カーテンリング Opus 2
前から子犬を連れた人が「おはよう!」と明るく声を掛けて来た。昨日、バス停の前で、ホテルの場所を教えてくれた、親切な女性だ。
渉も私も、同時に「おはよう!」と、大きな声で返事をしていた。
「今朝は一人じゃないのね?」
私ではなく、渉に向かって話し掛けてくる。渉と、この女性は、知り合いなのか? 渉は彼女が話すドイツ語がわからないようで、どう返事をしていいのか、困っていた。
私は渉の腕をぐっと持って、胸を張って言った。
「恋人です!」
「あら、そうなの。道理で、今朝は、彼がいつになく楽しそうな顔をしていると思ったわ」
女性は、にっこりと笑って、そのまま、すれ違って去って行った。渉は、ポカンとして、私たちの会話を聞いているだけだ。
去って行く彼女の後ろ姿を見ながら、私は、昨日のお礼を言い忘れたのに、気がついた。
「陽子、あの人と、何を話していたの?」
渉は私たちの会話が、気になるようで、直ぐに訊いてきた。
「ナイショ!」
さっきの変な質問に対する、お返しのつもりだ。
「意地悪するなら、今日、ストラスブールで、フランス語がわからなくって困っても、助けてやらないよ」
大学では、渉は第二外国語をフランス語、私はドイツ語を取っていた。私たちは、英語もそれぞれの第二外国語も話せるほうだ。
私たちが学んだ東都芸大は、戦前にあった東都音楽学校と東都美術学校が、戦後に一緒になってできた大学だ。その前身もあってか、音校、美校とそれぞれを呼ぶ。音楽をやっている音校の学生は、元から耳がいいのか、語学は堪能な者が多い。
「さっきの人を、渉は知っているの?」
彼女が、昨日会った私ではなく、渉に話し掛けてきたので、訊いてみた。
「ああ、知っているといえば知っている。毎朝、ハンスの店に行く途中に出会って、トレッキングで逢う人のように、いつも挨拶してくるんだ」
渉は、風変わりな人のように話すが、小さな街なのだから、毎日のように出会ったら、挨拶してくるのも珍しくはないだろう。
「そうだったんだ。あの人が『今朝は素敵な女性と一緒で、いいわね』って話し掛けて来たのよ」
ちょっと脚色してみたら、「本当かな?」と首を傾げて、渉は本気にしない。
「え? こんな美人を相手に、何を言うの。ちゃんと『恋人だ!』と伝えておいたから」
私は渉を置いて、さっさと歩き始めた。追い掛けてきた渉が、また変な話の続きをして来た。
「陽子、さっきの話だけど、もし、俺が陽子と一緒になった後、その指揮者のように、他の女性に走ったら、どうする?」
私は、意地悪な話をする渉の手を、ギュッとひねった。
「だったら私は、渉を一生ずーっと恨む――なんて、冗談。愛がないのに、我慢してそばにいて欲しくはないから、さっぱりとした気持で送り出してあげる。ただし、慰謝料と養育費は、たくさんいただくから」
渉が、変な話ばかりするのが、気になった。時を掛けて育むべき愛が、一日で完遂したのだから、きっと渉も不安なのだろう。
私も、気にし出せば、際限がないほど、心配の種はあった。
渉は、他に好きな人はいないの? この七年間の間に、付き合った人は、いたの? そもそも、どうして旅に出たの?――と、確かめたい。でも全て、渉から話してこない限り、胸の中に締まっておこうと決めていた。
「陽子、俺たちは、やっと始まったばかりなのに、おかしな話をしているね」
渉から、話して来たくせにと、ちょっぴり思ってしまう。
「ええ。でも、もし、私が、逆に他の男性を好きだったら、どうする?」
今度は、私の番のように、ちょっと拗ねながら訊いてみた。
「今の俺なら、陽子を奪われたくないから、君を殺して一緒に死ぬかもしれない」
渉は、真っ直ぐ、私を見ている。
「ありがとう。なんか、プロポーズされているみたい」
渉の言葉が素直にうれしく、照れてしまう。
「ああ、できれば、一緒になりたい」
「本当に?」
決して嘘や冗談だとは思っているわけではないけど、つい訊いてみた。
「陽子さえ、よかったら、一緒になってくれないか。先のあてがあるわけではないけど、こっちで結婚式をやってもいい」
渉は、真面目に答えている。学生時代は、音楽を通じての関係で、一緒にいてもいつも音楽の、ピアノの話ばかりしていた。
よく思い出せば、渉は真面目すぎるくらいに、真面目な人だった。
「でも、ここじゃあ、結婚指輪がないから、困るわ?」
ちょっともったいぶって言ったが、話していて、笑みがこぼれる。
「指輪なら、大丈夫さ。教会で、カーテンリングを二つ貰うから」
渉は、自信を持って答える。
「カーテンリング……? カーテンリングが、私たちの結婚指輪?」
「何かの小説で読んだんだ。カーテンリングでは、嫌?」
つい反射的に、左手の薬指に付けられたカーテンリングを、想像した。
「全然。すごくお洒落だわ」
私は何もアクセサリーのない手を、宙に翳してみた。ダイヤやプラチナよりも綺麗なカーテンリングが、輝いているような気がした。




