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ラ・カンパネラ  作者: Opus
32/96

proud Opus 3

 トーマス(トム)・ヴェンダーというフリーの英国人ジャーナリストは、藪木が大のお気に入りだった。

 六十年代初めに、父親が、サイゴンの大使館で働く英国大使館員であったため、ベトナム戦争をつぶさに見聞したのがキャリアの始まりで、その後、三〇年あまりをwar correspondent(従軍記者)として、戦場で暮らしている。学生時代は東洋史の勉強をしMaster of Arts(文学修士)の学位を持ち、周りからはマスターやマスター・トムと呼ばれていた。並みの日本人よりは、東アジアのことには詳しく、中国語の四声だけではなく、ベトナム語まで操れる語学力を持つのは、ヨーロッパにおいて、会話に不自由しない藪木と似ていた。

 コソボへの取材のとき、俺と藪木は、マスターと同行した。

 少年時代を過ごしたベトナムを皮切りに、中東、アフリカ、チェコ、東ティモール、アフガニスタン、イラン・イラク等で経験した話を、この取材の折に、夜毎語ってくれた。

 マルクス主義によるソビエトを、人類にとって大いなる実験であったと、ベトナムで帝国主義と闘う共産主義者を見てきたため、少々コミュニストに肩入れをするマスターの姿は、どこの国でもインテリは、ラジカルな考え方を示すものだと思ったが、そんな彼が、母国であるイギリスが対アルゼンチンとの間で戦ったフォークランド戦争では、フォークランド諸島はイギリスの領土だと主張するのが意外だった。

 戦争は、人を変えるものだと、サラエボに来てから何度も思ったが、いくつもの戦争を見てきているオックスブリッジ出身のマスターまで、自国の利益を優先させる姿を見ると、この世から戦争がなくならないのも、わずかだがわかる気がした。

 そんなマスターに、俺が、サラエボにおける、売春婦の話をしたとき、マスターはビアフラというナイジェリア東部に短い期間だけ独立した国の話をしてくれた。

 Year of Africa(アフリカの年)といわれた一九六〇年に独立したナイジェリアは、三つの部族による争いが耐えない国だった。六十年代の後半、内陸部にあたるナイジェリアの東部に住むイボ族を中心とした人々は独立を宣言し、それを認めぬ、中央政府との間で内戦が始まった。

 東西冷戦によるイデオロギー合戦が華やかな中、地下に潜る石油利権もあり、各国の複雑な事情により、戦いは直ぐには終わらなかった。四方を囲まれたビアフラは、中央政府による経済封鎖によって、物資は困窮し、飢餓やジェノサイドが行われたという。

 ビアフラでは、一九六七年から一九七〇年の三年半に、二百万人の餓死者を出したという。ヨーロッパを震撼させたボスニア・ヘルチェゴビナ紛争では、一九九二年から九五年までに二十万人が死に、二百万人の難民を出したのだが、餓死者だけでボスニア・ヘルチェゴビナでの難民数と変わらないというのだ。

 そんなビアフラにマスターは、赤十字の輸送機に上手く乗り込み、車に揺られてある街に来た。そのとき、若い娘が声をかけてきた。栄養不足のために、色素まで薄く見える娘の身なりは、汚れてはいたが、いいものであるのがわかった。ある部族のかなり良家の出の娘は、自分や家族のために食料を得ようと、身の回りの財宝を武器商人たちに売った。身に着けているものの価値がいかほどかもわからぬ娘であったため、信じられないほど少ない食糧と交換したこともあったようだ。もう何も他に売るべきものがなくなった娘は、自分の体と交換にあるものを得ようと、マスターに持ちかけたのだ。

 トムが、体はいいからと、娘が望んだものを渡そうとしたら、「物乞いではないから」と強く拒絶した。高貴な出のビアフラの娘は、生ある限りたとえ身を売っても施されることを望まなかった。

 このとき、マスターが渡そうとしたものを聞いたとき、俺は驚いた。娘が、自分の体と引き換えに、手に入れようとしたのは、『塩』だったというのだ。内陸部にあり、経済封鎖によって手に入らない貴重なミネラル源とはいえ、塩を売るために身を売るというのだ。戦いがなければ、そんな惨めな思いをする必要もなく、幸せな生活を保障されていたはずなのに……。

 飢餓の恐怖に身をおきながら、施しを拒む気高い娘の話を教えられてから、俺の戦場における売春への思いは複雑なものに変わった。セックスを終えた女にミルク缶を渡すときの、藪木のサディスティックな振る舞いの理由がわかるような気がした。


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