カーテンリング Opus 1
朝、目覚めた時に、渉が私の隣に寝ているのを見て、ホッとした。昨日、起こった出来事は、全て夢ではなかったのだ。
私たちは、今日は、ハンスのお店で朝食を食べた後、ストラスブールに出かける予定にしていた。
昨晩、かなり草臥れた、としか形容しようがない渉のボストン・バッグに、二人分の荷物を詰めた。
着替え終わると、三日か、四日はストラスブールに滞在する予定で、私のスーツケースはホテルに預け、いったんチェック・アウトした。高緯度地方の遅い太陽が昇り、明るくなったばかりの外に出た。
この日のカイザースブルクは、昨日と同じように吐く息は白いが、風もなく、随分と暖かく感じる。首に巻いたマフラーが、なくっても大丈夫だ。
石畳の道に並ぶマロニエの木の葉は、渉によれば、昨日の風で落ちたという。確かに、落ち葉が吹き溜まりのように、あちこちに残っていた。
昨日この辺りを、一緒に歩いた時よりも、私たちは言葉数が少なかった。が、だからといって、渉が遠くに行ったわけではない。
街路樹を確かめながら、ハンスの店に向かった。
「陽子は、こっちに来て、俺がもし一人でなかったら、どうした?」
渉が突然、想像もできない話をしてきた。
「渉が一人でないって、渉に恋人がいたら、という意味?」
「まあ、そうだけど」
そんな話を淡々とされたら、私は首を傾げるしかない。まさか? なぜ? 急にと不安にもなる。
「渉に恋人がいる? そんなの全然、考えもしない。ただ、渉が、誰かと一緒でも、やっぱり自分の気持は伝えた」
やはり、ドイツまで捜しに来たのだから、このまま打ち拉がれて、すごすごと帰ったり絶対しないはずだ。
「陽子の気持ちって?」
渉は、わざとなのか、笑った。
「もちろん、渉が好きって……」と言い掛けて、気がついた。
昨日、私たちは一つになったのに、まだ「愛している」と、私からは渉には話していなかった。
「渉が好き! 愛しているって、しっかり伝えたはずだわ」
運河の水音にも邪魔されず、はっきり言った。
「じゃあ、俺が、もし結婚や婚約をしていたら」
今度は「結婚って、何?」とムッとした。
「結婚していたら、あんな葉書を送らないでしょう」
渉からの葉書に書いてあった「サラエボを離れ、ドイツの小さな街に来た」という文面を思い出した。
「確かに、結婚したとか、するとか、きっと書くよね」
一昨日までとは違う、想像もできない変化が起こったためか、私たちは、ますます変な、ちぐはぐな会話をしている。
「渉。たとえ、渉が結婚して、奥さんがいても、私は自分の気持を伝えた。渉が日本を出た後、ずっと忘れられず、愛していたと伝えたはずよ」
もしかしたら……。私が他に恋愛経験があるのは、昨日渉と結ばれた時に、知ったはずだ。渉がそのことを気にしているのかと、ちょっぴり不安になった。
「なんか陽子は、変わったね。ピアノ以外では、いつもすごく周りを気にしていたのに」
確かに、渉の言うとおりだ。ピアノに自信がついたせいか、今は学生時代のおどおどと、回りを気にしてばかりの自分とは違っていた。
葉書一枚で、ドイツまで来たのだって、自信の現れの一つだ。だが、ウィーンにいる時も、サラエボへ行こうとしたように、私は渉について考えると、昔から何も目に入らなくなるのだ。
「ウィーンに留学している時に、親しくなった日本人の女性がいたの。きっと渉の知らない人だけど、名前は、勘弁してね」
私は、留学中に知り合った友人の話をし始めた。
「彼女は、ウィーンで妻子のいる日本人指揮者と出会い、帰国後、二人は一緒に暮らしたの」
「うん、それで?」
相槌は打つが、渉はあまり興味を示さない。ピアノ科の学生は皆そうだが、自分のピアノに精一杯の人生を送ってきたからか、他人の噂話には普段からあまり興味がない。
「彼女は、彼の子供から父親を奪い、自分のせいで別れさせたと、悔やんでいた。でも私だって、今、渉が結婚していたら、きっと同じことをすると思う。だけど、私は彼女とは違って、悔やんだりは絶対しないわ」
今、渉と一緒になれるのなら、渉が結婚していたって、きっと奪おうとした。誰になんて非難されても一向に構わなかった。だって、ずっとこんなに愛していたのだから。




