が、また一段と上手くなっていたのだ。

「そんなことないさ」

 私の言葉を真に受けていない。学生時代もそうだが、謙遜しているのではなく、渉は自分の演奏レベルに全く気付いていないのだ。

 私たちは急に黙り、ハンスが用意してくれた朝食を、黙々と食べ始めた。

 昨日から、ハンスの店にあるベヒスタインを弾くのを、楽しみにしていた。それなのに『ラ・カンパネラ』を演奏し終えた今の私は、打ちのめされた気分だ。

 惨めだった。

 七年間、ピアノを弾いていないはずの渉に、確実に差をつけられていた。

 毎日ずっと、欠かさずピアノに触れ、留学までして、人知れず血が滲むような努力を重ねていた私が、渉に対して、学生時代以上に差を感じるのは、屈辱を通り越していた。やはり私は、渉にとって聴衆でしかなかったのだ。

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